(1-2)10年前——王立学院1年生①
ディアナがカンティフラスの王都に出てきたのは、10年前。
王立学院に入学することになったからだ。
入学式では友だちが出来なかった。
大きめに作っただぼだぼの制服に痩せこけた身を包み、パサついた黒髪を適当に後ろで結んだだけの小さなディアナは、あからさまに新入生のなかで浮いていた。
式典で隣に座った同級生たちは、いつのまにかディアナと反対側の子と楽しそうにおしゃべりに興じている。
ぽつん、と、ディアナはひとりで座り続けた。
でもそんなことは大した問題じゃなかった。
一言でいうと、ディアナは有頂天だった。むしろ、込み上げてくる笑いと解放感をひた隠しにするのに精いっぱい。
ひとりぼっちはいつものことだ。本当にどうでも良い。
そんなことより何より大事なのは、ここが世界でも指折りのエリート校だということだった。
王立学院は5年制で、ほとんどの卒業生は国の中枢機関に就職する。つまり出世街道が保障されていて、高給取りになれる未来が待っている。
そのためには、何より勉強しなきゃ!!
それから、ちょっとのアルバイト。
奨学生になれたから、学費と寮と学院内での食事はタダだ。ノートや文房具だって支給でもらえる。
でも実家からの支援が一切ないディアナに、自由に使えるお金はほとんどない。とにかく稼がないと。
そんなことをウキウキと考えているうちに、入学式はいつの間にか終わっていた。
教室に移動する。
長机が階段状に据えられている。自由に座っていいらしい。
ディアナが入った時にはほとんどの席がもう埋まっていて、おしゃべりする声でにぎやかだった。
きょろきょろと空いている場所を探す。
いちばん後ろの席が空いていた。ほっとした気分で腰をおろす。
ホームルームが始まった。
担任の先生が話す言葉をひとことも漏らさないように、全身を耳のようにして受け止める。学院生活でのスケジュールや注意点を一通り教えてもらって、それで今日は解散らしい。
先生が出ていって、クラスメイトたちも笑いながら教室を出ていく。
ディアナひとり、座り続ける。
そのうち廊下も静まりかえる。
誰の気配もなくなってから、がたり、といきなり立ち上がる。
今なら、今だったら誰にも聴かれない。
「じっゆうだぁー!!」
両手を突き上げて、高らかに叫んだ。
なんだか止まらなくなって、机と机の間を走った。
黒板に飛びついて、すりすりと頬ずりをする。
さっきまで先生が使っていたチョークの粉がうっすら残った黒板だ。きっとディアナの髪も頬も白くなっている。
でもそれも最高にうれしい。これからこの黒板にいろいろ教えてもらうのだから。
「仲良くしてね、黒板くん!」
笑いが止まらない。自由だ。生まれて初めて、ディアナは自由だった。
だって、ようやくあんな実家から抜け出してこられたのだ!
高揚感のまま、指折り数える。
「卒業したらね、まずは自立するでしょ。お給料をたっぷりもらって、いつか自分の家を買って、それから猫を飼う。猫!絶対かわいい!」
空想の未来の愛猫をぎゅっと腕に抱き締めて、ディアナはくるりと回った。ふわりとスカートが風をはらむ。
「あの家の言うことなんてぜーんぶ無視して、好きなものを食べて、好きなところに行って、養老院で最期はぽっくり逝く!うわぁ、最高じゃない?!」
なんて完璧なプランなんだろう!
実家では、ディアナは空気みたいなものだった。王立学院に行きたいと両親に訴えても取り合ってもらえず、母方の祖父母に泣きついて、少しのお金を出してもらえて何とかここにいる。
勝手に王立学院に合格した娘に、父がかけた言葉は、
「お前がいなくなったら、家の掃除は誰がやるんだ」だった。
もう、あそこには戻らない。
わずかなお金も無駄にできないから、制服を何度も作り直さなくても済むように大きめに作った。
チビでダボダボで不格好だって言われても、そんなの別に気にしない。
たかが背ぐらい、いつかは伸びる。縮こまって、背を丸めていた日々とはバイバイだ。
目の前に開けた大きな道を、ディアナはどこまでも走りたい。きっと自分にはそれができる。
こつんと黒板に額をおしつけてつぶやいた。
「ここから始める」
ここでは家事をしなくていい。親兄弟の面倒も見なくていい。勉強だけに集中できる。
この自由を、何が何でも手放さない。
「弾けてるところに悪いんだけど」
背中から、静かな声が聞こえた。
びくり、とディアナは震えて固まった。
おそるおそる、振り返る。
「あんた、なにがそんなに楽しいの?」
いちばん後ろの席に突っ伏したまま、顔だけあげて男の子がいる。
そこは、さっきディアナが座っていた机の隣の席だった。
いつから座っていたのだろう。全然気づかなかった。
気だるそうな声が問う。
「あんた、チュートリアルの間から、ずぅーっと楽しそうにしてただろ。なにがそんなに楽しいの?」
「……人生?」
「なにそれ」
軽く鼻で笑われて、ディアナは困惑した。
さっきのホームルームで、クラスメイトはひとりひとり名前を言って軽く自己紹介したはずだ。
こんな子、いたっけ?
しかも、自分の隣の席に。
その男の子はゆっくりと立ち上がると、こちらに歩いてくる。
背は、ディアナよりほんのちょっと高いくらいだろうか。ということは、普通の同い年の子よりはるかに低い。
とても痩せていて、金茶色の髪の毛はボサボサだった。ガリガリ過ぎて、なんだか少し親しみを覚えてしまう。
「ディアナ・ハース」
フルネームで呼ばれて飛び上がる。
「ハンカチ、よこせ」
差し出された手のひらに、あわててポケットから取り出したハンカチを乗せる。
男の子は、空いている方の手の指を、ぱちりと鳴らす。
とたんに見えない蛇口をひねったように水が落ちてきて、ハンカチをしっとりと濡らした。
「顔、汚れてる。拭いとけ」
「あ、あなた……魔術を使えるの?!」
魔術師は慣れている魔術なら指先一つで発動できると聞いたことがあった。実際に見たのは初めてで、ディアナは開いた口がふさがらない。
「いいから早く拭いて」
手に戻ってきたハンカチで、ぼうぜんと男の子の顔をみつめたまま適当に顔をこする。
深い紺色の瞳が、痩せこけた頬のうえで鋭く光っている。なんて美しい色だろう。夜明け前の、いちばん深い空の色みたいだ。
魅入られて、自分の顔を拭く手が止まりかける。どうせ少し汚れていたって、誰も気にしない。
「まだついてる」
眉間に軽くしわを寄せて、男の子はディアナの手からハンカチを取り上げた。
慎重な手つきで、髪についていたらしいチョークの粉まで拭いとってくれる。
じぃっとディアナの横顔を観察して、やがて男の子は満足そうにうなずいた。
「これでいい」
「あ、ありがとう」
間近にあった男の子の体が離れて、ディアナはほっと全身から力を抜く。
とたんに、きゅるるるる、と盛大にお腹が鳴った。
とっさにお腹を押さえる。間が悪すぎる。恥ずかしい。
「あんた、腹の音まで楽しそうだな」
男の子は真顔でしげしげとディアナのお腹を眺めて、くるりと体の向きを変える。
「昼メシ、食うか」
すたすたと席に戻ると、自分のカバンとディアナのカバンを取り上げて、すたすたと奥の扉から出ていってしまう。
ディアナは慌ててその後を追った。