(3-2)8年前——王立学院3年生②
生まれて初めてのリゾート地!
生まれて初めての速記の仕事!
3年に進級したばかりの9月最後の三連休。
昨日の夜から、ケイネスという街に来ている。
ディアナは目を走らせて、ソワソワと自分の制服のブレザーをチェックした。
ちりもホコリもついていないし、中のシャツもスカートもアイロン掛けたてだ。
「ねぇねぇ、ロニー、私おかしいところない?」
「それ聞いてくるの何度目だ?」
「えっと、四度目?」
「じゃぁ俺の答えは?」
「『大丈夫、ちゃんとかわいい』」
「はい正解。落ち着け、何もおかしいところなんてねぇよ。むしろこいつの方が、完全に爆発してるだろ」
ロニーは目の前で一心不乱にパンを頬張るフィリアス・テナントを見る。
今朝の朝食ではまったく足りなかったらしく、さっきからパチパチ指を鳴らしてパンを取り出しては、モッキュモッキュと食べ続けている。
その頭にうずまく癖っ毛は、ものの見事に膨らみ切って、たしかに爆発しているとしか言いようがない有様だった。
昨日の夕飯の時にはもう少し髪のボリュームが少なかった気がする。寝癖かもしれない。
「テナント、お前本当にそれで学会に参加するつもりか」
「テナント君、あの……ふわっふわのたんぽぽの綿毛みたいな見た目になってるけど大丈夫?」
モキュ、とかろうじて見えている口が止まった。5秒ほど固まって、再びモッキュモッキュと動き始める。
「まだ食うのかよ……ほらもう行くぞ」
ロニーは天を仰いで脱力してから、目の前の大きな建物に向かって歩き始める。
ディアナも手に下げた鞄の感触をギュッと確かめながら、その後を追った。
これからの2日間、王立アカデミー主催のシンポジウムと学術報告会が開かれる。
春の大会は王都で開催されるが、秋の大会はここケイネスで行われるのが通例だという。
国内最大の学術的な発表の場だ。
報告会のほか、パネル展示や、関連商品の即売会も同時に行われる。
学者はもちろん、新しい技術を求める商会の関係者から、いつもは別の仕事をしながら独力で研究をしているアマチュア研究者まで、とにかくさまざまな人が発表を聞きに集まってくる。外国からの訪問者も多い。
「なんで温泉リゾート地で開催するんですか……?」
この話を初めて教えてもらった時、ディアナはカフェでサンドイッチを口にしようとしているところだった。
手にしていた一切れをお皿に置き直して、思わず尋ねてしまう。
ポシェットからガサゴソと手帳と鉛筆を取り出して、速記文字で今聞いた内容を急いで書き記す。
最近、知りたいことが次から次へと湧いてくる。興味深い内容は何でも書き留めておきたくて仕方ない。そういう時、速記は本当に便利なのだ。
「だって、公費で温泉旅行したいじゃない?」
向かいに座ったジェニーさんは、コーヒーを一口含んでから、イタズラっぽい顔でにこりと微笑む。
「学会だったら仕事の一環だから、アカデミーの研究員には国から出張費と滞在費が出るのよ。それなら少しでも楽しいところに行きたいって考えてもまぁ、仕方ないわよね」
王立アカデミーは、国の研究組織だ。
理系、文系、それに魔術、その中でさまざまな研究部門に分かれている。
王立学院を卒業した後も勉強を続けたい場合、試験を受けて王立アカデミーに進み、研究者になる人も多い。
「2日間で大きなシンポジウムが2本。それから学術報告会が大小合わせて100本」
「ひゃく?!」
「そう。びっくりするくらいの数でしょう? それでね。公費を使った研究成果の報告会だから、一言一句、記録されなくてはいけないの。速記者が必ず同席するんだけれど、毎回人数が足りなくて……ディアナちゃん、どうかしら?やってみない??」
「……え?私が?!」
ディアナは、鉛筆を走らせていた手を止めて、手帳を見つめる。
速記文字でぎっしりと埋められた紙面を見ながら、思わずごくんと唾を飲み込んだ。
ロニーがディアナを「かわいい」と言ってくれたあの日。
あの時から、自分の世界が、変わった。と、思う。
今でも鏡を見ても特別かわいいとは思えない。けれど、見苦しいとも思わない。
——「かわいげがない」「見苦しい」
父から毎朝毎晩のように言われていた当たり前の言葉が、当たり前の言葉でなくなって。
あのロニーが「かわいい」と言うのだから、そう言ってもらえる自分を信じたくなった。
今まで自分の見ていたものには、本当は、もっと違う意味もあるのかも。
毎朝、鏡の自分を見ながら、思う。
もっとすてきな世界があるのに、思い込みで目が塞がれて、見逃していたものがたくさんあるのかも……?
そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。
——もっとよく見なきゃ!もっとよく知りたい!
ディアナは今まで行ったことのなかった場所に、あれこれ突進して回った。
美術館、博物館、図書館、植物園、動物園——
世の中をよく知らないのに、やたらと飛び回るディアナを心配して、ロニーは必ずついてきてくれる。
知ったことは全部忘れたくなくて、その場で手帳に細かく書き留める癖がついた。
普通の書き文字だと、時間がかかってもどかしい。
速記文字を使ったら、やっと自分の気持ちに言葉が追いついて来てくれた。
それからずっと、速記はディアナの体の一部みたいなものになっている。
昨日は初めて王立劇場に行った。
学生料金で一番安いチケットを買って、天井近い立ち見席からロニーと肩を寄せ合って舞台を観た。
芝居終わりに感動で動けなくなってしまって、座り込むディアナのそばに彼は黙ってずっとついていてくれた。
どうしてこんな豊かな場所を、今まで知らなかったんだろう。
損していたなぁ、とディアナは思う。
もっともっと、いろんな世界に触れてみたい。
ジェニーさんと仲良くなって、こうして一緒にお出かけしているのも、以前の自分だったら信じられないことだった。
ジェニーさんは、バイト先のペストリーショップに毎日買いに来てくれるお得意さんだ。
たぶん、歳のころはディアナの母親とそう変わらない、30代後半くらい。
落ち着いた茶色の髪の毛を後ろでまとめていて、優しい声とにっこり笑った顔に、なぜかディアナはいつもホッとする。
接客するうちに、少しずつ色々話すようになって、とうとう一緒にお買い物についてきてほしいと頼まれた。
ディアナと同じ年頃の息子さんがいるそうで、
「うちの息子にプレゼントを買いたいんだけど、若い人の意見を聞きたくて。ディアナちゃん、協力してくれないかしら?」
と、少し困ったように頼み込まれ、ディアナは思わずうなずいていた。
実家では、母親とショッピングに行ったことなどついぞなかった。
ジェニーさんとお出かけできると決まって、ディアナは嬉しくて嬉しくて、そしてようやく気づいた。
——もしかしたら、私は、本当は、母さまとお出かけしたかったのかもしれない。
知らない世界は時々、痛い。
でも、それでも、だからこそ。
ジェニーさんとのお出かけが、とっても特別で、とっても楽しいものになった。
連れてきてもらったカフェのコーヒーの味が、格別に美味しく感じる。
速記の仕事にまで誘ってもらえて、こんなにも心が弾んでいる。
「でも、私、ちゃんとした速記のお仕事なんて、したことないので……」
「あら、誰でも最初は素人よ?」
明るく包み込むように、ジェニーさんが微笑む。
「学術報告会の正書記は、アカデミーの本職の速記官がするの。そのほか副書記の速記も1名入るのだけれど、それはいつもアカデミーの研修生がしてるのよ。ディアナちゃん、学院の奨学生なんでしょう?だったら、簡単な試験を受けたらすぐに研修生になれるわよ。あ、研修生って、正式に入所する前の業務見習いみたいなものね。ちなみに現地の滞在費もすべてアカデミー持ちだし、仕事した分の謝礼も出るわ。それに、」
ディアナの手帳を見つめて、ジェニーさんは満足そうにうなずいた。
「それだけ速記文字を使えていたら、問題なく副書記ができるわ」
「あの、ジェニーさんも速記が読めるんですか?」
「まあねぇ。私も仕事柄、そこそこ会議で速記官にお世話になっていて、読めた方がいいなぁと思って勉強したの」
「ジェニーさんのお仕事って……?」
「王宮勤めで古文書からいろんなことを解析してるわ。アカデミーとも連携してるし、まぁ、あそこの研究者と似たり寄ったりの仕事ね」
「……すごい!研究者さんだったんですね。ちなみに古文書ってどんな内容の……?」
「魔術よ」
「魔術!」
ロニーの顔が浮かんで、なぜかジェニーさんと重なった。
笑った顔が、どことなく似ている気がする。
だからなんとなく、ジェニーさんに余計に親しみを覚えてしまうのかもしれない。
このジェニーさんが、やれると言ってくれている。だったら、尻込みせずにチャレンジしてみたい。
自然と、口が動いていた。
「やってみたいです、速記のお仕事」
「そう!よかった!そうと決まったら、さっそく準備をしなくっちゃ!」
そこからは、学会当日まで怒濤の2カ月だった。
あっという間にアカデミーの研修生に合格し、事前の速記研修を受け、実際に話し言葉を書き取るトレーニングを重ねる。
ディアナの得意な歴史の分野で、学会の副書記を担当することになった。
知らない言葉にぶつかったら、正しく言葉を書き取れないこともある。学術報告会の事前の発表概要を読み込み、専門用語を頭に叩き込む。発表の後の質疑応答にも備えて、本職の速記官から、事前に知っておいた方がいい用語を細かくレクチャーしてもらう。
学院の歴史の授業のはるか先、いわば最先端の歴史学の動向を学んでいるようなもので、夢中でディアナは準備に取り組んだ。
やれるだけの準備は、すべてやったはず。
それでも、不安は湧いて出る。
「ディアナ、落ち着け。睡眠削ってまであれだけ勉強してただろ」
前を歩くロニーが笑った。
ロニーもディアナと同じタイミングで別の人から、アカデミーの研修生に勧誘されたらしい。
あれだけいろいろ面倒くさがるロニーでも、さすがにアカデミーの仕事には興味を惹かれたのだろうか。
魔術部門の運営の手伝いで、今日はここに来ていた。フィリアス・テナントも同様だ。
「何かあったら、そのブレスレットを握れ。ロニー助けてって言え。そしたら絶対助けるから」
「何それ、冗談でも心づよすぎる」
ディアナも笑う。
手を振って、廊下の角でロニーとフィリアスと分かれた。
次に彼らに会うのは、夕飯の時だ。
心臓が、ドキドキする。
でも、できる。
ちっぽけな私でも、信じてくれる人がいる。
強い目で、前を見据えて、ディアナは歩き始めた。




