(2-5)9年前——王立学院2年生⑤
場内が困惑のざわつきで揺れている。
ディアナは、競技場のど真ん中、お構いなしに読書に没頭している少年を見つめた。
少年の前に、いつの間にか、青白くてほとんど透明な壁ができている。
「あの人……決勝戦で5秒で勝ってた子だよね」
あっという間に勝敗が決まった決勝戦だった。
みるみるうちに対戦相手が直立したまま気持ちよさそうに爆睡し、優勝した少年は風のようにサッと奥に引っ込んでしまった。ひたすらあっけに取られて終わった試合だ。本当に、何があったのかよくわからなかった。
ロニーは奥歯をぎゅうと噛みながら、うなずいた。
震える腹筋を両手で抱えながら、あからさまに、爆笑を何とかこらえている。
「そ、フィリアス・テナント。魔術科2年、1級魔術師」
「ロニーのクラスメイト? なんか……すごいね」
「あいつ、完全に常識の外で生きてるからな。ほら、今だって魔術の壁1枚張っただけで、攻撃全部を防ぐ気だ。アーサーがすっかり困ってる」
座り込んだまま顔もあげない少年相手に、王宮魔術師が何度も何かを呼びかけている。
魔力に満ちて青白く光る障壁1枚隔てて、まったく反応がない。着実に、少年が読みふける魔術書のページだけが進んでいく。
とうとうあきれたように王宮魔術師ローブを揺らし、アーサーは肩をすくめて微笑んだ。
小さく詠唱して手のひらに魔法陣を浮かべ、そこから小さな水の球を呼び出す。
そう、やっぱりこれが普通なのだと思う。
普通は魔術を使う時には詠唱したり、魔法陣を使ったりする、はずだ。
ロニーのお兄さんですら、例外じゃない。
でも。
ディアナはちらりと隣の横顔を見る。
「さて、あいつ、いつまで冷静でいられるかな」
小さくひとりごちながら、ロニーは目の前の光景に釘付けだ。腕組みをして身を乗り出している。
この口が詠唱したり、この手が魔法陣を編み出したりする姿を、ディアナは一度も見たことがない。せいぜい指をパチリと鳴らすフィンガースナップで物を取り出すくらいだ。
あとはいつも、なんの予備動作もなく突然魔術が発動する。
——たぶん、ぜんぜん普通じゃない。
どうしてだろう。
理由って、聞いてもいいものなんだろうか。
でも、そもそも、ディアナはロニーのことを、ほとんど知らない。
知ってもいいものなんだろうか。知りたいと思っていいのかもわからない。
——どこまでが、友だち、なんだろう。
ためらったディアナは、目の前の試合に意識を無理やり戻した。
とても楽しそうなロニーの時間を、邪魔したくない。
今は、一緒に笑っていたい。
「テナント君、戦うつもりがないなら、出場しなきゃよかったのに……?」
「あいつ、魔術科の奨学生だから強制参加。去年はうまいこと逃げてたみたいだけど、今年は無理やり参加させられてた。抗議のつもりなんじゃねぇの。わっかりやす」
アーサーの手をゆっくりと離れた水球が、少年めがけて放たれる。
優美な弧を描いてやってきたそれを、障壁は弾くでもなく、やすやすと受け止め、あっさりと呑み込んだ。
おお……と客席が低く揺れる。
たぶん思っていた結果と違ったのだろう。
アーサーの顔がわずかに引きつった。口を開く。
『次は、本気で行ってしまってもいいかな?』
聞き慣れない涼やかな声が、突然ディアナの耳元に聞こえてくる。
ギョッとして、とっさに隣のロニーを見た。
「声、聞こえた方が面白いだろ?」
いたずらっ子のように、とってもいい顔でロニーは笑っている。
その肩に身を寄せて、声をひそめて思わず尋ねる。
「魔術使った?」
「そ。ディアナと俺だけ聞こえるようにした」
「天才?!」
「絶対内緒な」
アーサーの手に、先ほどとは比べ物にならないくらい大きな魔法陣が立ち上がっていく。
次の水、次の水。
みるみる大きく速球でやってくるようになった連続の水攻撃を、なんでもないもののように魔術の壁が吸収していく。
不意打ちを狙って頭上や背後から仕掛けられた攻撃まで、すべて吸い寄せ、呑み込んで。
静かに壁は立ち続ける。
「はは、すっげえな、こんなの見たことねぇわ。飲み込んだ魔力を吸収して、壁が成長してやがる。どんな魔術を組んでんだ、あいつ」
腕組みしたまま、ロニーはくくっと笑い声を漏らした。
視線を転じて自分の兄をじっと観察し、
「……ほらみろ、もう冷静じゃなくなってきた。……昔からああなんだ」
そう教えてくれる彼の口調は、打って変わって平坦だ。
アーサーが生み出す魔法陣は、どんどん大きくなっていく。
水だけでなく、氷、炎、風、土——さまざまな形の魔術が、四方からテナント少年に襲いかかる。
ど派手な魔術ばかりだ。
土けむりがあがり、吹雪が突き刺さり、炎が渦を巻き、風が鋭い音を立てて切り掛かる。
普通の人間だったら、どれも一撃受けるだけで、致命傷になりそうだ。
……なのに、フィリアス・テナントは、いまだに本を読みふけっている。
みるみる余裕がなくなり顔から血の気が引いていくアーサー・ボージェスのことは、一度も見ていない。
ロニーは苦い笑いをこぼす。
「無駄だな。あんな高威力の攻撃魔術をばかすか連発してたら、あっという間に魔力が足りなくなる」
「それを防ぐ方だって、魔力が足りなくなるんじゃないの?」
「テナントの魔力保持量は尋常じゃない。でもアーサーは……ほら、膝をついた」
思わぬ一方的な展開に、客席から悲鳴が上がった。
それでも、魔術を放ち続けようとするアーサーは、ふらつきながら立ち上がる。
でも、魔術戦のことをまったく知らないディアナでも分かる。
このままやみくもに術をぶつけても、あの完璧に見える防御壁は、きっと崩せない。
「もう勝負、ついてるよね……?」
「でもあいつ、自分からはぜったい降参したくないだろうな。やたらプライドが高いから……昔からほんと変わってない」
めんどくせぇ、とロニーが小さくつぶやいたとき——
どよめきと歓声がひときわ大きくうねり、その声をかき消した。
ひとりの男が、競技エリアに姿を見せたのだ。
王宮魔術師ローブを着たその人は、まったく身のこなしに隙がない。
大喝采の中、背筋は鋼のように揺らぎなく伸び、短く刈り上げた銀髪と相まって、まるで一振りの美しい剣みたいだ。
精悍な顔つきで鋭く前を見つめ、膠着した試合の中心に、ためらいもなく進んでいく。
「なんだかとっても強そうな人が来た……?!」
「ははっ!団長みずから出てきやがった!」
手を叩いて、大喜びで叫ぶ。こんなにはしゃいでいるロニーは初めてだ。
「団長……?」
「ハーフォード・カワード第1魔術師団長!特級魔術師!」
その名前なら、ディアナですら知っている。
4年ほど前、新聞の一面を飾っていた。異例の若干20歳で団長に就任、そのうえ国に数人しかいない特級魔術師!
しかもたいそうキリリとした美男子で、ディアナの住む田舎街ですら、その姿絵が飛ぶように売れていた。
突然の有名人の登場に、さっきまでアーサーに釘付けだった女の子たちが、いっせいにカワード団長に見惚れてため息をついている。
注目を一身に浴びた団長は、立っているのがやっとに見えるアーサーの肩を、ぽんっと軽く叩いた。
きびきびとした低い声が、ディアナの耳に響いてくる。
『お前、ここでやめておけ』
『しかしっ!』
『これ以上やったら、魔力欠乏で寝込むぞ。明日からの仕事に差し障ると困る。魔術医に回復術をかけてもらえ』
『……………かしこまりました』
ふらつきながら、それでもあくまで優雅に一礼すると、一切の表情を消したアーサーが後ろに下がる。
部下の致命的な敗北を回避しておいて、カワード団長は、厳しい視線を魔術壁の向こうの少年に向けた。
『フィリアス、お前、出場したからにはちゃんと戦え』
『……出たくなかった』
『だろうな』
『……戦う意味がわからない』
『まあな』
ぱたん、と、本を閉じて、少年が初めて顔を上げる。
分厚い髪の毛に覆われた視線は、たぶんカワード団長に向けられている。
とたんに団長が、大きな大きなため息をついた。
『あぁあぁ、なんで2カ月かそこらでそんなに髪の毛が伸びてるんだよ。新学期の寮に戻る前にニーナに切ってもらってただろ?』
『……髪を伸ばす魔術、成功した』
『マジかよ?! もしかして薄毛にも効くのか?』
『………たぶん。毛根蘇生もできる』
『それお前、実用化したら世界中の救世主だし億万長者だぞ!?』
……いったい何の会話をしているのだろう……。
ディアナはぽかーんとふたりを眺めた。
ほとんどの人には聞こえていないだろう会話だけれど。
それにしたって、大観衆の目の前で、緊迫感がなさすぎる。むしろ何だかとっても気心が知れすぎている。
「テナント兄弟の会話を聞けるとか、ぜいたくすぎるだろ、これ!」
ロニーはロニーで様子がすっかりおかしい。
夢中でフィールドのふたりに見入っている。
「てなんときょうだい……」
「あの兄弟、王都の魔術師なら誰でも知ってる!」
興奮した口調が返ってくる。
特にカワード団長が登場してから、ロニーのテンションが完全におかしい。
——もしかして、団長のファン……?!
言いかけて、ディアナは慌てて口をつぐんだ。「ちっげーよ!」なんてひどく慌てた否定が返ってくるとしか思えない。
『ほら、フィー、ちょっと遊んでとっとと終わらせるぞ』
カワード団長はテナント少年を軽くひとにらみすると、魔術壁に直接手のひらを当てる。
『《氷結》』
たった一語の魔術語で、壁は爆発的に光ると真っ白に姿を変えた。
とん、っと、カワードの拳が軽く壁を突く。
とたんに氷の粒子がきらめきながら一面に舞い上がり、壁が消えた。あんなにアーサー・ボージェスを困らせていた魔術壁が、影も形も見当たらない。
「すっげ!」
「え、今、何が起こったの?!」
「膨大な魔力を一気に叩き込んで、魔術壁を氷の粒の集合体に無理やり変換した。で、殴ってばらばらにして、はい終わり。最後は物理で解決!ってマジかよすっげーー!」
ロニーの目がキラキラと輝いている。
このキラキラ感、ディアナは別のどこかでよく知っていた。
——そうだ、大好きなお肉ランチを食べながら「うんめー!すっげー!さいこー!」ってキラキラしているエドワード・アッテンボローとそっくりだ!
今のロニーは年相応の14歳の少年らしくはしゃいでいる……というよりそこを遥かに遡ってしまって、憧れの大好きなものに大興奮する子どもみたいだった。
妙にかわいらしく感じてしまって、笑いをこらえるディアナにロニーは気づかない。
『とっとと終わらせる……わかった』
ぼそり、と、テナント少年の口元が動いて、ようやく彼は立ち上がる。
パチリと指を鳴らして魔術書をどこかに消し、両手を無造作に天に突き上げた。
とたんに、競技場から、光が消えた。
真っ暗ではない。
きらきらと、無数の白い何かが輝いている。
「星……?天の川みたい……」
眼下に広がる光景に、ディアナは思わずうっとりつぶやいた。
無尽に散らばる数えきれない星たちを、天の高みから見下ろしているみたいだ。
観客席に座っているはずの、自分の体すら暗くて見えない。夜空の一部に溶けてしまったように。
むしろ、すっかり、闇に溶けすぎている。たった一人で闇の世界に漂っているみたいで、ちょっと、怖い。
客席のあちこちから湧いてくる不安そうなざわめきすら、夜の風に揺れる木々の葉擦れに聞こえてくる。
「星じゃない。氷の粒だ。さっきの氷だ」
耳元で、ロニーの声がささやく。
「ロニー、そこにいる?」
声に不安がわずかに混じる。
とん、と自分の体に温かいものがやさしくぶつかった。
「ほら、いる。安心しろ」
「うん、よかった」
自分からもロニーに身を寄せて、ますます体温を感じてほっとして、ようやく安堵の息を吐く。
安心して見おろしたら、やっぱりきれいな光景だった。
きれいすぎて、やっぱり怖い。
怖い星たちがいっせいに、ざわりと揺れる。
と思ったら、まっしぐらに降り注ぎはじめた。一箇所めがけて、流れ星の嵐のように。
その光たちの先にいるのは、余裕の表情でたたずむカワード団長だ。
頭上で魔力を傘のように張り巡らせ、鋭い流星みたいなつぶてを弾く。
青白く魔力で光る傘のうえ、ぱちぱちと無数の氷の粒が白くまばゆく跳ねた。
跳ねて跳ねて、くっついて、粒がだんだん大きくなる。
派手に跳ねては、鋭く落ちる。
さらに跳ねては、くっついて、どんどん重くなっていく。
とうとう一粒が傘を突き抜けたらしく、カワード団長がわずかにのけぞった。
『痛って!おい、フィリアス、そろそろ止めろ!遊びすぎだ!』
返事はない。
代わりにますます粒は激しく高く跳ねて——
ひときわ大きな粒が傘から角度をつけて勢いよく飛び上がり、
——こっちにくる?!
視界に流れ星をとらえた瞬間。
ディアナは動いた。
何かを考える前に。




