(1-1)いつもの朝
ディアナの朝は、いつも決まって同居人を起こすところから始まる。
その前に、裁判所の事務官の制服を着込む。
さらさらとつやのある黒髪のサイドを少し編み込んで、残りの髪を肩に軽く流す。
メイクはあんまり好きじゃないから、ほんの少し。
それでいつもの2級速記官ディアナ・ハースの出来上がりだ。
化粧台の鏡の中では、意志の強そうな黒い瞳がこちらを見つめている。
このまなざしのせいで、性格がキツそうにも思われるけれど、ディアナは自分の今の顔が嫌いじゃなかった。
この街に初めて来た13歳の頃より、自分の顔がはるかに好きだ。
どうしてだろう、なんて、考えなくてもわかる。
なんやかんや長年一緒にいる相棒のおかげだ。
カンティフラス王国の王都に住み始めて、ちょうど10年。
最初は単なるクラスメイトだったのに、不思議と縁が切れず、いつのまにか同居人としてそばに居る。そしてものすごく寝ぼすけだ。自力じゃ絶対起きてこない。もうそろそろ起こさないと。
ディアナは鏡の中の自分に微笑みかけてから、くるりと身を翻した。
自分の部屋のドアを、内側から勢いよくノックする。
「ロニー、起きた?ちゃんと浮いてる?おーい?」
遠慮なくこぶしで叩きまくっているこのドアは、昨夜は屋敷の廊下につながっていた。でも今朝は違う。
ディアナが今行きたいのは、廊下ではないからだ。
思い切りよくドアノブを引き開ける。
湖面が、広がっていた。
見渡すかぎり、一面はりつめた水面。
さざなみひとつない。
気が遠くなるような、静けさだけがある。
遠く向こうに、はるか頭上に、淡い朝の青空が見える。
ここは昔は、ひとつの普通の部屋だった。
でも、最近は、ずっとこうだ。
何が起こったって、ディアナは驚かない。
部屋のドアは、いつでもディアナの行きたいところにつながっているし、彼の部屋はいつだって湖だ。
だって、ここは王宮魔術師ロニー・ボージェスの家だから。
ディアナは、迷いない足取りで、水上を軽やかに歩いていく。
一歩進むごとに、履いたパンプスの下から円が生まれ、広がっていく。
いくつもいくつも広がっていく同心円のその先に、彼がいる。
「ああ、よかった。今日はちゃんと浮かんでた」
しゃがみ込んで、その頬をひたひたと手のひらで叩く。
白い簡素な部屋着を着て、水面に半分沈み込むようにして、その青年は仰向けに寝転んでいた。
彼の体の下には、澄みきった水と柔らかな緑の水草が広がっている。
水草からほころび咲く白い花に戯れるようにして、美しい赤と白の魚が、優雅な尾を揺らしながら泳いでいく。
長くて淡い金茶色のまつげがわずかに震えて、ゆっくりと開いた瞳が、ディアナをぼんやりと映し出した。
昔から、変わらない。夜空のような瞳だ。
「ほら、起きて。朝ごはん食べる時間なくなっちゃうよ?」
ロニーはほんの少し首を傾げた。せっかく開いたばかりの綺麗な目が、そのままとろりと重いまぶたに覆われていこうとする。
ディアナは盛大にため息をついた。ここでうっかり二度寝を許したら、あと1時間は熟睡されてしまう。
「ほら、起きて」
腕をとって、中腰になって引っ張る。
とたんに、ロニーの体が、ずぶりと水に沈んだ。体はひとつも濡れないままに。
原理はよくわからないけれど、この部屋の水はいくら触れてもロニーの体を濡らさない。ディアナも濡れたことがない。
でも、そういうものだ。魔術師の日常なんて。
ロニーはずぶずぶ沈んでいく。
昔ならともかく、今の23歳の彼は年相応以上に背が伸びたし、年相応に体重もある。要は重い。ディアナだってそこそこ背は高いほうだけれど、どうにも手に余る。
それでもこのまま放っておいたら、間違いなく湖底に沈む。すやすや眠り続けられてしまう。
「ちょっと、ほら、遊ばないの。ちゃんと起きて」
ぐいっと強くロニーの手を引き上げて、弾みで浮かび上がった体の両脇に、ディアナは自分の両腕を差し入れる。
背中に手を回して、よいしょと抱きかかえて身を起こすと、するりとロニーの体は湖面から抜けた。
でも半分脱力したまま、ディアナに体を預けてぼぉーっと立っている。
「ちょっと、重いからちゃんと自分で立って。まったくもう、毎朝毎朝!」
「……練習にいいな」
ぐったりと顔をディアナの肩に乗せて、朝いちばんのセリフがこれだ。まったく悪びれたところがない。
「何の練習よ」
「おじいちゃんになった未来の俺の介護」
「かんべんして」
「ディアナの介護は任せて」
「もう何の話なのよ。起きてくださーい」
あきれてドンドンと広い背中を叩くと、ロニーは金茶色の頭をすりっとディアナの頬にすり寄せた。大きな猫に懐かれているみたいだ。
「おはよ、ディアナ」
「うん、おはよ」
これがディアナの毎朝だ。
でも、初めてロニーと会話した朝は、お互いもっとちびのやせっぽっちで。何もかもが遠くて、ぜんぜんこんなふうじゃなかった。