(7-4)ディアナの処遇、密かな決意
ディアナが敬愛する上司、サンドラ・リードはオフィス奥にある打ち合わせの小部屋に入るなり、にんまりと口角を吊り上げた。
「あの廊下で痴話ゲンカをしているカップルは初めてだわ」
『ケンカではないです!』
「あら、カップルであるところはもう否定しないのね?」
口を揃えて答えたふたりに、ますますにんまりとしながら、物言いたげにディアナの薬指の指輪を見る。
無言の圧力を感じて、ディアナはしどろもどろに口を開いた。
「あの、サンドラさん、私、その、こんやく?した?らしいです?」
「何で全部疑問形なの」
「実感が?ぜんぜん?なくって?」
「ディアナさんが壊れ気味だし申し込むのが遅すぎだけど、まぁ、よく頑張ったわロニーくん」
「お待たせしました」
学院の先生に褒められたってそんな嬉しそうな顔したことないでしょ?という笑顔で、ロニーが胸を張っている。
あれ、この二人、面識あったんだ?アカデミーの学会で会ったのかな?とディアナが不思議に思っているうちに、ロニーがディアナの腕のブラウスをめくって、腕の内側をサンドラに見せた。
「これ、ついさっき、ディアナの魔力防御パッチの下にあるのを見つけまして」
うってかわって厳しい声でロニーが報告する。ディアナは慌てて説明の続きを引き取った。
「今日の王都タイムズ記者との面会なんですが——」
自分が体験した不可思議な状況を、ふたりの前で余すところなく打ち明ける。ウィザーから密かに渡されたメモ書きも隠さず見せた。それから様子のおかしかった先日の実弟のことも。
サンドラは、すべてを聞いても一切動じなかった。いつもの冷静な表情のまま、腕に刻まれた黒い紋章を観察する。
「わかったわ」
しかしその声には、深刻な響きがあった。
「魔力の干渉が感じられる。上層部にすぐ報告します。防御パッチが作動しないなど、あってはならないこと。ディアナさん、パッチの不具合であなたに危害を加える事態になってしまって、本当に申し訳ないわ」
こちらの身を心から案じているのが伝わってくる眼差しを向けられて、胸があたたかくなる。その気持ちに勇気をもらって、ディアナは自分を奮い立たせた。
おろおろしてなどいられない。最善の動きを考えないと。
まずは、状況を口に出して整理するところから始めよう。
「業務規定上、魔力干渉が認められる場合には、業務に就くことが認められない——ですよね?」
「そうなるわね」
深いため息とともに、サンドラは認めた。
「問題2点を解消しない限り、ディアナさんは業務に復帰できないわ」
「えっと……1点目は、防御パッチ。すなわちどんな不備があったのかの原因解明と、パッチに当てられた魔法陣の改善。2点目は、私の腕にある魔術紋の除去」
ディアナは冷静さを心がけながら、思い当たることをゆっくり口にしていく。声に出して客観視すると、モヤモヤとした不安が多少は晴れる。
「そうね、その通りだわ。不可抗力で発生した緊急事態なので、出勤停止中は給与が全額支払われます。それに関しては安心してね。捜査は王宮魔術師団の担当になるのだけれど——」
そこでサンドラは、ロニーの方を見る。
「王宮魔術師としての見解は?」
ロニーは顔を引き締める。その表情が、有能な捜査官のものに変わる。
「この紋、思い当たることがあります。ディアナと一緒に、これから魔術師団に向かいます。しばらくの間、ディアナの身は魔術師団の保護下に置かれます。サンドラさんは、その旨、裁判事務の上層陣にご報告ください。くれぐれも上から指示があるまでは、他の職員たちに漏らさぬようにお願いします。特にディアナの話から判断する限り、キーレ広報官が信用できない可能性があります。彼からディアナの動向に探りを入れられるようなことがあれば、すぐに魔術師団にご報告ください」
「了解しました。今後、他のメンバーも危険にさらされる可能性はあるのでしょうか」
「この状況だけではわかりません。ただ、団長判断で何人か警護の魔術師が派遣されると思います。現場の不安は理解できますし、皆さんの安全確保も魔術師団の仕事です」
「……かっっっこいい!」
ごくごく小さくディアナの口の中でつぶやいたはずの言葉が、見事にサンドラの前にまで転がった。思いっきり突っ込まれてしまう。
「ディアナさん、いちいちうっとりしないで?ロニーくんはいちいち真っ赤にならないで!今さら何なの、あなたたち何年付き合ってるのよ」
「俺ら、今日で4日目ですが、何か?」
「嘘おっしゃい! 何年も毎日毎日イチャイチャ手をつないで出勤してくる人たちが、今さら何を言っても信ぴょう性ないわよ」
胸を張って言い放つロニーを睨んでから、サンドラは安心したように顔を綻ばせた。
「まぁ、ディアナさんにはロニーくんがいるし、何とかなるわね」
「必ず何とかしますし、犯人はか・な・ら・ず・息の根止めますので安心してください」
「合法の範囲内でお願いしますね。あなたが真顔で言うと本気で怖いわ」
「サンドラさん、あの私、万が一、このまま業務に二度と復帰できないなんてことがあったら……」
ディアナの口から、一番の不安が、どうしても転がり落ちてしまった。
もちろんロニーのことは信じている。この得体の知れない魔術の刻印だって、きっと消してくれる。
でも、もし今後「とっさの事態に抵抗できる魔力を持たない非力な人間は、魔術裁判には不適格だ、速記なんてとても任せられない」と判断されたら——もう、ディアナに打つ手は無くなってしまう。
「それだけはないわ」「ありえねぇ」
強い言葉が重なった。サンドラは両腕両足を一気に組んで、ふんぞり返って顎をあげ、天井をギリリと刺すように見る。その上の階には、サンドラやディアナのボス、つまり事務総長の執務室がある。
「絶対に絶対に!ディアナさんを手放せるわけがないわ。だいたいうちのチーム、どれだけ人手が足りないと思ってるのよ、あーのくそジジイ! パムさんより下の若い人が誰ひとり入ってこないのに、見てみぬふりをしやがって。そもそも一般速記チームとうちのチームが同じ給料なんてありえないでしょう。高い専門性が要求されるのに給料は変わらないなんて。そんな貧乏くじを進んで引きたい人間、そうそういるわけないじゃない!無責任ジジイどもは滅しろ!もげろ!」
「ああああ、本当にすみません!そんな時に私がしばらく戦線離脱することになってしまって……」
いつもは冷静なサンドラの口から、憤怒の呪詛語が止まらない。
上司の地雷を踏み抜いてしまったことにディアナは気づいて冷や汗が出る。
「いいのいいの。いい機会かも知れないわ」
これ以上なく華やかに、サンドラは天井を見上げたまま微笑んだ。人間、ブチ切れた時の極上の笑顔ほど恐ろしいものはない、とディアナは初めて学んでしまった。
うふふふふ、と低く威嚇するような、闘志に満ちた笑い声がその唇からこぼれる。
「速記の人手が足りなくて魔術裁判が開けなくなる、なんて緊急事態を味わえばいいんだわ。あの野郎ども」
「ひぃ……本当に本当にすみません……」
「いえ、むしろディアナさんありがとう。いっそこれを機会に、給料の増額を要求してやる。絶対に倍額をぶんどってやるわ」
「どうせだったら、王宮魔術師レベルの給料を要求しときゃいいんじゃねぇの。ディアはそのレベルの知識を持ってるし、それ相当の働きをしてると思いますよ。高給を用意しとけば、待遇の良さに釣られて速記官を目指す魔術師だって増えるだろ」
「ロニーくん、いいことを言った」
目のすわったサンドラが、手を打ってロニーをほめる。
「君の言うとおり、ごりっごりに上層部を突き上げるわ。ああ、楽しくなってきた!でもその皺寄せで、早くディアナさんをなんとか治して業務復帰させろ、って圧力が魔術師団に絶対行くから。ロニーくん、せいぜい頑張ってね!」
「うっわ、めんどくせぇ……。部外者に妙な口出しされる前に、ふたりでしばらくどっかに逃げようかな」
「それでもいいけど、くれぐれもどうぞディアナさんをよろしくね」
「そりゃぁもちろん。あまねく諸々ぶっ飛ばします」
「もちろん合法の範囲内でね」
最後は苦笑しながら念押しするサンドラに見送られて、ふたりはオフィスを出る。
次にいつ出勤できるかわからないけれど、頼れる上司の力強い言葉のおかげで、ディアナの不安は吹き飛んでいた。
それでもやはり、はやく普通に仕事に戻りたい。
やっと手に入れた憧れの居場所なのだ。
後ろ髪を引かれる思いで廊下を歩く。
誰かの勝手な思惑を押し付けられたって、変な魔術紋を刻まれたって、絶対に屈してなんかやるもんか。
ディアナの人生は、ディアナのものだ。誰とそれを分かち合うかは、自分で決めるし、分かち合いたい人は、とっくにディアナの隣にいる。
こんなちっぽけな魔術紋で、縛れるものなんか、何もない。
日常が手の中からこぼれないように、無くさないように、一歩一歩祈る気持ちで階段を降りる。
来た時みたいなお姫様抱っこでなく、自力で歩いて外に出た。
堂々と手をつないで廊下を歩かれたけれど、まぁ、外ではよくあることだ。これまでは普通に手を握り合うだけだったのに、今は指の間にするりと指を差し込まれている。いわゆる恋人つなぎになっている気がするけれど、それに関してはもう何も考えないことにする。
「これから魔術師団に行くの?」
「その前に、もう1件。せっかくのご招待だ。とっとと突撃しようぜ」
そうしてやってきたのは、小さな店が軒を連ねる商業地区にある1軒の惣菜店の前だった。
カウンターに惣菜のサンプルが並び、奥の鍋から空腹を刺激する美味しそうな匂いが漂ってくる。
おおらかな笑顔を浮かべたおかみさんが、呼びかけた。
「いらっしゃい、何にします?今日はラム肉のトマト煮込みがおすすめだよ!」
どこからどう見ても普通のお店だ。さっき会った時のスーツ姿のウェザー記者の様子から、何となく一般的な勤め人のアパートメント暮らしを想定していたディアナは、とまどいながらも笑顔で尋ねる。
「あの、こちらにローレンス・ウィザーさんはいらっしゃいますか?」
「ああ、うちの息子に用かい? ちょっと待ってね」
おかみさんは店の奥の階段から、上に向かって大声を張り上げる。
「ラリー、お客さんがご夫婦で来てるよ!ああ?うん、わかった、通すよ!」
愛称で呼びかけた息子と何やら会話したあと、おかみさんは、カウンターの脇に同じ高さでしつらえてあるスイングドアを押し開けた。
「どうぞ入って。そこの階段を昇ってちょうだい。ああ、ちょっと待って!煮込みを持ってって。みんなでお食べなさいな、せっかくの夕飯時なんだから」
空の中型鍋にざっと6人前くらいの分量を豪快に取り分けて、ロニーに渡してくれる。ディアナには、パンの大きなひとかたまりを布に包んでどんと手渡した。
いかにも下町の商店のおかみさんらしいきっぷの良さだ。
「ありがとうございます。美味しそう!今度お夕飯のお惣菜、ちゃんと買いにきますね!」
「はいよ、待ってるね。こんな美人の奥さんだったら、絶対忘れないからねぇ。旦那さん、奥さんが綺麗すぎていっつも気が気じゃないだろ?」
「わかります? 俺もう毎日すっげぇ大変なの」
「あははっ、頑張りなね」
「そりゃもう全力で」
おかみさんのリップサービスにそんな真顔で答えなくても、とディアナは思ったけれど、とにかく指定されたとおり、急な階段を木板をぎしぎしと鳴らしながら昇っていく。
階段の行き止まりはドアになっていて、それを開いてローレンス・ウィザーが待っていた。
「すみませんねぇ、重いものを持たせっちまって。うちのおふくろ、人に飯を食べさせんのが生きがいでさ」
取材の時より数段砕けた口調だ。格好もリラックスしたシャツに着替えている。
ディアナが即日押しかけてくることを予想していたらしく、動じる様子は一切ない。
ロニーの手から鍋を受け取りながら、ウィザーは部屋の中を示した。
「どうぞ入ってください。狭いとこですが、ま、飯でも食いながら話しましょう」




