(8−3)ウロボロスの竜①
「このパン屋さんが一番わかりやすくて……ほら、軒先のお店の看板の下に、竜のマークが入っているでしょう?」
ディアナはそこに人差し指を向けた。
ジェニー母さまは、「本当ね」とうなずくと、しげしげとその木彫りのプレートを見た。
昼食後、まっすぐにこの店にやってきた。
この村にあちこち見られる「ウロボロスの竜」たちをロニーの両親に見せるために。
ロニーとふたりで初めて村を散策した時に、たくさん見つけたのだ。
店の看板、窓辺の植木鉢、井戸のへり、小川にかかった橋の欄干に、はたまた道ゆく女の子の飾りリボンの刺繍にまで——ぽつりぽつりと様々な角度から目に飛び込んでくる。
手帳にすべての目撃場所と状況を、ささっと速記でメモしてあった。
「ここのパン屋のご主人に聞いてみたら、火除けのまじないの絵だって教えてくれて」
高温のかまどでパンを焼くのが商売の店だ。安全に火を使えるように竜に願をかけ、その姿を描いて、家屋を守ってもらっているのだという。
その時、ディアナは思わずご主人に尋ねた。
『でも、竜って怖くないですか?』
『何言ってるんだい。うちの村の竜の絵は、みんな可愛らしいだろ。一生懸命に村を守ってくれている竜様が、おっかないわけがない。万が一、村のどこかで火事が起きようものなら、あっという間に雨を降らせて消してくれるのさ』
大きな体を愉快そうに揺らすパン屋の主人は、竜のことをまるで友人みたいに親しげに誇る。
他の村の人たちも、たいてい同じような反応だった。
「ずいぶん大切に祀っている様子でした。確かにこの村のウロボロスの竜の絵って、表情に何だか愛嬌があるというか、とっつきやすそうな雰囲気で。それでなんだか拍子抜けしてしまって……」
ディアナに張りついた紋章とは、印象がだいぶ違うのだ。
腕につけられてしまった魔術紋の竜は、横顔で、目が険しくとんがっている。大きく鋭い牙のある口を開けて、自分の尾を容赦なく冷酷に飲み込んでいる。永遠に吐き出すことはないだろうというのが伝わってくる、緊迫感のある意匠だった。
一方、村の竜の絵といえば。
くりっと目が大きく、正面を向いたその顔は、どこか人懐っこい犬みたいな雰囲気を漂わせている。
さらに自分の尻尾の端を、はむっと軽く咥えてはいるものの。
自分の尻尾を追いかけ回して夢中で遊んでいるうちに、うっかり口の中に入っちゃいました、どうしようかなぁ?みたいな飄逸とした趣きが漂っていた。
「うん、ディアちゃんの魔術紋とは確かに別物みたいだよねぇ。こっちの竜は、とてもゆるくて軽いなぁ。嫌いじゃない」
ダニエルは、看板の中からこちらを見ている竜に視線を合わせて、軽く手を振ってみせる。
「そうね。普通、『ウロボロスの竜』といえば『死と再生』の象徴なのだけれど。これを見ていると、もう少し違った意味でも受け取れそうよね」
そう言いながらジェニーは、すっかり第3魔術師団所属の王宮魔術師の顔だ。自分の手帳に真剣にメモを取っている。
もともと歴史研究が専門の人だ。こういう珍しい事象を見ると、心が躍ってしまう気持ちはよくわかる。
ディアナも踏み込んで調べてみたいと思いながらも、この村には図書館も資料庫もなかった。
図書館のある最寄りの街まで1日かけて出かけるか、王都に戻ってから調べるかの2択しかない。
不用意に村を離れるのも躊躇われ、今日まで棚上げにしてしまっていた。
書き終わると、ジェニーは手帳をぱらぱらと前にめくった。
「以前、王立アカデミーで『ウロボロスの竜』についての研究発表があったわよね。ディアちゃん、知ってる?」
「はい! 確かにあの論文で、各地に多種多様なデザインの竜が見られるって書いてあったけど……。こんな愛らしい姿になることもあるんだなぁ、ってびっくり」
「もともとの伝説の発端が、竜が人間の女の子と恋に落ちました、って話だものね。これくらい親しまれている場所も、そりゃあるわよね」
ウロボロスの竜の伝説自体は、この国に限らず、大陸のあちこちに伝わっているものだ。
昔々、まだ世の中に魔獣というものが棲んでいたころ。
魔力を持つ生き物の頂点に立つのが竜たちだった。
ある時、一頭の竜が、山で道に迷った娘と出会い、一目で恋に落ちる。
そこから先のストーリー展開には、土地によって様々なバリエーションがあるけれど、結局娘は竜の子どもを授かって、男女の双子を産み落とす。
それが最初の魔力をもった人間で、魔術師の祖となった——という締めの部分はどの話でも共通しているらしい。
竜は自分の子どもである魔術師たちに祝福を与え、死してなお自らの力を循環させ、注ぎ続けているのだ。
尾を飲み込むもの、という古語に依って、その竜は「ウロボロス」と呼ばれている。
「これくらい平和な竜が理想だよねぇ」
ダニエルの笑いに若干の苦いものが混じる。
伝説の内容が内容なゆえに、数百年前から独立王国を夢見る魔術師たちの間で、理想の旗印としても使われている。
ディアナはブラウスの上から、そっと竜の紋章を押さえた。
——もしかしたら、あの得体の知れないナリック・タンゲラーという男性も、その一味なのかもしれない。
もっと竜の絵を見たいというジェニーのリクエストで、村の中を次から次へと案内していく。
ディアナは歩きながらふと思いついて、顔を輝かせた。
「村から少し離れた滝に、竜に願掛けをする小さな祭殿があるらしくて。明日行ってみようかな、ってロニーと話してたの。ジェニー母さまも一緒に行きます?」
「それはいいわね。すごく行きたいのだけれど……」
ジェニーは言葉を切って、自分の夫を見る。ダニエルは、ひどく残念そうに首を振った。
「僕らは今回、日帰りだからねぇ。寝る前には、移動魔術で王都に帰らないと。あっちをあまり長く空けておくわけにもいかなくてさぁ。宮仕えなんて不自由この上ないよ、まったく」
ぼやきながら、ダニエルは隣を歩くロニーの腕を自分の肘で小突いた。
「ともあれ、お前たちが元気そうで本当に良かった。せっかくだから、ふたりでもう少し骨休めしておいで。まっ、後でちょっとだけ仕事の話をさせてもらうけどね!」
その宣言どおり、ダニエルは隠れ家の山荘に戻ったあと、ロニーと談話室にこもって何やら話し込んでいた。
その隙に、ジェニーとディアナは、キッチンに立つ。
村で買ったばかりの新鮮なミルクとバターを使って、手早く大量のスコーンを焼いた。
「素材がいいと、いつもより格段に美味しく感じられるわね!」
焼き上がりを試食しながら、ジェニーは大喜びだ。
ディアナも試食と言うにはかなり多い量を胃袋にしっかり収めて満足してから、粗熱の取れた残りのスコーンを半分ずつに分け、お土産用に手早く布にくるんでまとめた。
「ジェニーさん、こっちの包み、持って帰ってね。こっちは村で買ったベリーのジャムね」
「ありがとう。ディアちゃんのことをいっぱい思い浮かべながら食べるわ」
「私も!」
ロニーの両親はその後、昼食とは別のレストランで夕飯を4人で食べ、隠れ家の山荘のウッドデッキから見える一面の星空に思いっきり感動し、
「次は絶対泊まりがけでくるぞー!」
という切実なダニエルの叫び声ひとつを残し、風のように王都に帰っていった。
「突然だったけど、楽しかったねー!」
「そうだな」
生返事ひとつを返したあと、ロニーはウッドデッキに座り込んだまま、ずっと何かを考え込んでいる。
先ほどダニエルと何を話していたのか、黙って一言も漏らさない。
そういう時に、詮索してはいけないことぐらい、よく分かっている。
ロニーの仕事の邪魔をしたくはない。
だからディアナは、翌日の遠出に備え、ランチボックスの準備を進めることにした。
といっても、チーズがたっぷり入っているパンのかたまりを布巾で包み、ナップザックに入れたくらいだ。すでにさっき焼いたスコーンと、村で買ったジャムの瓶も入れてある。おかずのチキンと野菜のソテーは、明朝出る直前に作ればいい。
そして順調に予定通りの翌朝が来て、予定通りの道のりを歩く。
願掛けの竜の滝まで、片道2時間の道のりだという。
ナップザックを背負って、編み上げの軽登山靴を履き、鳥打ち帽をかぶってスボンを着用して。すっかりハイキングを堪能する人の格好だ。
「一度こういう格好をしてみたかったんだよねー!」
「そりゃ良かった」
道々に建てられている案内板の矢印に従って、鼻歌まじりに進んでいく。
足元がしっかり整備された快適なハイキングコースだ。
村を出て、立派な山の景色を堪能しながら牧草地帯を抜けてゆるやかにくだる。
木の茂る台地にたどり着き、村を出て1時間以上は経った頃。
「何かな……?」
「何だってんだよ」
ほぼほぼ同時に、ディアナとロニーはつぶやいた。
目を見合わせる。
——何か、ついてきてるよね……?
——ついてきてるな……。
——どうする?
——どうするって、そりゃぁ。
目だけで会話して、一瞬で結論が出た。
——そりゃぁね!とんずらするに決まってるよね!
厄介ごとの気配から、逃げるに越したことはない!
ロニーが素早くディアナの肩を抱いた。