(3-6)8年前——王立学院3年生⑥
案内されたホールの奥。扉を開けると、広い応接室になっていた。
入ってすぐのところに大きな衝立てが置いてある。ドアから覗いても中の様子はわからない。
衝立ての脇から入った室内には、応接テーブルとソファーがセットで置かれていた。その向こうはさらに大きな衝立てで隠されている。
「まぁ、ここに、珍しい金魚が?」
ディアナは勧められるままにソファーに腰を下ろしながら、部屋を見渡した。
水槽らしいものは見当たらない。
先ほどの小ホールでの展示では、魔石を動力とした小さな水車がそれぞれの水槽の上に設置されていて、こぽこぽと水の中に酸素を送り続けていた。この部屋にはその水音もしない。
ディアナを挟むように、左右にロニーとフィリアスが座る。
「申し遅れました、わたくし、デメラー商会のマイク・バージと申します」
向かいに座った男から差し出された名刺を受け取って、ディアナは驚いた。
「まあ、デメラー商会の方でしたか。わたくしはディア・アッシャーと申します」
ロニーの速記に書かれていた通りの名前を口にする。噛まず、つっかえず、スムーズに名乗れた自分にホッとする。
「弊店をご存じでいらっしゃいましたか!それは光栄です。どちらかでご利用いただいたことが?」
「父が、デメラー商会のチョコレートを大好きで。定期的に家にボックスで持ってきていただいていたんです」
本当のことだ。
ディアナの父は、家計が苦しい生活の中でも、必ずそのチョコレートを買った。アソートボックスを一人で抱え込んで、息子たちにすら分け与えなかった。
その箱の中では、貝殻や葉っぱの形をしたチョコレートボンボンがツヤツヤと輝いていて、遠い世界の不思議な食べ物みたいだった。ディアナはずっと、どんな味がするんだろうと思っていた。
「父は夕飯のあと、一日一粒、そのチョコレートを味わいながら、お酒を飲むのを楽しみにしていました。だから私は大人になったら、一日三粒、美味しいお酒と一緒にいただくのが夢なんです」
「それはそれは。その時にもぜひ、引き続き我が商会をご贔屓いただければ幸いです」
「ええ、ぜひ」
ディアナはにっこりと微笑んだ。
本当は、父が食べているのより美味しいチョコレートを、いつか絶対見つけて毎日食べてやる!と思っている。けれど、ここでは内緒だ。
給仕の男性がやってきて、香り高い紅茶が目の前に置かれていく。
そのタイミングでマイク・バージは立ち上がり、一礼をすると、衝立ての奥に引っ込んでいく。
まもなく銀のワゴンの上に、黒い大きな箱を載せて戻ってきた。
ディアナは、手にしていたティーカップをテーブルに戻し、軽く身を乗り出す。
「もしかして、その箱の中に金魚が?」
「さようでございます」
男はしずしずとうなずくと、白い手袋をはめた手で、箱の手前の横板だけを、上へとスライドする。
「ああ、これは」
それをみたとたん、ロニーが小さく笑った。
「これはフィーが好きなやつだな。近くで見ても?」
「もちろんでございます」
その会話の前から、フィリアスはすでに立ち上がり、ワゴンにかじりついている。
黒い板の中には、水槽が隠されていた。
その水の中で動いているのは、2匹の金魚。
「なんて美しい黒……」
ディアナはうっとりとその姿に見入った。
ふっくらと丸い体は、黒い鱗で覆われている。角度によっては、虹色を帯びて鈍く光る硬質な黒だ。
背びれと尾びれは薄く織り上げた最高級の絹布のように、白くやわらかに揺れている。
「クロガネ、という品種でございます」
「クロガネ?」
「東方の言葉で、『鉄』を表す言葉です。強く叩き上げられた鉄のような金属質のこの色は、伝統的に金魚を育ててきたかの国でも大変珍しく、国内でも流通が非常に限られています」
「そんな貴重な金魚が、どうしてこの国に?」
「我が商会は、かの国とも昔から親しく取引させていただいております。特に皇室にも出入りさせていただいておりまして、そのツテで今回特別にごくわずかな数の生体のみ、仕入れが実現いたしました」
「……そんな貴重なものを、なぜわたくしに」
うっかりどもりそうになるのを必死で抑えながら、ディアナは涼しい顔でなんとか言い切った。
軽く膝の上で揃えた手のひらは、実は汗でびっしょりだ。
そんな皇室お墨付きの秘宝みたいな金魚、絶対高いに決まっている。
自慢じゃないが、ディアナが今まで買った一番高い買い物は、学院の制服だ。
きっとその制服の10倍くらいの値段はするんじゃないだろうか。
「やはり金魚を深く愛好していらっしゃる方にお買い求めいただくのが一番かと存じます。値段はコメットバタフライの2倍程度にはなりますが、侯爵家一門のアッシャー様でしたら問題のない範囲かと」
そうして耳にした金額に、ディアナの心臓は一瞬止まった。
——制服の10倍じゃなかった。……100倍だった。
すっかり思考停止したディアナの隣で、なんでもないことのようにロニーがすんなりうなずいて見せる。
「まぁ、ディアの家だったら問題ないでしょうね。それは1匹の値段ですか?」
「さようでございます。2匹まとめてお買い上げいただけるようでしたら、特製の水槽も合わせて進呈させていただきます」
「なるほど?」
——にひきで、せいふく200ばい…… ……って、200倍?????!!!い、家!家かえちゃう!
王都の郊外だったら小さな家が買えそうな金額だ。
あまりの衝撃に、かえって目が覚めたディアナは、とりあえず紅茶を一口飲んだ。
ああ、こんな時じゃなかったら、絶対もっと美味しく感じられたのに。もったいない。
この金魚を買いたいふりをするなんて、骨の髄まで貧乏が染み付いているディアナには無理難題だ。
でも、ロニーには、きっとそうしてほしい事情があるのだ。
だったら、ディアナは震えていないで頑張らないと!
ロニーからの信頼には、何がなんでも応えたい。
指先にわずかに力を込めると、ディアナは腹の底に力を入れる。
そこから勇気がじんわりと染み出してくるようにと祈りながら、ゆったりと微笑んで、小首を傾げてみせた。
「おそらく2匹でも問題ないと思うのですが……わたくしの一存では決めかねますので、一度家に帰って家族に相談してもよろしいでしょうか」
「ああ、それだったら、ディア」
商会の男が答える前に、軽々と会話の穂先をロニーがひったくる。
「お父上がいるじゃないか、この会場に。僕が連れてこよう」
当たり前のようにロニーは立ち上がる。
——ここに?父さまが?いる??
一瞬だけ、父親の顔が脳裏をよぎる。
きゅう、と胃がわずかにこわばった。父を思い出す時、ディアナを見下げきった目と言葉ばかりが鮮明によみがえる。
ロニーは、それを、呪いだと言った。
言われてしばらく反芻しつづけて、初めて気づいた。本当に、そのとおりだ。
そんなロニーが、本当の父をわざわざディアナに引き合わせるはずがない。
だったら、外にいるのは……誰?
瞳を揺らすディアナに、ロニーは安心させるように小さく笑ってうなずいた。
それだけで、心がふんわりと解けて落ち着いてしまう。
大丈夫、ロニーに任せよう。
嫌な人など、絶対に連れてこない。
ロニーの後ろ姿を見送って立ち上がり、フィリアスの隣で熱心に金魚を眺めているふりをする。心の中で数を数える。
カウントが60をわずかに越した時、ドアが開く音がして、二人分の足音がした。
「おお、ディア!可愛いかわいい我が家の小鳥!!」
背の高い男性が両手を広げてツカツカ歩み寄ってくる。
ディアナは、ポカンとその男の人を見た。
黒い目と髪は、確かにディアナの血族だと言い切っても違和感はなさそうだ。
でも、でも、この人は……!
温かい腕で、ぎゅうぎゅうと抱きしめられる。突然だけれど、嫌じゃなかった。
「なんだ、せっかくパパに会えたのに、キスはしてくれないのかい?」
中腰になって、とんとん、と自分の横顔を指で叩いてお茶目に笑うそのおじさまの頬に、ディアナは思わず唇を寄せる。
だって、だって、この人は……ロニーにそっくりなんだもの!!




