第9話 山吹の泉
「伊勢とな?」
天武天皇が眉を顰めて訊き返す。額田王も怪訝な顔で見つめた。だが、皇后鸕野讃良は顔色ひとつ変えない。
「はい、伊勢の神宮にございます。十市皇女を斎王に任ぜられてはいかがでしょう。泊瀬か倉橋河の斎宮で潔斎させれば、未婚でなくとも問題ありますまい」
「確かに。伊勢の斎王ならば誰あろうと手出しはできぬな。しかし、伊勢にはすでに大伯がおるではないか。斎王がふたりなどとは聞いたことがないぞ」
「斎王がひとりでなくてはならぬとも聞いたことはございませぬが」
斎宮は制度化されてまだ一代目。明文化されているわけではない不文律を逆手に取り、鸕野讃良はこともなげに述べた。彼女の提案に天武も揺れる。そもそも十市皇女を斎王に任ずるというのは天武の発案だ。反対する理由もない。
伊勢神宮は神聖な場所だ。怖れ知らずの極悪人といえども迂闊に近づけば神の怒りに触れ、神罰が下されると誰もが信じて畏れ戦いている。ある意味、これほど安全な隠れ蓑はないだろう。それだけではない。斎王は神の妻となる身。男子とは一切接触を禁じられている。たとえそれが実の息子であろうとも。
「大友さまとも死に別れた上、葛野とも離れよと申されるのですか。それはあまりにも酷うございます」
息子のみならず、男子禁制は異母弟高市皇子とて例外ではない。
「御世が代われば、斎王の任も解かれる。一生会えなくなるわけではない」
天武も鸕野讃良の意向に傾いている。だが、額田はまだ躊躇していた。
「本当にそれしか十市を救う手立てはないのですか」
「十市にとって最良の身の振り方だ」
「しかし、十市にはなんと……」
「言わずもがな。これは勅命だ」
天武は断言した。鸕野讃良も口を開かなかった。彼女の姿勢は、天皇の命には違背せず、という掟の遵守を暗に示唆している。自分から口火を切りはしたが、最終的に勅命として篭絡してしまう手並みは流石としか言いようがない。
額田はその光景を見て、すべてを悟った。天武が兄天智天皇の御前に長槍を突き立てたあの修羅場を難なく収めたのはこの自分だ。その自分が、あの頃まだ小娘だと思っていた皇女の前で返す言葉すら見つけられず、まるで子羊のように戦慄いている。
さらに、かつての夫の勅命が止めを刺した。愛しい想い出もすべてが虚妄と消えてゆく。政とは、現実とはそういうものなのだ。一種のあきらめが額田を襲う。残された唯一の希みは、伊勢で俗世を棄てた娘がせめて心安らかに余生を過ごせることだ。
禁中を出て、ふと何気なく庭に目をやると、桜の薄紅の合間から鮮やかな山吹の黄金色が煌々と顔を覗かせていた。
——山吹など、まだその季節ではないというに……
額田はなぜか激しい胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
「……そう……伊勢へ……」
十市皇女の視線が当て処なく虚空を彷徨う。
「天皇の……命……」
またこれだ。自分の人生を翻弄してやまない「勅命」という名の呪縛。十市の瞳は珍しく怒りの色を成していた。これに抗う術を自分は持たない。そのことに対する憤りか。
——まこと、そうなのか?
己が胸に問いかける。抗う術を持たないのではない。持とうとしないのではないか。ならば抗えばよい。しかしどうやって?
——いっそのこと、高市のもとへ行ってしまおうか……
否、と頭を振る。今や高市は天武朝にとってなくてはならない重臣だ。加えて、皇后鸕野讃良の専横を制御できるのは彼をおいてほかにはいない。父天武天皇の片腕としてだけでなく、この飛鳥浄御原宮に無二の存在として君臨しているのだ。政治家としての道を順調に歩んでいる彼の邪魔をしたくはない。
すやすやと眠る葛野王の寝顔を見る。愛息の行く末も気にかかる。自分が斎王になったらこの子の後ろ盾はいなくなってしまう。だが自分が後ろ盾にいる限り、葛野は近江の残党に担ぎ上げられてしまうかもしれない。
——私がいなければよいのか?
いいや、斎王は天皇が代われば交替を余儀なくされる。斎王の任を解かれ、俗世に戻った後は再び近江の残党が近づいてくるであろう。
——またあの乱世に戻るのか?
天下が二分され、数多の血が流された壬申の乱。あの乱れた世に国民を巻き込むことなど自分にはできない。自分のような不幸を、もう誰にも味わってほしくはない。
葛野の頬にかかったおくれ毛を撫でる。今も都が近江のままで、大友皇子が天皇であったなら、この子は皇太子——。父が夫と皇位を争わなければ、母を皇族に持たない大友が即位できたかもしれないのだ。それだけではない。その前例があれば、彼と同じく母が皇族ではない高市が天皇になる可能性無きにしも非ず。さすれば皇太子は長屋王……。
——長屋王に皇位を渡したくない。
十市の心にあさましい邪念が湧き立った。はっと顔を上げる。
——私は今、なんということを……
その一瞬の閃きにぞっとした。愛する高市の息子に対してなんというあさましい願いを抱いてしまったのだろうか。十市は己の心にある醜い思考を呪った。だが、打ち消しても打ち消しても湧き上がってくる。滾々と湧き出でる泉のごとく、もう自力ではどうしようもないほどに止められない。
恐ろしい。血筋というのはかくも恐ろしいものなのか。
そうだ。呪うべきはこの身体に流れる天皇家の血。この力は凄まじい。自分は知っている。天皇家の血という力が愛息の人生を狂わせることになるということを。息子はこの力を持ってはいけないのだ。
——断ち切らなければ。
葛野を見つめる。その屈託のない頬にぽたり……雫が落ちた。
十市は涙を拭うと吹芡刀自を召した。
「久方ぶりに出掛けようかしら。神宮に入ったら外へは出られないもの。だから今のうちに、ね」
にっこり微笑む。吹芡の顔に見る見る歓喜の色が浮かんだ。滅多にない笑顔を向けられ、吹芡は舞い上がっていたのかもしれない。喜びが勝り、十市の心の奥深くにある憂いの闇を嗅ぎ取ることができなかったのだろう。
「どちらへまいりましょう?」
胸を躍らせ訊ねる。十市も屈託なく問い返した。
「そうね、羽田あたりで花摘みなんて……まだ早いかしら?」
「いいえ、いいえ。薬猟にはまだ早うございますが、花ならばもう咲いておりましょう。そうですわ、桜が散る前にまいりましょう」
少女のように無邪気にはしゃぐ吹芡を十市が微笑まし気に見つめる。その瞳もまた、純真無垢な童心に戻ったかのごとく澄んでいた。
678年4月7日、寅の刻。十市皇女急死の報せが宮中を駆け巡った。天武天皇が輿に乗り込み、御簾を下げ、倉橋河の斎宮へ向けて出立しようとした、まさにその瞬間のことである。
「なぜだ! なぜ……」
七日後の葬儀で、天武は人目もはばからず大声を上げて泣いていた。なぜと問うたところで、答えは返ってこぬとわかっていても。
十市は赤穂に葬られた。高市皇子は悔恨の涙を流し続け、眠れぬ夜を幾つ数えたか知れない。
三諸の神の神杉巳具耳矣自得見監乍共寝ぬ夜ぞ多き
神山の山辺真麻木綿短木綿かくのみからに長くと思ひき
山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
——いつか必ず迎えに来る。それまで待っていてほしい……
生きていれば、いつか必ず結ばれると信じていた。だが、その日がやってくることは永遠に失くなってしまった。まさか彼女の命がこんなにも短いものだとは……。
高市が残した歌は、十市に捧げたこの挽歌3首のみである。
額田王は、このときも含め晩年に至るまで歌を残してはいない。世に名を馳せた女流歌人の、寂しい後半生だった。
「十市の幸せを願ってしたことが、すべて十市を苦しめていたというのか」
脱力したまま吹芡刀自に問う。
「皇女さまは、いつもご自分の意思で動くことはなされませんでした。いいえ、それは許されなかったのです」
吹芡は自責の念に堪え、涙ながらに訴えた。
「十市のたった一つの意思が、これであったと申すのか。え? 吹芡よ。自ら命を絶つことが、十市に許された唯一の意思であったと……」
額田は取り乱し、吹芡に詰め寄った。もはや流れる涙を拭おうともせず、慟哭の入り混じる声を振り絞っている。
吹芡の心にも深い悔恨が刻み込まれていた。あのとき、なぜ気づかなかったのか。花摘みに行きたいなどと言い出したときにはすでに、十市は死を決意していたということに。彼女の意志は巌よりも堅かったのだ。
「お歌を詠まれませなんだのも、おそらく……」
「それも十市の意思か。それさえも気づかぬとは。十市の申した通り、私には歌詠みの資格などないのかもしれぬ」
愛娘を失った母親の背中はあまりにも哀れで、吹芡にはかける言葉さえ見つけられなかった。
「私はもう歌を詠まぬ。二度と詠わぬぞよ」
庭では、山桜が狂ったように散り乱れてゆくのを尻目に、黄金色の山吹が皮肉にも生き生きと咲き乱れていた。
(第一章「十市皇女の悲憤」終わり)
第一章「十市皇女の悲憤」はこれで終わりです。
次回からは第二章「大津皇子の抵抗」をお送りします。
次回は第1話「大名児」。
次章からは所々に救いを持たせてあります。
引き続きよろしくお願いいたします。
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【一口メモ】
◎三諸の神の神杉巳具耳矣自得見監乍共寝ぬ夜ぞ多き(万葉集 巻第二 156 高市皇子)
「巳具耳矣自得見監乍共」の読みは諸説あり、未だに解明されていません。
◎赤穂
十市皇女が葬られたとされる赤穂の推定地は奈良市高畑町です。十市皇女は式内赤穂神社(高畑町)から500mほど東に鎮座する比賣神社(旧比賣塚)に御祭神として祀られています。