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第7話 勅命

 射干玉の闇は、一方の(たけ)市皇(ちのみ)()にも容赦なく襲いかかる。後日、廟議が終わると天武天皇は高市を召し出した。

「十市に会ったそうだな」

 父天武の表情は明らかに怒りのそれだった。高市は思わず息を呑んだ。

「……はい。私はいずれ十市皇女を妃に迎えるつもりにございます」

(かど)()はどうする?」

「もちろん引き取り、私の子として育てます」

「ならぬ」

 天武はたった一言で高市の(のぞ)みを一蹴した。

「父上……いえ、天皇(すめらみこと)。なにゆえにございますか」

 高市は食い下がった。

「よからぬ噂がある」

 父のいつになく険しい表情に硬直する。天武は息子をじっと見据えた。

「葛野を奉じて近江朝を復活させんと目論む輩がこの飛鳥に潜んでいるという」

 高市の身体に戦慄が走る。近江の残党は十市が生んだ大友皇子の遺児葛野王を担ぎ挙げ、天武への復讐を企てようというのか。

「しかし、葛野はまだ6歳です。いくらなんでも……」

「十市がいる」

「十市が?」

「葛野が成人(ひととなり)(いた)すまでの間、十市を(なかつ)天皇(すめらみこと)に据え置こうというのだ」

 近江朝を復活させた暁には、(ひと)()ず十市を中継ぎの天皇として飾っておき、葛野が然るべき年齢に達したら即位させるという算段らしい。

「その十市を妃に迎えるということがどういうことかわかるな」

 言葉を失う息子に対する声色は厳しさを増した。

「謀反の片棒を担ぐか」

 高市が十市を娶れば、当然近江の残党は高市を引きずり込もうとするだろう。

「私は天皇に謀反を企てるほど愚かではありませぬ」

 高市は強い口調で言い切った。だがそれ以上に天武は語気を強める。

「おまえが愚かでなくとも、愚かな者どもがおまえの周りに集まってくる」

 政というものは、己の意思とは無関係の方向へと動き出すものだ。もし仮に高市が十市とともに近江朝の再興に加担する結果にでもなれば、高市は天皇に反旗を翻した朝敵とみなされることは必至である。

「どれほどこの世が平らかになろうとも、誰もが心のどこかに闇を抱えている」

 いつの時代にも反分子は存在する。事実、敵対勢力に備え、天武は軍事強化に本腰を入れていた。

「私はけして天皇の意に背くようなことはいたしませぬ。どうか私をお信じくださいませ」

 高市は必死で父に訴える。

「このままでは十市と葛野が憐れにございます。どうか、どうか十市皇女を私に賜りください」

 だが、天武は無情にも言い放った。

「ならぬ」

 それを聞いた瞬間、高市はその場に片膝を着いた。

「天皇、お願いにございます!」

 手を着き、頭を垂れ、懇願する息子の気持ちはわからなくもない。それでも天武は首を盾には振らなかった。

「ならばおまえに問う。もし十市を娶り、男子が生まれたならいかがする」

「……」

 天武の問いに高市はすぐには答えられなかった。

「万が一、葛野とおまえの子が跡目を争ったとして、おまえはどちらを選ぶ?」

「すべからく葛野にございます。長幼の序を(たが)えれば争いを生みますゆえ」

「そう言い切れるか?」

「はい」

 即答はしたが、高市の目は明らかに迷いの色を浮かべていた。それを見逃す天武ではない。

「ならば十市はどうだ?」

「……」

 高市はまたも口をつぐんだ。愛情のない夫との間に儲けた子と、愛する男との間に生まれた子のどちらを可愛いと思えるか。十市の本能が理性に負けるとは言い切れない。それを誰が責められよう。

「朕は迷うておるぞ。草壁と大津、どちらを皇太子(ひつぎのみこ)に立てるかを、来る日も来る日も迷うておる。(おお)(きさき)には顔を合わせるたびにせっつかれておるが、いまだ答えが出せずにいる」

 年齢は草壁皇子のほうが一歳上だが生来病弱で気も弱く、一国を背負わせるには頼りない。対して大津皇子は才気に溢れ文武両道、貴賤に(こだわ)らず誰にでも分け隔てなく接し、群臣群卿からの人気も高い。

 国内最大の内乱を制した王者でさえ後継選びには慎重になる。しかも皇后所生の皇子がいるにもかかわらず迷いが生じているのだ。それを鑑みれば高市の苦悩は想像に難くない。愛する十市が男子を生んだとしたらなおさらのことであろう。

「おまえには選べまい。ゆえに朕が今ここで申し渡す。十市を娶ることは断じて(ゆる)さぬ」

「父上!」

 叫ぶと同時に猛虎の光が高市を射抜いた。息の根を止めるほどの衝撃。それは父ではなく天皇の言葉——つまり勅命だ。

 高市は押し黙ったまま両膝をついた。黙るしかなかった。勅命の前では、たとえ天皇の長男であろうとも返す言葉を探してはいけないのである。天皇の権威をより強固なものとするために、官僚制を刷新して皇親政治を推し進めているのだ。政治中枢に携わる高市が自ら新体制を崩しては臣下らに示しがつかないだろう。それでなくとも、新朝廷の政策は一部の皇族や豪族から反感を買っているのだ。

「国と女と、どちらを取る?」

 父の問いには説得力があった。彼もまた、先の理由で元妻額田王を引き取らずにいたのだから。

 仮にも高市は天下を分ける大戦で総大将を務めている。壬申の乱のさ中、()(ざみ)(関ケ原)から父のいる野上を訪れ、弱気になる父を「自分がついているから大丈夫」と鼓舞したのはほかでもない高市である。天武はこの長男の言葉にどれほど勇気づけられただろうか。壬申の乱を勝利に導いた陰の立役者は高市皇子と言っても過言ではない。

 そんな英邁と明敏を備えた高市だからこそ、父の国作りにおける政治構想も皇后鸕野讃良と同等に理解している。しかし、高市はまだ若い。父のようには割り切れない感情を持っている。幼い頃より温められてきた想いなのだ。けして叶わないはずの初恋。それがやっと通じたのである。このままおめおめとあきらめられるわけがない。

 仮に、自分が天皇になったなら十市を手に入れることができるのであろうか。高市の脳裏にその思考がよぎらないこともない。だが、その可能性は皆無だ。高市の母は皇族ではないからだ。同じく皇族の母を持たない大友皇子が玉座に手を伸ばしたがために壬申の乱は起こった。そのせいで罪もない人間が多勢殺された。残された家族らの惨状も目の当たりにしている。十市も内乱の犠牲となったひとりだ。

「女を取って、再び戦を起こすか」

 戦だけは絶対に避けなければならない。しかし聡明な高市をもってしても、その胸中は到底理屈で割り切れるものではなかった。

「信じているぞ」

 息子の答えを待つまでもなく、天武は言い残し、去った。

 ひとり残された高市は(ひざまず)いたまま深い溜め息をついた。吐き出した息が白い。立ち上がれずに天を仰ぐと、粉雪が狂ったように舞い踊っていた。

 父天武が即位してからまもなく丸2年。山麓の寒風は、湖畔のそれとは比べものにならないほど厳しかった。




 2月13日。十市皇女は伊勢神宮参詣のため、故天智天皇の第四皇女阿閇(あへ)とともに飛鳥を出立した。久々の遠出である。

 波多(はた)の横山を流れる川辺を通りがかったとき、阿閇の輿(こし)がいきなり止まった。

「見て。なんて澄んだ水だこと。少しお休みしませんこと?」

 侍女の答えを待つ間もなく、阿閇は輿を降りて川辺へと走り寄っていってしまった。

「十市さまもご覧あそばせ」

 はしゃぎながらくるりと振り向いた阿閇の、なんと瑞々しいことか。今年15歳という彼女は、そのはちきれんばかりの若さを心ゆくまで堪能しているようでもある。

 15歳といえば、十市が輿入れした歳でもあった。当時の十市は毎日部屋に籠もり、何も考えず、何も見ようとはせずに、ただ日がな一日過ごしているだけだった。

「寄り道なさいますと皇后(おおきさき)さまのお叱りを受けてしまいます。そろそろご出立を」

 皇后鸕野讃良を(おそ)れやきもきする侍女を尻目に、阿閇は無邪気に答えた。

「黙っていればわからないわ。ねぇ、みんな」

 阿閇は愛らしく目配せをする。十市にはとても真似できない。

「皇后さまは私のお異母姉(ねえ)さまですもの。お叱りを受けたら、私がみんなを庇ってあげるわ」

 阿閇の母は鸕野讃良の母の妹だ。鸕野讃良と同じ蘇我の血を引くという自負がそう言わせるのか。それともきらきらとした自然界の息吹が少女を大胆にさせるのか。

「さ、十市さま」

 阿閇の華奢な腕が、すぅっと十市に差し伸べられた。

皇女(ひめみこ)さま、たまには異郷の地に触れられるのもよろしいかと」

 侍女吹芡刀自にも促され、十市は手を引かれるままに輿の外へと降り立った。久々に吸う大和以外の空気。阿閇と(たわむ)れる水しぶきが光を含み、瞳に射し込んでくる。

 思わず目をつぶった。水は嫌いだ。だが、瞳を閉じれば否応なしに浮かんでくる、淡海の湖面に揺れる光の細波(さざなみ)。眼裏にはっきりとよみがえってくる。十市は慌てて瞳を開けた。

「うふふ」

 目を開けると、阿閇の笑顔が飛び込んできた。やけに嬉しそうである。

「あなたはいつもそんなに元気なの?」

 十市は訊ねた。阿閇はにこにこしながら答える。

「ええ、実は、いいことがあったもので」

「いいこと?」

「はい、同母姉(あね)の輿入れが決まりましたの」

「まぁ、知らなくてごめんなさい。それは、おめでとう」

 おめでとうと口にしてはみたものの、十市は微かな羨ましささえ感じていた。素直に喜べるほどの相手に嫁げることを、自分は経験できなかったがゆえに。

「お姉さまが嫁がれれば、次は私の番ですわ」

 阿閇は自分の縁談も嬉しそうに話してくれた。相手は草壁皇子なのだと言って頬を赤らめる。草壁は鸕野讃良の愛息だ。いずれ皇位を()ぐのはこの皇子と目されていた。

「まぁ、すごいことだわ」

 十市は感嘆した。当然のことだが、阿閇はそれを誇らしげに披露している。なのに、なぜ自分は、天智天皇が皇嗣にと望んでいた大友皇子の妃となることを誇りに思えなかったのだろう。

 皇太子候補に皇后と同じ蘇我の血を引く皇女を(めあ)わせるとなれば、その同母姉の結婚相手もそれに匹敵する有力な皇子だ。該当するのは同じく皇太子候補の大津皇子だろうか。

 阿閇は可愛らしい唇を十市の耳元に寄せると、そっと教えてくれた。

「お姉さまのお相手? ええ、それはもうご立派なお方です。お姉さまのお相手は、」

 次の瞬間、紅い唇から零れ落ちた言葉が、十市の心を握り潰さんばかりに締め上げた。

「高市皇子さまです」

次回は第8話「とこ処女をとめ」です。

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