第10話 御門の軍
697年8月1日。文武天皇即位のその日、持統太上天皇は禁中にて「策」を定めたという。この「策」は秘匿され、けして外部に漏れることはなかった。
そうとは知らず、即位の儀を終えた一同は祝宴へと移行した。祝いの歌を詠む役目の柿本人麻呂はこの場を離れることはできない。文武天皇が即位したことで持統にとって長屋皇子が用済みになったことをわかっていた彼は、歯がゆい思いでこの場に座っていた。
——何らかの動きがあるはず。
今、諸皇子・公卿百官の目はこの場に集中している。密かに事を済ませるには打ってつけの状況だ。しかし気がかりではあったが、祝宴を離れるわけにはいかない人麻呂にはどうすることもできなかった。
そんな彼を尻目に、石川刀自が動く。
「太上天皇、」
何処からか戻ってきた彼女は、酒を注ぐ振りをして持統にそっと耳打ちした。
「お命じの通り、氷高皇女さまを牢へお導きまいらせました」
「うむ。手はずは整っておるな」
「はい。すべては仰せのままに」
持統は小さく頷くと、石川刀自の肩にもたれかかった。石川刀自が新天皇文武に密かに奏す。
「天皇。太上天皇がお疲れのご様子。あちらにてお休みいただきますれば、お許しを」
「わかった。刀自、任せたぞ」
「かしこまってございます、天皇」
石川刀自は一礼し、持統を抱えて祝宴の場を後にした。持統を支えたまましばらく回廊を歩いてゆくと、人目の消えたところで持統が口を開いた。
「大伴のほうはどうじゃ」
「御門の軍はすでに整えております」
「おまえが大伴の妻でよかった。話が早い」
大伴氏は古来より軍事を司る一族だ。石川刀自から夫大伴安麻呂へはすでに話がついていた。
「よいか。吾が長屋をおびき出す。それまで大伴らは牢の外で待機させよ」
持統が描いた筋書きは、長屋が牢から出てきたところで脱獄犯として再逮捕し、その後は極刑を申し渡すというものだ。
「氷高皇女さまはいかがいたしましょう」
「知れたこと。氷高はさらわれたのじゃ。長屋が氷高をたぶらかし、それを盾に逃げようとした。だから氷高を取り返すために軍を動かす。そういうことじゃ」
「しかし、皇女さまは長屋さまのお妃にございますれば」
「離縁させる。そもそも高市皇子は天皇ではない。後皇子尊とて皇子は皇子。皇子の息子は王じゃ。長屋は皇子ではなく王、長屋王じゃ。王の妃に皇女は過分というもの」
そこまで聞いたところで石川刀自は口を閉じた。もとより彼女の中に迷いはない。持統から身を離し、しっかりとした足取りで牢に向かう持統の背中をただひたすらついていった。
持統が地下牢へ下りたあと、入り口では大伴安麻呂・旅人親子率いる御門の軍が待機していた。持統は長屋と対峙しているのであろうが、大分時を要しているにもかかわらず未だ戻ってこない。業を煮やした安麻呂が妻石川刀自に訊ねる。
「太上天皇が長屋さまをおびき出すと聞いたが、こんなに時を要するものなのか?」
「うーん……、少々遅い気もしますわね。すぐに出てこられるとのことでしたけど……」
「もしや、なにかあったのではあるまいな」
「しっかりなさい。あなたが狼狽えては軍が乱れるではありませぬか」
若い後妻に叱咤され、安麻呂は姿勢を正した。長男の旅人も激励する。
「父上、こうなったら腹をくくりましょう。我ら大伴の使命はただひとつ、御門をお護り申し奉ることなのですから」
「うむ。そうだな。いやはや、武者震いがするぞ。これほど緊張するのは壬申の戦以来だ」
「そんなに?」
石川刀自と旅人は目を丸くして安麻呂を見た。壬申の乱時まだ幼少だったふたりには想像もつかないが、彼らとてまったく平静というわけではないのだが。
時が経ち、日が傾きかける。次第にその場にいた者一同の緊張が高まってきた頃、ようやく持統が地下牢の入り口から顔を出した。持統が入り口から離れたところで安麻呂が右手を上げる。これを合図に、靫負らが動いた。ここで持統に誤算が生じる。
彼らが取り囲んだのは長屋皇子——ではなく、持統太上天皇だったのだ。
「なにをいたしておる! 吾ではない。罪人は長屋王であるぞ!」
持統が吃驚する。予想だにしていなかった靫負らの行動に、深沈大度の女帝も激しく動揺した。
「安麻呂! ええい、血迷うたか!」
「いいえ、血迷ってはおりませぬ。我らは天皇の命に従ったまでにございます」
「だから吾の命に従うのじゃ!」
持統が叫んだそのとき、背後からひとつの影が忍び寄った。それに気づくやいなや、憤怒の形相でその顔を睨みつける。
「石川刀自、これはいったいどうしたことじゃ」
「ご覧の通りにございます」
「……きさま、吾を裏切ったな」
鬼のように剥かれた眼を撥ね返し、石川刀自は毅然と告げた。
「裏切るも何も、私は申し上げたはずです。天地神明に誓っていかなるときも天皇に従う所存だと」
「天皇……」
はっと息を呑むと同時に、持統の顔から見る見る血の気が引いていった。安麻呂が進み出る。
「よもやお忘れではありますまいな? 我ら御門の軍は天皇のお赦しなく動くことはできぬということを。つまり我らが動くということは……」
文武天皇の勅命——。持統の全身に戦慄が走った。
「まさかあの珂瑠が……? あり得ぬ。あのか弱く幼い皇子がこの祖母に逆らうなどということは断じてあり得ぬ!」
「か弱く幼い皇子さまではございませぬ。畏くも天皇にあらせられますぞ」
石川刀自が負けず劣らず強い口調で言い切る。持統は憮然とした表情で薄笑いを浮かべた。
「飼い犬に手を噛まれるとはこのことじゃな」
「私は一度たりとも太上天皇の飼い犬になった覚えはございませぬ」
大津皇子のときも自らの意志で復讐に向かったのだ。それが奇しくも持統の思惑通りの結果になってしまっただけである。
「私は己の罪を生涯許しはいたしませぬ。己の犯した罪を死ぬまで背負って生きてまいる所存にございます。太上天皇も潔く罪をお認めくださいませ」
「無礼者! 誰に向かって物を申しておる!」
持統が叫んだ瞬間、靫負らの弓が一斉に彼女へと向けられた。
「おのれら……、それも天皇の命か」
一歩も動けない持統に対し、再び安麻呂が告げる。
「お騒ぎになられますな。このままお従いいただければ害すことはいたしませぬ」
その一言で持統はついに観念した。
「お連れ申せ」
安麻呂の声に従い、靫負が持統を囲んだまま彼女を禁中へと導いてゆく。彼らの姿が見えなくなると、それを見計らったようにふたつの気配が地下牢の入り口から流れてきた。
「もうよいか?」
残った一同は振り返ると、一瞬眩し気に目を細めながら慌てて武器を置き、頭を垂れた。天子かと見紛う氣を一面に散りばめ、現れた声の主は長屋皇子だ。
「大伴宿禰安麻呂、世話をかけたな。おまえたちは命の恩人だ。礼を申す」
「はっ、勿体なきお言葉。皇子さまが御無事で何よりにございます」
安麻呂が神妙にひざまずく。彼の言葉を聞いて長屋は爽やかな笑顔を見せた。
「俺はもう皇子じゃない。王と呼んでくれていい」
父高市皇子が天皇と認められなくなった今、皇子の位にしがみついても仕方がない。だが、彼と懇意にしている旅人は食い下がった。
「いいえ、貴方さまは皇子です。私にとっては生涯お仕えする皇子さまにございます」
「やめてくれ。また謀反を疑われるのはごめんだよ」
旅人の申し出を笑い飛ばし、長屋王は宣言した。
「俺は一皇族として天皇をお支え申し奉る。皆もそう心得よ」
「ははっ!」
一同声を揃え、ぬかずいた。事情を知らぬ者がこの光景を見たら、まるで天皇に対するが如くの態度だと信じたであろう。無意識にそうさせてしまうほど長屋王の佇まいは凛々しく、神々しくもあったのだ。
ぬかずきながら、石川刀自は人目も憚らず涙を流していた。状貌魁梧、器宇峻遠。性すこぶる放蕩にして、法度に拘らず、節を降して士を礼す。長屋の立ち居振る舞い、物言い、どれをとっても大津皇子を思い出さずにはいられない。
長屋の陰に隠れていた氷高皇女が姿を現し、石川刀自の前に歩み寄る。
「石川刀自、大儀であった。礼を申すぞ」
石川刀自は氷高を見たが、すぐに袖で顔を覆った。とめどなく溢れる涙で言葉にならない。償いはまだ始まったばかりなのだ。
震える肩が彼女の答えだということを、氷高も承知していた。
「これからもよろしく頼む」
「よろしいのですか?」
思わず涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
「よろしいもなにも、おまえは私の侍女だ。そうだ、此度の働きに褒美を授けよう。なにが良いだろうか。ああ、宮人にも官位があればいいのに」
氷高は悔し気に紅い唇を噛んだ。
「皇女さま、それは……」
戸惑う石川刀自を気遣い、長屋が氷高の肩に手を置く。
「それは天皇がお決めあそばされることだ。おまえが勝手に決めていいものじゃない」
「では私から天皇に、宮人にも官位を設けるよう奏し上げておく。それならよいであろう。天皇は私の弟なのだから、きっと聞し召してくれる」
「いや、待てよ。令のことなら藤原不比等に言ったほうが早いんじゃないか?」
長屋王は腕を組み、少々考え込んだ。
「宮人に官位か……。うん、それってけっこう妙案かもな。たいした女だ。まったくおまえにはかなわないよ」
とは言いつつも長屋は相好を崩し、軽々と氷高を抱き上げた。見つめ合う瞳は愛しげに互いを映し合っている。抗えない権力にどれほど引き裂かれようとも、このふたりにはそれ以上の絆が生まれていたのだ。
「石川刀自、皇女の宮まで案内してくれ」
「かしこまりました」
石川刀自は涙を拭い、清々しい思いでふたりを導いた。
次回は最終話「蒼穹」です。




