最終話 蒼穹
藤原の大宮仕へ生れ付くや娘子がともは羨しきろかも
詠み人知らず
「まったく姉上にはかなわないな」
はぁーっと大きな溜め息をつき、文武天皇は柿本人麻呂に零した。
「だいたい、天皇だからといってそう簡単に軍を動かすわけにはいかないというのに。しかも即位したその日にいきなり軍を動かせだなんて、無理難題にもほどがある」
「しかし、天皇は姉宮さまのお願い事を聞し召しました」
「しかたなかろう。朕は幼き頃より姉上には弱いのだ」
ぶすっと膨れ、甘葛の乗った削り氷を頬張る姿はまだあどけない15歳の少年だ。
「よいではありませぬか。そのお陰で尊くかけがえのないお命が救われたのですから」
にこにこする人麻呂を見て、文武は訝った。
「もしや、姉上に入れ知恵したのはおまえか?」
人麻呂がわざとらしく目を逸らす。文武は削り氷を一口含み、額を押えた。
「長屋王には大いに働いてもらわねばならぬな」
幼さの残る拗ね顔の裏で、その胸は期待に膨らみ、未来を見据える瞳は輝きに満ちている。
人麻呂は安心したように微笑んだ。
一方、持統太上天皇の御在所には珍しい来客があった。
「太上天皇、ご機嫌麗しゅうございます。皇女さまもお久しゅうございます」
「ようこそ参られました」
気品あふれる所作で御簾を上げる額田王を、阿閇皇女がにこやかに出迎える。方や持統太上天皇は一瞥した。ひと頃より若返っているように見えるのは気のせいか。夫はもうこの世にいないというのに、前妻に対して軽い嫉妬に見舞われる。
「麗しくなどないわ」
童女のように不機嫌な持統を見て、額田と阿閇は顔を見合わせくすりと笑った。
「ふたりして吾を笑いに来たのなら帰れ」
「いいえ。本日は太上天皇と昔語りなどして笑いたく参った次第にございます」
「昔語りなど聞きとうないわ。いつもいつも志斐嫗に聞かされてうんざりしているところじゃ」
そこへ、カランカランと揺れる氷の音とともに、老いた宮人が冷酒を持ってやってきた。
「太上天皇、この嫗をお呼びにございますか?」
老いた宮人志斐嫗がにこにこと、持統の手に氷の入った杯を持たせる。
「おまえなぞ呼んではおらぬ。今日こそは強語りなどしたら承知せぬぞ」
「何を仰せです。太上天皇がいつも語れ語れと仰せになるゆえ渋々語っておるのではございませぬか。それほどお聞きになりたくば語って聞かせましょうぞ」
「もうよいと申すに……」
あきらめ顔で持統が杯に口をつける。額田と阿閇はその顔を微笑まし気に見つめていた。
「あれは、まだ近江に都在りし日のことにございます」
遠い眼差しで志斐嫗が語り出す。持統は杯に浮かんだ氷を見つめ、阿閇は目を閉じ、額田は笑みを浮かべて耳を傾けた。
「近江に坐した天皇(天智天皇)にお命を狙われた浄御原に坐した天皇(天武天皇=大海人皇子=)は、御髪を下ろされ、吉野へとお隠れあそばされたのです。吉野の山は奥深く、宮滝の離宮までの道程はそれはもう難儀なことこの上なく、降りしきる雪の中、浄御原の天皇はわずかな供を連れてお逃げあそばされました。そのとき、数多いるお妃の中でただおひとり、敢然と従ったお妃がおられました。そのお方こそが太上天皇なのでございます」
嫗がそこまで話し終えると、持統は天井を見上げぐっと涙を堪えた。額田は笑みを浮かべたまま静かに頷いている。嫗は続けた。
「太上天皇はまだ幼き草壁皇子さまと忍壁皇子さまをお連れになり、大変な御苦労をなされましたが、それでも一切弱音をお吐きにならず、じっと耐え忍ばれました。そのお姿を拝見したとき、私は思い知ったのでございます。お父上であらせられる近江の天皇を捨て、夫であらせられる浄御原の天皇に付き従うとご決断あそばされた太上天皇の御心中は、並々ならぬご覚悟にあらせられたのだと」
そこで、無言で聞いていた阿閇が瞼を開け、口を開いた。
「私も日並皇子さまより度々うかがっておりました。御母君の偉大さを、それはもう誇らしげにお話しあそばされ……」
言葉に詰まり、団扇で顔を隠す。彼女もまた、亡き夫の懐古に触れていたのだ。阿閇に代わり、額田が続きを語る。
「太上天皇。私共は皆存じております。太上天皇がいかにこの国の行く末を思われ、国民のために心血を注いでこられたかを。そして、この御世の政に無くてはならぬお方だということを」
額田の言葉に嘘偽りはない。阿閇も志斐嫗も頷く。持統は唇を震わせ、汗を拭うふりで涙を押えた。
「もうよい。気分が優れぬゆえ皆下がれ」
短く告げ、嫗に支えられ御帳台へと姿を消す。それを見届け、額田は阿閇とともに御簾を出た。
ふたりが大極殿横の回廊を歩いていると、池のほうから賑やかな笑い声が聞こえてきた。見ると、氷高皇女、文武天皇、吉備皇女の姉弟妹が仲良く鯉に餌をやっている。
「長屋さまには吉備さまが嫁がれるとか……」
額田王が顔を曇らせ阿閇皇女に問う。氷高は長屋王と離縁させられたのだ。長屋王から氷高を奪ったのも、氷高の同母妹吉備を長屋の妻にと決めたのも、いずれも持統太上天皇の一存だ。若き天皇文武もさすがに老獪な祖母には逆らえず、それを受け入れざるを得なかった。姉弟妹3人の生母である阿閇も複雑な表情を隠さない。
「やはり太上天皇は、長屋さまが天皇の義兄となるのが気に入らぬのでしょうか」
額田の問いに頷きながら、阿閇はどこか物思う仕草で長女氷高を見つめた。
「それもあるのでしょうが、太上天皇のお考えは別のところにあるのではないかと、私は思うております」
「別のお考え……とは?」
額田が阿閇の横顔をじっと見つめる。阿閇の瞳は長女を捉えたままだ。
「今はこの話、よしましょう。いずれわかるときが来るでしょうから」
前を向き、ふたたび回廊を歩き出す。額田も頷き、後に続いた。心に亡き一人娘十市皇女が去来する。愛する男と結ばれぬことに絶望し、失意のまま自ら命を絶った最愛の娘に何を、誰を重ねているのか。だが、額田がその胸中を明かすことはなかった。
阿閇に見送られ、朱雀門を出ると吹芡刀自が待っていた。彼女を政争に巻き込んでしまったことを申し訳なく思う。お互いもう若くもない身。せめて余生は穏やかに過ごさせてやりたいと、心から願うばかりだ。
「十市さまは何のために死を選ばれたのでしょう……」
帰路の途中、吹芡がぽつりと漏らした。額田は詠うように答える。
「生きている限りそれを考え続けるもよし。山吹の泉にて十市に訊ねるもよし」
それがそなたの償い方だと暗に言われているようで、吹芡は瞼を熱くした。額田はそれ以上何も言わない。無言のやさしさに、今は甘えることにする。
同じころ、額田王らとは別の場所から、姉弟妹の仲睦まじい姿を眺めているふたりがいた。柿本人麻呂と石川刀自である。
「氷高さまがお健やかにお過ごしで安堵いたしました」
実妹に愛する男を奪われようというのだ。心中穏やかでいられるはずがない。しかし、氷高は周囲の心配をよそに悲壮感をまったく見せず、むしろ涼しげな顔をしているという。
「信じておられるのだろうね」
引き裂かれても、夫婦でなくとも、互いの心は未来永劫変わらないと信じ合っている。
氷高を見守るふたりもまた、悲劇の人――十市皇女を思い出さずにはいられなかった。
「十市皇女さまが今少しお強くていらしたなら、聞くに堪えぬようなご最期は……」
石川刀自が唇を噛みしめ、悔しさをにじませる。どうして高市皇子を信じて待っていてやれなかったのだろう。彼女にもっと高市を信じる強き心があったならば——。
「大切なのは死に方じゃない。生き方だよ」
人麻呂を見ると、彼は微笑んでいた。
「命は長ければいいというものではない。たとえ短くとも、心震わせる瞬間が多い方がいいだろう?」
人麻呂の言葉が重く響く。
——私は大津さまに心震わせる瞬間をたくさんいただいたのだわ。
ならば自分は大津皇子に心震わせる瞬間をいくつ与えることができただろうか。目を閉じ、深く呼吸をする。その時間を人麻呂は黙って待っていてくれた。しばしののち、石川刀自は何かに気づいたようにはたと目を開け、人麻呂を見た。
「人麻呂さまは良き歌をたくさん詠まれるゆえ、それと同じ数だけ人の心を震わせておられるのですね」
だが、人麻呂は顔を横に振った。
「逆だよ。人に心震わせてもらうから歌が詠めるんだ。それだけこの世は尊いものであふれているってことさ」
「人の生死も?」
「万人、等しく尊い」
そう断言できる人麻呂だからこそ、彼の詠う歌、殊に挽歌は胸の奥深くまで打ち響くのだと、石川刀自はあらためて納得した。
「おや? あれ、不比等じゃない?」
朝堂院から出てきた公卿の中に藤原不比等の姿を見止め、人麻呂が声を上げる。彼に向かって手を振るが、一瞥をくれただけで去っていかれてしまった。
「すっかり嫌われてしまったみたいだ」
人麻呂が苦笑いする。
「不比等はしたたかだよ。きっと父君をも超える大臣になる」
「まぁ、藤原卿が……?」
「だって、ゆくゆくは長屋王さまに娘を嫁がせるなんて言ってるんだよ。天皇の信頼厚いお従兄弟さまを婿にしようだなんて野心丸出しじゃないか」
けらけら笑う人麻呂は楽しみで仕方がないといった感じだ。不比等は彼の心を震わせるひとりに違いない。
「でも……」
石川刀自は人差し指を顎に突き立てた。
「もしかしたら、藤原家のお婿さまというお立場が長屋さまをお守りするかもしれなくてよ」
「なんで? なんで不比等が長屋さまをお守りする必要があるんだい?」
皇子の身分から降ろされたとはいえ、長屋王は皇族の中でも天智・天武両天皇の血を引き、加えて皇女を母に持つ数少ない貴種である。将来文武天皇が皇子を儲ければ、その御子の強力な対抗馬になるかもしれないのだ。ましてや不比等は娘宮子を入内させている。宮子が皇子を産めば、必ずや何かしら策を講じてくるだろう。
「さぁ……なんでかしらね?」
含み笑いを浮かべ、石川刀自は人麻呂を横目でちらと見た。
「思ったほど嫌われてはいないのでは?」
うふふ……と袖で口元を隠す。人麻呂はきょとんと瞬きをした。
「人麻呂さまって人のことは鋭くお当てになるのに、いざご自分のこととなるとさっぱりですわね」
石川刀自は若かりし頃を彷彿とさせる小悪魔的微笑を残し、玉砂利に降り立った。ざっざっ……と歩く沓音で氷高と弟妹が顔を上げる。
「天皇、皇女さま方、そろそろお戻りあそばしませ」
文武と吉備が不服そうに肩をすくめる。対照的に氷高は沈静婉孌の笑顔を見せた。その心には一点の曇りも、なんの迷いもない。あるのは誰にも侵せない気高さと、巌をも貫き通す凛とした信念だけだ。
石川刀自は長屋王の容貌魁偉ぶりを思い出した。器宇も弘く深い彼ならばきっと、命を賭してこの3人を守り抜くだろう。
池面に乱反射した光が瞳に飛び込む。目を細め、見遣るその水はいつか磐余で見た山吹色ではなく、どこまでも高く澄み渡った蒼穹を映し出していた。
この世は常に死と隣り合わせだ。いつ何時、何をきっかけに不幸が襲い掛かってくるとも知れない。だが、いつもそれに怯えているわけにはいかないだろう。たとえあの世とこの世の境界に身が置かれたとしても、それを畏れていては生きていけないのだから。
振り返ると人麻呂も清々しい笑みを浮かべていた。このまほろばを、瑞穂の国をどんな言葉で紡ぎ、どんなふうに詠おうか、彼の頭の中はそんなことでいっぱいなのかもしれない。
たたなずく青垣。高知る御殿。とこしへにあらめ御井の真清水。
あきつしま、大和の風が大宮人の袖を吹き上げた。厳しい残暑もようやく一息つきそうだ。
(第三章「氷高皇女の逆襲」終わり/『山吹色のマージナル』完)
以上で『山吹色のマージナル』は終わりとなります。
最後までご覧いただきありがとうございました。
評価、いいねをくださった方、心より感謝申し上げます。
尚、続編(主人公:長屋王)も用意しておりますので、いずれ公開できたらと思っております。
★僭越ながら、評価ポイント・感想・ブックマーク等いただけましたらありがたく存じます。どうぞよろしくお願いいたします。
【一口メモ】
◎阿閇皇女
「皇太妃」のほうが通りは良いかもしれません。しかし「皇太妃」という称号は大宝律令によって規定されたものなので、大宝律令施行以前の本作では「皇女」と表記しました。




