(1-5)10年前——王立学院1年生④
「ね、ねぇ、まだホームルームが残ってるよ」
「卒業単位に関係ねぇだろ。もういいよ」
「ええぇぇ」
ずかずかと歩き続けるロニーの後ろをくっついていったら、あっという間に校門を出てしまった。
確かに今日の授業はすべて終わっている。もう放課後と言えないこともない、かもしれない。
いまさら教室に戻ったところで、クラスメイトから質問攻めに合いそうだ。このまましばらく外にいたほうが楽な予感がする。寮には門限までに戻ればいい。
あっさり気持ちを切り替えたディアナは、ロニーの隣に並んで歩き始めた。
カンティフラスの王都は、世界でも一二を争う大都市だ。
田舎者のディアナには見知らぬものだらけで、街路を何度歩いても心が弾む。進んでも進んでも店があるし、どこまで行っても街が終わらない。
道ゆく人は誰もが忙しそうだし、知らない音や匂いでいっぱいだ。誰もディアナに目もくれないし、没落貴族だからってひそひそ陰口を叩く人もいない。むしろ落ちぶれた貴族籍の人なんて、この都にはごろごろ転がっているだろう。
「そんなにキョロキョロしてたら首もげるぞ」
冷たい声に聞こえるけれど、その目は冷たくない。だいたいさっきからディアナの学生カバンを持ってくれている。得体の知れないものを観察するような目で時々見てくるけれど、ロニー・ボージェスはいい人だ、たぶん。
「あの、ボージェスくん」
「ロニー」
「ロニーくん」
「ロニー」
何度も重ねられて、ディアナはあっさり諦めた。
「ロニー、どこに向かってるの、これ?」
「俺の家」
「え、もしかして、普通に帰宅中? 私くっついてきちゃったけど邪魔?」
「……その前に、あれ」
人の話を聞いているんだかいないんだか分からない顔で、ロニーは目の前の店にふらりと入っていく。
ドアを開けた瞬間、こんがりと小麦粉が焼けるいい匂いがした。
陳列ケースの中に、ツヤツヤしたパイがずらりと並んでいる。タルトとキッシュもある。どれも具がたっぷり詰まっているみたいで、見ているだけでも口の中にジュワっとよだれが湧いてくる。
そこはペストリーショップだった。人気のあるお店らしく、奥のカフェコーナーは満席みたいだ。
「おい、よだれ。こぼすなよ」
「ま、まだ、こぼしてない、はず。え、あれ?出てた?」
慌ててとっさに両手で口を押さえたら、ロニーが軽く吹き出した。一瞬だけ、幼い少年みたいに無邪気な顔がのぞいて消える。
ディアナはびっくりして、まじまじとその顔を見た。真顔か不機嫌そうな顔しか見たことがなかったけれど、そういう顔もできるのか。
そんな視線を丸ごと無視して、ロニーは店員と何かを話し、パイをいくつか包んでもらっている。
驚いているうちに聞き漏らしてしまったけれど、何のパイを買ったんだろう。いつかアルバイト代を貯めて、自分でも好きなパイを買ってみたい。
というか、壁のあそこに貼ってあるのは、もしかして求人募集のチラシじゃないかしら?!
「いくぞ」
ディアナの腕の中に、ずっしりとした紙袋が降りてくる。中のパイはまだ温かい。
「うわぁ、重たいね!焼きたてだ」
抱きかかえているだけで、幸せになってくる温かさだ。やっぱり後で、アルバイトで雇ってもらえないか相談に行ってみようかな。
そんなことをつらつら考えているうちに、いくつかの路地を曲がって、大通りから遠ざかる。
静かな小路の途中で、ロニーはぴたりと止まった。
目の前には白壁と、どっしりとした木のドア。その先に何があるのか、通りからは何も見えない。
とん、っと、彼の手のひらがドアを軽やかに叩く。
とたんに、音もなく、ドアが横にスライドした。中に足を踏み入れたとたん、自動で背後のドアが閉まる。
「魔法のドア?!」
「まぁな」
そこにあったのは、塀に囲まれた中庭だった。
石畳が敷かれていて、両サイドに大きな花壇スペースはあるけれど、何も植えられていない。中央の小さな噴水は枯れている。がらんと寂しい空間だ。
中庭の向こうに、屋敷があった。
3階建ての石造りの建物だった。ディアナの実家よりよほど大きい。
「ロニーって、もしかしてお金持ち?貴族?」
「何でだよ。単なる魔術師の家系」
「家系?ってことはご両親も魔術が使えるの?」
「親も兄貴も魔術師」
「あっ!私が前触れもなく押しかけちゃって本当に大丈夫?!お家の人が迷惑するんじゃ」
「ここには俺しかいないから問題ない」
こんな大きな家に、ひとりで住んでいる?
ディアナは思わずぶるっと身震いした。
「家事とか、すっごく大変そう……」
「魔術でどうとでもなる」
「魔術便利すぎない?!」
魔術って、もっと大事な時に、ここぞとばかりに繰り出す必殺技みたいなものかと思っていた。
ディアナの周りにはこれまで魔術を使える人がいなかったから、基準がよく分からない。けれど、少なくともクラスメイトの魔術科の子たちは、ロニーが魔術で身を隠していることに全然気づいていなかった。
もしかして、この人は、相当すごい魔術師なんじゃないだろうか。
「ロニーって、何級魔術師なの?」
「4級」
「うそでしょ」
ちょうど魔術概略の授業で習ったばかりだった。
魔術師の階級は、基本的に認定試験で決まり、いつでも何度でも受け直せる。5級がいちばん下。そこから数字が減るごとにランクが上がっていって、1級まである。その上には特級ランクもあるけれど試験制ではなく、特級魔術師3人からの推薦があって初めてなれるという狭き門だ。
同級生の魔術科の女の子は、3級に受かったばかりだと自慢していた。だったら、ロニーは絶対それより上のランクのはず。2級や1級と言われたって驚かないけれど、4級は別の意味で驚く。
「試験のとき、手を抜いた?」
「んなわけないだろ。ほら、早く家の中に入れ」
即座に否定するわりに、目が全然合わない。なんとなく、ごまかされている気がする。
家の中も、中庭と同じようにやっぱりがらんとしていた。
玄関ホールには、天井から螺旋式のアンティークなシャンデリアが下がっていて素敵だ。けれど、壁沿いの飾り棚には物がない。たぶん元々は花とか芸術的な壺とか、そういう華やかなものを飾っていたスペースな気がする。
どこもかしこもそんな調子で、なんだか抜け殻のような屋敷の中を、2階に上がって突き当たりのドアを開ける。
「ここ、俺の部屋」
「友だちの部屋に入るの初めて!」
「……友だち?」
ロニーは目を剥いてディアナを凝視した。やっぱり珍獣を見る目つきで、どう見ても友だちに向けるまなざしじゃなさそうだ。
そんなふうにじっくり見られ続けること自体が初めての体験で、ディアナの頬に血がのぼる。
「あれ、違ったかな?!うわ、私の勘違い。恥ずかし」
「いや、ああ……うん。俺の魔術が怖くないんだったら……ってか、あんたぜんぜん怖くなさそうだしな。もういいや、それで」
「へっ?怖い?なんで?」
「普通怖いだろ。隠密魔術で気配を消して勝手に偵察してる奴なんて」
やけになったようにつぶやいて、ロニーは目を逸らした。そのまま、さっさと部屋の中に入っていく。
ディアナはきょとんと首を傾げてしまう。
怖いってどういうこと? むしろ助けてくれて優しいし、かっこいい魔術を次々使えるし、目つきや口調は確かに多少鋭いけれど、こないだ食堂で美味しいパンを分けてくれたから帳消しだ。
それに何より、とうとう生まれて初めての友だちができてしまった。
今までひとりでも全然平気だったけど、友だち。いいかもしれない!友だち!!
友だちって何をするものなのか、いまいちよく分からないけれど。
ディアナは舞い上がりながら生まれて初めての友だちの部屋に踏み込んで、そのまま息を呑んだ。