(8−1)突然のバカンスです①
「平和だねぇ」
「平和だな」
昼下がり。ウッドデッキのリクライニングチェアでひなたぼっこしながら、ディアナはふぁぁぁと気の抜けたあくびをした。
すぐに隣のロニーにもうつって、大あくびが漏れる。
正直、全然起き上がる気がしないのだけれど、一応言ってみる。
「どうしよ、コーヒーでも淹れようか?」
「いいんじゃねぇの、もうちょっと寝てても」
「そうだねぇ。筋肉痛が酷すぎて、できれば立ち上がりたくない」
「それな」
目をつぶったまま、ロニーは同意する。
しばらくすると、その口から安らかな寝息が聞こえてきた。
この山間の小さな村に、移動魔法で飛んで来てから今日で4日目。
着いた当初はここがどこかも知らず、いろいろ驚くことばっかりだったのに。もはやすっかり落ち着いてしまった。慣れって怖い。
ディアナはまたひとつ、あくびを漏らす。
眠ってしまいたいような、眠るのがもったいないような、とろりとした時間のはざまに身を委ねる。
空が青い。本当に平和だ。
今、滞在している家は、山の斜面に作られたその村の中でも、高台の方にある。
村のどこにでもあるような、木の三角屋根と白壁で作られた3階建ての家。2階に大きなウッドデッキが張り出している。
魔術で適度に空調と調光とを効かせたデッキは、屋外なのにまるで居心地の良い温室状態だった。
ふたつ並んだリクライニングチェアが最高すぎて、朝ごはんを食べ終わってから今まで、ずっとふたりでゴロゴロしている。
デッキの手すりには、赤とピンクの花が咲きほこるゼラニウムのプランター。空の下縁を飾るように連なって掛けられていて、ほのかに甘い香りが漂ってくる。
可憐に揺れる花々のその向こうには、凛々しい山がふたつ寄り添っていた。
見事な正三角形が並んでいるような山々のシルエット。
王都に住んでいる人だったら、この景色を見たら、誰もがピンとくるだろう。
ディアナも、見た瞬間に思った。
——ヴェルニのミルクキャンディの包み紙だ!
おかげさまで、ここがどこなのか分かった。
国の南東部、ガラスト大山脈の麓。ヴェルニという山村だ。
王都からは、列車と馬車を乗り継いで丸2日はかかる。
50年ほど前、その山並みの美しさを高名な詩人が讃えたことが評判を呼び、景観を楽しみながら歩くハイキングコースが完備されてますます話題となった。現在は富裕層の旅行地として定評のある場所だ。
さらにお土産のミルクキャンディが大人気になって、今では王都のあちこちの食料品店に定番商品として並んでいる。
その包み紙を見た瞬間に、口の中で甘く優しく溶けていく飴の味を思い出せる。そのくらい何度も食べているから、この山々も見間違えるはずがなかった。ついこの間も、職場でパムからお裾分けしてもらったばっかりだ。
そんなふうに到着直後は、まさかの超有名観光地に来てしまったことに気づいて仰天したものの。
夕日の名残のひとすじに照らされながら、このウッドデッキが室内並みに快適なことを発見し、リクライニングチェアをフラットにしたら簡易ベッドになることに気づいたディアナは、すっかり大はしゃぎしてしまった。
「絶対ここで寝たい!満点の星空を見ながら寝られるなんて奇跡すぎる!……でも、着替えとか、何にも持ってきてないね。どうしよう」
「気にすんな」
こともなげに言うと、ロニーは客室のクローゼットを開ける。
「え、なんで?」
思わず声に出してしまう。
どう見ても、見覚えのある服ばかりが並んでいた。
「こっちは、ディアのやつな」
「……もしかして、おうちのクローゼットと空間をつなげたの?!」
「そ。そっちは靴箱な」
「ひぇぇぇぇ、便利すぎる。あ、でも、金魚ちゃんたちの餌、どうしよう。長く家を空けるかもしれないなんて初めてだし……」
「それ」
無造作に指さされた先には、巨大な水槽が置いてある。
見慣れた金魚の姿に、ディアナは思わず拍手をしながら大喜びで近づいた。
覗きこんだディアナに気づいてわらわらと寄り集まってくる金魚の姿を、一匹一匹指さして確認する。
「魚雷ちゃんもマサルさんもミツクニさんもロマーノもカイテンちゃんも……みんないる! 一緒に揃って旅行ができるなんて、すっごい贅沢だねぇ」
「ちなみに家の花壇の水やりも問題ないから安心しろ。自動的に水をまくように術を組んでおいた」
「さっすがロニー!抜かりない」
「まかせろ」
これですっかり心残りが解消されてしまった。
しかもこの家は、人の目に留まらないよう幻惑の術が掛けてあるらしい。
ディアナはひとまず様々なことを棚上げして、思い切ってこの生活を楽しむことにした。
「でも、外をうろうろするのはまずいよね……?」
「いいんじゃねぇの。家の外を歩くときは、基本的に隠密魔術を使って気配を消す。飯食ったり買い物したりするときは、見た目を多少変える術をかける。それでまぁ問題ないだろ」
ロニーは試しに自分の髪と目をディアナみたいな真っ黒に変え、ディアナの髪と目をロニーみたいな金茶色と濃紺に変えてみて、ひどく満足そうにうなずいた。
翌日は、のんびりと村をそぞろ歩いた。
名物のチーズ料理を思いっきり食べ、ミルクキャンディの工房を見学して、出来立てでまだ柔らかいキャンディバーをかじってその風味の豊かさに感動し。
隠れ家のキッチンでも気が向いたら料理できるよう、新鮮な食材を気ままに買い込んだ。
昨日は、少しだけ遠出もしてみた。
村の周りには、のどかな放牧地が広がっていて、羊や牛が草を食む。
小型の馬に乗せてもらえる牧場で、念願の初めての乗馬を体験し、牛の乳しぼりや犬笛の吹き方も教えてもらい。
大感動して、そして今朝。
目覚めたら、猛烈な筋肉痛で全身がギシギシ悲鳴をあげていた。
自分の体の内側……そんなところにも筋肉ってあったのね?!と驚くくらい、いろいろな箇所が容赦なく痛い。
こんな壮絶な筋肉痛を何度も乗り越えないと乗馬をマスターできないなんて、近衛騎士たちはなんて凄いんだろう!
友人のエドワードのことを連鎖して思い出す。騎士の家柄の彼は、絶対馬にも乗れるはず。今度、楽に乗れるコツを聞いてみようかな。
とにかく今は出歩くのも勇気がいるくらいの痛みっぷりだ。
ディアナはあっさり白旗を上げた。それで、朝からリクライニングチェアにへばりついている。
「そろそろ読むかぁ……」
ぼんやりとつぶやいて、横目で眺める。悲鳴をあげる筋肉をなだめながら、ゆっくりと身を起こす。
サイドテーブルに、1本の論文の写しがある。
ここに来た日に、ロニーにお願いして一瞬だけ家の本棚と空間をつなげてもらい、取り出したものだった。
6年ほど前、王立アカデミーの魔術史学会誌に掲載された論文だ。
学会の口頭発表の時にも、速記を担当した。内容はほぼ覚えている。
それでもあらためて確認したくて、ゆっくりと読み始めた。
「なに読んでんの?」
ほとんど読み終えたタイミングで、声をかけられる。
横向きで肘枕をしたロニーが、じっとこちらをうかがっている。
ディアナは最後まで落ち着いて読み切ってから、「はい」とその論文を差し出した。
「アカデミーの論文だよ」
「何の?」
「『ウロボロスの竜』についての考察」
「……なるほど?」
それは、ディアナの腕にいまだに刻まれたままの魔術紋の通称だ。
ぴくりと眉を揺らしたロニーが、起き上がる。「痛てて」とぼやいて腰をさすりながら、論文に目を走らせる。
やがて、ぱさりと音を立てて論文がディアナの手の中に戻ってくる。
無言のロニーに、ディアナは笑いかけた。
「実はさ、この村で気になってることがあるんだけど」
「だよな」
「そろそろ、確かめにいく?」
「うーん、めんどくせぇけどな」
ロニーはガリガリと頭を掻いた。
「でも、いつまでも保留にしてても仕方ねぇしなぁ。あと、まぁ、ちょうどいいタイミングかもしれねぇ」
「ちょうどいいの?」
「うるさい客が来たから出かけるか」
「お客さん、ってだれが、」
言いかけたディアナの耳に、ドタドタと階段を元気に駆け上がってくる音がする。
ウッドデッキにつながるドアがバァァーンと勢いよく開かれる。
その人は思いっきり目尻を下げて、これ以上なく両手を大きく広げてまっしぐら、ディアナのところにずんずん早足で近づいてくる。
力いっぱい抱きしめながら、大きな声でのたもうた。
「やあやあ、お待たせ!超絶かわいいうちのディアちゃんと、若干かわいいうちの次男よ、元気だったかーい!ダニー父さまの登場だよー!!!」
「いやいや、全然待ってないから……ってか、どさくさに紛れて俺のディアナに抱きつくな」
ロニーはいかにも嫌そうに父親を睨めつけて、ため息混じりにつぶやいた。