暴れる妻
「なぁコーヒー飲みたいな」
日曜日の昼下がり、昼食を食べ終えてソファでダメ人間になっていた俺は、リビングに入ってきた妻に言った。
「うん。淹れるね」
妻とは三年前に結婚した。友人の紹介で知り合った俺達。妻の茉白は一つ歳下。歯科医院で受付の仕事をしていた。
名前の通り肌が透き通るように白く、一重の目は上下ともに綺麗な弧を描いていた。ショートカットもよく似合っていた。
俺が一目惚れして、猛アタックして付き合うことになった。そして、結婚した。
茉白は結婚を機に仕事を辞めた。元々、家事作業が好きらしく、掃除も洗濯も料理も一切手を抜かず丁寧にこなす。それに愛を感じている。
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妻はキッチンに入るとミルでコーヒー豆を挽き始めた。妻はインスタントコーヒーを使わない。豆を挽いて丁寧にドリップして淹れてくれる。
豆の挽き方がいいのか、お湯の温度がいいのか、妻が淹れるコーヒーは店のものと同じくらいおいしい。
ガリ、ガリ、ガリ、ガリリッ! ガリガリリッ!
ザリリッ! ザラリザラリラ! ザザッザリ!
あれ? 何か激しくない? 不穏な音がする。
妻をちらっと見やるも、表情は至って普通。気のせいか。俺はテレビに視線を戻す。
「おまたせ」
そう言ってソファの上でとろけている俺の前に、妻がマグカップを置く。
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別の日。俺は同僚と飲んでから帰宅した。急遽決まった飲み会。妻にメッセージを送った。
〈飲んで帰ることになったから、夕飯いらない〉
すぐ返信がきた。
〈了解(アザラシがOKという文字が掲げているスタンプ) 気をつけて帰ってきてね〉
寛大な妻に感謝した。
ほろ酔いで帰宅した。小腹がすいてきて「何か軽いもの作ってくれない?」と妻にお願いした。
「お茶漬けかうどんどっちがいい?」
「優しい出汁のうどん」
「わかったわ。ちょっと待って」
妻はキッチンに向かうと、ちゃちゃっと手際よく、刻み葱が乗っかったうどんを作ってくれた。どんぶりを俺の目の前に置くと、妻は浴室に向かった。風呂に入るのだろう。
まもなく浴室から、バシンバシンと何かを叩くような音が聞こえた。
ゴキブリでも出たかな?
妻は虫が平気で、ゴキブリ等にもビビらない。勇ましく撃退する。頼もしい限りだ。
どんぶりを持ち上げ、つゆを啜る。優しい出汁が胃に沁み渡る。「うめぇ」俺は呟く。
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翌日、風呂に入っている時だった。俺はあることに気づいた。それは浴室用掃除ブラシが、ちょくちょく変わってるなということ。
風呂から上がり妻に「最近、掃除ブラシよく変わってない? 一昨日までピンク色だったよね?」と、タオルで髪の毛を拭きながら尋ねた。
ソファに座っていた妻は、ちらりと俺を見上げて言った。
「ピカピカにしたくて思い切り擦ったら折れちゃって」
どんだけ怪力だよ! と思うもそれは言わない。「そうなんだ」と何でもないように返す。掃除ブラシが折れてしまうほど、ピカピカに掃除してくれているのだ。感謝しなければ。
その週末。おれは定位置のソファで、ダメ人間になっていた。妻は朝食の片付けをし、洗濯物を干し、まめに動いている。洗濯物を干し終わると次はリビングの掃除を始めた。
うぃーん、うぃーんという掃除機の音を聞きながらも、俺はソファの上でとろけたままだ。
一通り掃除を終えると妻は寝室へ。
ぼふっ! ぼふっ! とやわらかいものを叩く音がした。布団でも干してくれているのかもしれない。今日は快晴だしな。よくできた妻だ。
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ある夏の日。とんでもなく暑い一日だった。こんな気温が続けば、地球は沸騰してしまうんじゃないかと思うほど。
そんな日でも妻はきちんと朝食を用意し、後片付けをし、洗濯物を干す。どうして、そんなに動けんだ。一通りの家事を終えた妻は、麦茶を入れてくれた。
こんなに頑張ってくれている妻を労るつもりで
「お昼は素麺とか簡単なものでいいよ」
と言った。すると妻は般若のような表情になった。
「ひっ! どうしたの⁈」と声が漏れてしまった程だ。
「いい加減にしてっ!」
妻はリビングから出ると数秒で戻ってきた。その右手には浴槽用掃除ブラシ、左手には俺の枕を持っている。
「あんたなんか! あんたなんか!」
妻は叫びながら掃除ブラシを振り回し、俺に襲いかかろうとする。
「えぇっ! どうしたの! 悪いことしたんなら謝るから!」
リビングのテーブルの周りを逃げ回りながら、俺は言う。妻はそんな俺を執拗に追いかける。妻が振り上げる掃除ブラシが直撃すると、少しはダメージを受けるだろう。場所によっては流血する可能性だってある。
百周くらいテーブルの周りを回ったところで、妻は突然、追いかけるのをやめた。心臓が今までで一番ばくばくしている。
妻は一度投げ出した俺の枕を手に取ると、壁に押しつけて「この野郎! ふざけんな! 自分で動け!」と言いながら何度も殴った。
俺は唖然とした。
もしかして。
酔って帰宅した日、風呂場から聞こえてきた音は、妻が掃除ブラシが折れるほど壁とか床を叩いていたのではないか。
日曜日、妻が掃除する傍らで、ソファでダメ人間化していた時、寝室に向かった妻は、布団を干していたのではなく、俺の枕を今みたいに殴っていたのではないか。
全てが腑に落ちた気がした。俺は高らかに言っていた。
「お昼の素麺、作らせて下さい!!」
読んでいただき、ありがとうございました。