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第6話 飛鳥ふたたび

 9月、大海人皇子の凱旋により、(みやこ)は飛鳥に戻された。飛鳥(あすか)(きよ)()原宮(はらのみや)である。太古の神々が降臨した大和に再び帰還できたことを、国の民らはことごとく(よろこ)んだ。

 翌673年春2月27日、大海人皇子は即位した。第40代天武天皇である。同時に皇后の位には鸕野讃良皇女が鎮座した。

 天武は即位後、早速それまでの官僚制を廃止し、太政大臣や左右の大臣は置かず、皇后鸕野讃良と長男高市皇子を筆頭とした皇族中心の政を遂行した。いわゆる皇親政治である。兄天智のやり方を否定するこの政策に、天武の兄に対する独自の視点が反映されている。

 天武が壬申の乱の折、偶然ではないにしろ東国各国の領民に触れる機会を得たことは幸運だった。そこで彼は国民感情から、天智の政の誤りを見つけ出すこととなる。

 中央では有力豪族の台頭を抑え専制君主を確立する一方で、才能ある人材を惜しみなく登用するという合理的政策を打ち出したのがそれだ。これは過去、聖徳太子が理想としながらも敢行できなかった国家作りを彷彿とさせる。

 そしてもうひとつ、天武には為さなければならない課題があった。

「十市皇女を斎王(いつきのみこ)に……ですか?」

 皇后鸕野讃良が問い返した。天武は力強く頷く。

「うむ。伊勢の斎王だ」

 吉野を脱出した翌々朝、天武一行は伊勢の国(あさ)()(のこおり)()()川のほとりで天照大神(あまてらすのおおかみ)を遥拝した。といえば聞こえはいいが、実際は伊勢神宮の方角に身体を向けて戦勝祈願の真似事をしたにすぎない。

 無論、彼らは本気で戦勝を願っていた。だがそれ以上に重点を置いたのは、まず伊勢の国を味方につけることである。伊勢という地は東国への窓口となる場所で、この第一関門を突破できなければ天武らは東国に入ることすらかなわず、壬申の乱に勝利する確率は格段に下がっていたのだ。

 ゆえに伊勢神宮を崇め奉り、伊勢の国を尊んでいるという顕示が必要だった。

「伊勢の神のご加護があればこそ、我らは戦いに勝つことができたのだ」

「御礼参りに皇女を奉るということですか。しかし前例がございませぬ」

 鸕野讃良は微妙に戸惑っていた。斎王は推古天皇の御代以来、50年程途絶えていたからだ。彼女の生まれる以前であることはもちろん、天武すらもまだ生を受けていない。

「慣習はまた新たに創ればよい。此度は十市を斎王として伊勢へ行かせる」

 確かに、天照大神を皇祖神に据え伊勢神宮を手厚く遇し、天皇家の(やしろ)としての地位を世に知らしめることは、東国を掌握することにもつながる。壬申の乱の例からもわかるように、東国の軍事力は計り知れない。これを味方につけておく重要性は、誰よりも天武が一番よく知っていた。

 天武と終始行動をともにした鸕野讃良も、すべからくそれは心得ている。が、彼女の懸念はまた別のところにあった。

「十市でなくてはいかぬのですか」

 十市は敵方の大将の妻だ。敗者側の人間となった今、再婚相手を見つけるのは難題である。ならばいっそのこと伊勢へ行き、俗世から離れ、余生を静かに過ごすほうが十市のためではないか——天武の言い分はこうであった。

「十市は子を()しております。神に仕えるのであれば、未婚の皇女でなくてはならぬのではありませんか」

 斎王は男子との接触を一切禁じられていた。まさに、俗世から隔絶された世界であり、清らかな精神と身体が要求される。

 皇后の言葉に天武は腕を組んだ。彼女の言うことにも一理あるからだ。それにこれから先、この皇后を片腕としてやっていくからには、彼女の意見も尊重せねばなるまい。

「うむ、そなたの申すことももっともだ。では、どの皇女を伊勢へ送ったらよかろうか」

(おお)()皇女がよろしゅうございましょう」

 まるで話の展開を想定していたかのように鸕野讃良は即答した。大伯皇女は、鸕野讃良の早世した同母姉大田皇女の忘れ形見であり、天武がこよなく愛する大津皇子の同母姉でもある。この(しん)(ちん)(たい)()なる皇后の思惑がどこにあるのかはわからない。が、天武は彼女の意向に従うことにした。

 大伯は(はつ)()で潔斎を行なった後、翌年10月9日、伊勢へと旅立っていった。




 年が明けて675年正月。自分が斎王候補に挙がっていたとは露知らず、十市皇女は思いがけない人物の来訪を受ける。

「姉さま!」

 明るい笑顔とともに現れたのは、忘れもしない高市皇子、その人であった。

「高市……」

 夢のようだった。何年ぶりの再会だろう。十市が輿入れして以来、ふたりはただの一度もまみえることはなかったのである。もし十市が斎王に任ぜられていたら、高市との再会は叶わなかった。

「出ておいでよ。外の空気を吸おう」

 高市に誘われ、十市ははにかんだように微笑んだ。十市の笑顔も何年ぶりだろう。彼女は高市の後をついて廊下に出た。外界の冷たい空気が肌を刺す。庭には雪が一面降り積もり、陽の光が銀色に反射して眩しい。だが、それさえも十市にとっては新鮮であり、喜び溢れることだった。

「きれい……」

 十市は眼を細めた。雪に溶け込みそうなほど白い異母姉の横顔を見つめ、高市が眩しげにつぶやく。

「姉さまは相変わらず神さまみたいにきれいだなぁ。ちっとも変わっていない」

 高市の言葉に十市の胸がとくん……と、高鳴る。さほど自分と身の丈の変わらなかった異母弟が、今では見上げるほどの偉丈夫に成長している。瀬田大橋での最終決戦で総指揮を執っただけあり、ひとまわりもふたまわりも逞しくなったかに見えた。反面、少年の面影を残したまま大人になったみたいでもあり、それがやけに嬉しくもある。

「あなたこそ、戦では大活躍だったんですって? 噂でもちきりよ」

 高市は不意に黙り込んだ。戦の勝利は単純に喜べるものではない。敵味方に関係なく数多の尊い命が失われた。目の前にいる十市も夫を亡くしたのだ。

「姉さまを苦しめる結果になってしまった。ただ……」

 高市は躊躇(ためら)いがちにその続きを告げた。

「姉さまを取られたのが悔しかった」

 とくん……。十市の心臓がまた高鳴った。体中の血液がざわざわと騒いでゆく。鼓動はとくとくと鳴り続けている。自分にもまだ感情というものが残っていたのか。

 実父と夫が争うという異常な世界の中でかろうじて正気を保っていられたのは、高市への想いがあったからこそである。そして今、それを気づかせてくれたのは他の誰でもない、ずっと想い続けてきた相手、高市皇子だった。

「私はずっと姉さまだけを想い続けてきた。今でもこの気持ちは変わらない」

 十市は右手で口を覆い、高市を見た。想い人を見つめるそのつぶらな瞳から、つうっと一筋の涙が零れ落ちる。続く言葉も聞き逃さなかった。

「いつか必ず迎えに来る。それまで待っていてほしい」

 声にならない。夢中で頷く十市の瞳からは涙が止め()なく溢れ零れていた。高市の顔が涙で(かす)む。それでも十市はじっと目を逸らさずに彼を見つめた。高市も十市から目を逸らさなかった。真っ直ぐで誠実な瞳は、間違いなく十市の心を捉えていた。

 十市はやっとわかった。自分は幸せになりたかったのだ。皇后鸕野讃良のように女人としての最高位を手に入れ天皇とともに政を動かすとか、母額田王のように歌人として宮廷を一世風靡し、ふたりの天皇から寵を受けるとか、そんな華やかなものではなく、ただ単にささやかな、そう、ささやかでいい、ささやかでいいから愛する男の(そば)で暮らしたい。それが自分の望む幸せだということがやっとわかったのだ。

 だが、ようやく見つけた一筋の光は瞬く間に断ち切られ、射干(ぬば)(たま)の闇が(くつ)音もなく忍び寄る。果たして、おまえにそのような幸せが許されるのか——と。

 やさしい夫に報いもせず、絶望のまま黄泉(よみ)の旅路へと送り出してしまった自分に幸せをつかむ資格があるのか。そんな呪縛を抱えたままこの先を生きてゆかねばならないことに、十市は気づいてしまったのだ。

次回は第7話「勅命」です。


【一口メモ】

天武天皇の皇親政治は、律令国家構築へ向けてそれまでのやり方を一度リセットする狙いもあったようです。

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