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第8話 常処女(とこをとめ)

 高市皇子が妃を(めと)る——。十市皇女を()()(たま)の闇が襲った。

 ——いつか必ず迎えに来る。それまで待っていてほしい。

 待っている。いつまでも待っている。なにがあっても彼を信じて待っているつもりだった。だけど……。

 少しでも期待した自分が愚かだったのか。そうだ。近江朝の大将の妻だった自分が、この飛鳥で幸せを願うなど許されるはずがなかったのだ。自分は馬鹿だ。なんと愚かな……。

 茫然と(たたず)む十市に、吹芡刀自が慰めるように囁いた。

「高市さまは最後までお断り続けていたそうです。しかし、天皇(すめらみこと)の命には逆らえず……」

 天皇の命——。この「天皇の命」という何の根拠も知らされない不条理に、今まで十市はどれだけ翻弄されてきたのだろう。

「吹芡……おまえは知っていたのね」

「も、申し訳ございませぬ」

 吹芡はその場に慌ててひれ伏した。

「いいのよ。誰も悪くはないわ。誰も……」

 十市は長い(まつげ)を伏せ、水辺に片膝を着いた。その姿はまるで、長年苔ひとつ生えさせぬ岩群(いわむら)のように神聖で、永遠に乙女のまま変わらぬ清らかささえ匂わせる。


  川上の()つ岩群に草()さず常にもがもな(とこ)処女(をとめ)にて


 吹芡は詠った。淡い海の畔で、なんの疑いもなく花と(たわむ)れていた近江時代。永遠にあの日の少女のままでいられたなら……。




 高市皇子の訪れが途絶えた。十市皇女は不安をいっそう掻き立てられる。そんな不安に追い討ちをかけるように、翌年、阿閇皇女の同母姉御名部(みなべ)皇女が高市の嫡男(なが)()(のおおきみ)を産んだとの報せが舞い込んできた。それはとても元気な男子で、初めての内孫誕生に天武天皇も歓喜に満ちたことだろう。

「それはそれは、御目尻を下げてお喜びのご様子。なにしろ、高市さまにそっくりだそうで。お()(もと)涼しく、端整なお顔立ちにて……」

 侍女らのこと細かい報告も、十市の胸を無惨に切り刻むだけである。

「母上」

 愛しい声は葛野王だった。同じ天武天皇の孫だというのに、この扱いの違いはなんなのか。それでも、この子にだけは悲しい顔を見せてはいけない。だが、我が子は母親の悲哀を敏感に掴み取る。

「母上、泣いておられるのですか?」

「いいえ、あなたがいるのになにを泣くことがあるというの」

 今となっては葛野の存在だけが十市を支えていた。ふっ……と微笑んでみせる横顔はどこか(はかな)い。

 ——いつか必ず迎えに来る。それまで待っていてほしい。

 いつまで待てばいいのだろう。当てのない約束を、今でも心のどこかで信じている。しかし、高市が迎えに来ないまま1年が過ぎ、また1年が過ぎると十市は笑わなくなった。

 日一日と父親に似てくる葛野を見るたびに胸が潰れそうになる。重なる面影は不本意に死んでいった夫大友皇子だ。そしてもうひとつ、脳裏に去来するのは、近江の碧空が映る淡い海。いやでも思い出す、近江大津京での暮らし。生前の夫への冷淡な仕打ちを思えば、光など望むべくもない。先にあるのは射干玉の闇だけだ。

 一歩一歩、確実に追い詰められてゆく絶望の淵を、このときすでに十市は見つめていたのかもしれない。




 日増しにやつれてゆく娘の姿を見かねたのか、額田王はあるうららかな春の日、天武天皇の御在所を訪れた。

「額田どの、よう参られました」

 案内された禁中では、皇后鸕野讃良も顔を揃えて出迎えてくれた。額田に向けられた鸕野讃良の笑顔は、心なしか勝ち誇った風にも見える。政略結婚を逆手に取り、前妻に打ち勝ち女人の最高位に君臨したという勝利感が現在の彼女には満ち溢れていた。

皇后(おおきさき)大祓(おおはらえ)の相談をしていたところだ。遠慮せずともよい」

「ありがたきお言葉にございます」

 天武に促され、額田はふたりの前に置かれた倚子(いし)に腰かけた。時代の移り変わりをひしひしと感じる。ここに来たことを少し後悔した。自分はもう、天武の妻ではない。天智天皇の未亡人なのだということを、過去の人間なのだということを目の前のふたりと対峙したとき、痛烈に思い知らされたのである。

天地(あめつち)の神々を祭る大祓に伴い、斎宮(いつきのみや)を倉橋河の河上に造らせたので、行幸(みゆき)の日取りを占わせているのですよ」

 鸕野讃良の説明に天武も続けた。

「今年は桜が早いゆえ、散り始める前に斎宮へと参りたいのだ」

「確かに今年は暖かいとみえて、花が開くのが早うございますな」

 額田は物憂げに外を見遣(みや)った。

「いかがしました、額田どの。なにか気がかりなことでもおありなのですか」

 女の勘とでも言おうか。昔の華やかな頃とは違う額田の雰囲気を察したのは、元夫天武ではなく後妻の鸕野讃良だった。

「実は……十市のことでございます」

 額田は躊躇いながらも語りはじめた。

「十市? 十市がいかがしたのだ」

 十市皇女は天武にとっても可愛い長女だ。額田の沈んだ口調に父親の情念が(うず)く。

「このところ元気がなく、笑うこともなくなりました。親として何かしてやれることはないものかと……」

 天武には心当たりがあった。長男高市皇子とのことだ。自分は国家のためにふたりを引き裂いた。国を護る天皇として、その判断が間違っていたとは思わない。しかし、ふたりの父親としては、まったく心が痛まなかったわけでもない。天武とて断腸の思いで決断を下したのだ。

「このままでは、あの子が不憫でなりませぬ」

 前妻の言い分もよくわかる。

「だが、下手に十市を表に出せば近江の残党を刺激することになる」

「では、十市の気持ちなどどうでもよいと?」

「そうではない。我が子を思わぬ親などおらぬ」

「ならば、どうせよとおっしゃるのです」

「それは……」

 ふたりのやり取りを、鸕野讃良は黙って聞いていた。元夫婦の会話など自分の出る幕ではない。しかし、これが政に関わることとなれば話は別だ。

 天武と額田の押し問答が途切れたところで、鸕野讃良はおもむろに口を開いた。

「近江の残党の手の届かぬところへ、十市を遠ざけることが肝要かと存じます」

「なに?」

 天武は鸕野讃良を見た。額田も驚きの表情を向けた。鸕野讃良が続ける。

「実は、(ちち)天皇(うえ)亡き後、大友皇子が近江大津宮で即位していたとの噂が一部で囁かれております」

 初めて耳にする話に額田は目を丸くした。それが事実ならば十市は皇后の位に就いていたことになる。

「ありえませぬ!」

 額田は立ち上がり声を張り上げた。鸕野讃良は動じず、さらに続けた。

「私たちは父天皇が崩ぜられたとき吉野におりましたので事実は知りません。もちろん、大友が即位したなどという話も認めてはおりません」

 大友皇子が即位したという噂話が事実としてまかり通ってしまったら、大友の近江朝を滅ぼした天武こそが朝敵であり、天皇を弑逆(しいぎゃく)した大罪人となってしまう。ゆえに、「大友天皇」の存在を天武朝が認めてはいけないのだ。

「ですが、近江朝にいまだ恩義を感じている者どもは、大友が即位したものとして皇后十市を()(しるし)に、この飛鳥を攻め滅ぼそうと狙っているのもまた事実です」

 淡々と語る鸕野讃良とは対照的に、額田はがくがくと身体を震わせ再び倚子に腰を落とした。

「十市を御璽に?」

 このまま放っておけば、十市は再び戦乱の渦へ身を投じることになる。ゆえに、十市を安全な場所へ移そうというのが鸕野讃良の出した結論だ。

「し、しかし……いったいどこへ……?」

 額田はどもりながら聞き返した。これが宮廷を華々しく闊歩していた歌姫だろうかと目を疑うほどに狼狽している。彼女にはまだ事実関係が呑み込めないでいた。本人の知らないところで、十市がそのような事態に巻き込まれていたとは。ただ、娘を危機から救うため、このままではいけないという母親としての本能を突き動かしたことだけは間違いない。

 天武は険しい表情のままずっと口をきつく閉じている。彼は父親としてではなく、天子として思案を巡らせていた。そのときだ。

「伊勢がようございましょう」

 突如、思いついたように声を上げたのは鸕野讃良だった。

次回は第9話「山吹の泉」です。

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