第4話 吉野へ
初冬のことである。
「父天皇のお言葉にはくれぐれもご油断なされますな」
9月頃から病がちの天智天皇を見舞うため身支度を整える大海人皇子に、妃鸕野讃良皇女が告げた。相変わらず彼女は父天智に猜疑の眼を向けているようだ。大海人は軽く頷いただけで、特に言葉は発しなかった。そんな夫を鸕野讃良はもどかしげに見送る。
「今日は天皇もご気分がよろしいようで、御身をお起こしあそばされております」
宮殿に辿り着くと、禁中へと続く回廊を歩きながら案内役の蘇我安麻呂が言った。
「ですが、」
含みのある眼で大海人を振り返る。
「天皇のお言葉にはくれぐれもご油断なされますな」
大海人は驚きと微かな眩暈に襲われた。安麻呂とは懇意の間柄である。その安麻呂が妃鸕野讃良とまったく同じ言葉を自分に投げかけたのだ。いったい何が、この禁中の奥にどのような魔物が息を潜め待ち伏せているというのか。
「大海人か。苦しゅうない。入れ」
兄の声だ。病のせいか、歳のせいか、その声には政敵を次々と抹殺し群臣を恐怖に陥れた頃のような張りはなく、懐かしささえも甦らせる、ただの兄の声だった。
御簾内に足を踏み入れると、帳台の中で上半身を起こし、緩く背をもたれている天智の姿があった。しばらく会わないうちにかなり痩せたように見える。
「鸕野讃良は息災か」
天智は珍しく次女鸕野讃良を気遣った。愛する長女大田皇女を若くして亡くすと、天智は子供たちへの愛情をすべて大友皇子に専心してしまったかのように彼を溺愛した、はずなのだが。
「相変わらずにございます」
大海人は障りなく答えた。兄は笑みさえ浮かべている。大海人は少々困惑気味だった。あの宴はなんだったのだろう。大海人が兄天智に対し言い知れぬ憎悪を募らせ、無意識に長槍を敷板に突き立ててしまった修羅の時空を、よもや忘れたわけではあるまい。
だが、こうして目の前にいる兄は自分に微笑みかけている。あの晩目の前にいた兄とはまるで別人のように。
「気が強くて困っておろう」
娘鸕野讃良のことを、天智はまたもや笑った。
「いいえ、頼もしい限りにございます」
大海人も兄に合わせて一笑した。
「鸕野讃良は朕に似たのじゃ。朕にはようわかる。あれが皇子であったならばと何度悔いたことか。この朕にも意のままにならぬものがあるとは、うまくいかぬものよ」
その風骨、人望、秀才ぶりが高く評価されている大友皇子ではあったが、ひとつだけ皇嗣としての障壁があった。血筋の悪さだ。母親の身分が低くては皇嗣に選べない。ゆえに彼の即位の道を拓くため、法令を曲げる必要があったのだ。一方、血筋・知略・度胸のいずれをとっても申し分のない鸕野讃良は女であるがために、皇嗣の第一候補から外さざるをえなかった。皇女が皇位に就いたことはあっても、立太子した前例はなかったからだ。
玉座に君臨する天皇といえども、自らの遺伝子だけはどうあっても操作することが叶わなかったのである。
と、そのときだ。突然天智が胸を押さえ苦悶の表情を浮かべた。
「天皇、いかがなされました!」
大海人が天智の顔を覗き込むと、吹き出るような脂汗がその顔面をびっしりと覆っていた。押さえていたのは胸よりも少し下、胃の辺りだろうか。
「騒ぐな。誰にも悟られてはならぬ」
死期が近いのか。大海人ははっと我に返り、落ち着きを取り戻そうと深く息を吸った。
「かしこまりました、天皇。では、もうお休みあそばしませ」
「大海人、」
天智はふり絞るような声で大海人に語りかけた。
「なんでございましょう」
兄の、いつになく鋭い視線に緊張がみなぎる。
——天皇のお言葉にはくれぐれもご油断なされますな。
突如大海人の脳裏に、鸕野讃良と安麻呂の声が唱和するがごとくこだました。なぜこんなときに、ふたりの言葉を思い出すのか。目の前で実の兄が苦しみ悶えているというのに。
だが、次の天智の言葉ですべてを悟った。
「そなたに御位を譲りたい」
「……!」
大海人は絶句した。
――天皇のお言葉にはくれぐれもご油断なされますな。
ふたりの言葉が、しつこいくらいに駆け巡っている。
皇子として生を受けたからには皇位を夢に見ぬ者がいようか。すべての権力を掌握し、この瑞穂の国を思い通りに描いてみたいというのが本音であろう。
なのに、なぜこうもふたりの言葉が引っ掛かるのか。
大海人は記憶の糸を慎重に手繰り寄せた。蘇我入鹿、古人大兄皇子、蘇我倉山田石川麻呂、有間皇子……。非業にも天智に消されていった人間たちの顔が、次々と浮かんでは流れてゆく。
そうだ、自分は危うく命を落とすところだった。天智の腹心藤原鎌足がすでにこの世を去ったとはいえ、兄はまだまだ油断のならない相手であったのだ。
邪魔者は排除する。たとえそれが血を分けた兄弟であろうとも。
大海人は、今度は小さくゆっくりと深呼吸した。
「御位は、倭姫皇后さまにお譲りあそばしませ」
「なに?」
天智は眼を丸くしたが、大海人はかまわず続けた。
「そして、大友皇子を皇太子に。私は出家し、仏道修行をいたします」
大海人の答えに、天智は微かに笑みを浮かべたかに見えた。それとも、激痛に歪んだ顔がそう見せただけであろうか。だがそれを確かめる術もなく、崩れるようにして天智は御床に身を任せた。
その日、大海人は内裏の仏殿南にて髪をおろし、沙門の姿となった。10月17日のことである。
「父上はおひとりで吉野へ?」
輿入れ以来、めっきり口数の減った十市皇女が、珍しく自分から侍女の吹芡刀自に問いかけた。
「いいえ。鸕野讃良皇女さまもご一緒とのことにございます」
出家を決意し剃髪した実父大海人皇子が、二日後の19日、宮滝の吉野離宮へと向かったことを、十市は夫大友皇子から聞かされていた。
「あとは?」
「あとは数名の舎人と鸕野讃良さまお付の侍女・女孺……、そうそう、たしか草壁さまと忍壁さまもご一緒だとか」
母の額田王が吹芡に代わって答えた。草壁皇子は鸕野讃良所生の皇子、忍壁皇子は他妃腹の皇子である。
「たった、それだけ……」
十市は溜め息をついた。父はそんなわずかの供だけで吉野に隠遁してしまったというのか。本当に俗世を捨てて、玉座をもあきらめて。
「さすがは鸕野讃良さまじゃな」
額田が感服したふうに言った。
「数多いる妃の中でただ一人、あの山深い吉野へと従っていったのじゃ。鸕野讃良さまらしいわ」
だが娘は、母とは違う、焦りにも似た感覚に囚われていた。
「まるで、他人事のようにおっしゃるのね、お母さまは」
「なに?」
「お母さまが父上の妃のままでいらしたら、今頃どうなさっていたの?」
これほどまでに強い瞳を母に向けたのは初めてかもしれない。意外な娘の姿に驚きながらも、額田は努めて冷静に答えた。
「女の生き方など、己ではなかなか決められぬこと」
寂しげに瞳を逸らした母の答えはそれだけだったし、また、十市もそれ以上訊こうとはしなかった。互いにわかっていたのだ。声に出して叫びたいほどわかりきっていたのだ。
鸕野讃良は己で決めたではないか——と。父を棄て、皇位への望みを断たれた夫に敢然と従ったではないか、と。
これは彼女の意思ではないというのか。大海人の長男高市皇子も、愛息大津皇子も他の子供たちも皆差し置いて、自分所生の皇子草壁と、彼の身代わり用の皇子忍壁の二皇子だけを連れて行ったのは、紛れもなく鸕野讃良の意思に違いない。
鸕野讃良は夫を信じている。いや、己を信じている。
——なのに、私は……
十市に母を責める資格などなかった。自分はいったい何をしているのか。与えられた宿命をただ恨み、時が過ぎゆくのを無為に待っているだけではないか。
そう気づいてもどうすることもできない自分に、ただただ憤ることしかできないのである。
次回は第6話「壬申の乱」です。
【用語解説】
◎沙門:僧侶、法師。