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第9話 姉弟


  春過ぎて夏(きた)るらし白栲(しろたへ)の衣干したり(あめ)の香具山

                       持統天皇



 失意のまま退出する吹芡刀自を、朱雀門の外で柿本人麻呂が待っていた。

「お望み通り長屋皇子へ皇位が渡ることを阻止したというのに、これまた浮かないお顔をしていらっしゃる」

 凄愴を極めた吹芡の眼が人麻呂を睨みつける。

「余計なお世話にございます」

 唇を震わせ、吹芡は人麻呂の前を通り過ぎようとした。すれ違いざまに人麻呂がささやく。

「余計なお世話ついでに申し上げますね。葛野王さまは幼き頃より学問を好んでおられたとか」

 吹芡はぴたりと足を止め、人麻呂の顔を見た。

「ええ、葛野さまはそれはもう賢きお方です。(けい)()(ひろ)く通じておられ、お作りになる文も素晴らしく、書画にも秀でておいでです。必ずや朝廷で重きを成すお方に相違ございませぬ。なのに天皇(すめらみこと)はなぜそれをおわかりくだされぬのでしょう」

 彼女は主の秀逸な人物像を誇らしげに語った。その様子を頷きながら聞いていた人麻呂は、彼女がひと通り話し終えると姿勢を傾け、大棟(おおむね)越しに夜空を望んだ。

「これは、卑しき歌詠みの独り言としてお聞きください」

 吹芡が(いぶか)る。人麻呂は夜空を見上げたまま続けた。

「葛野さまが極めて優れたるお方だということは百も承知しております。しかしながら、政を為すことは果たしてご本意なのでしょうか」

「なにを……」

「文を(しょく)することを愛し、書画を()くするならば、その道を究めるのもまたひとつの幸なのではありませんか?」

 人はそれぞれ輝ける場所が違う。だがそれを己が知るのは容易ではない。時として自身の望みとはまったく別の方向へと向かってしまうことが多々あるのだ。

 視線を戻して微笑む人麻呂を、吹芡は呆れたように見つめ返した。

「呆れてものが言えませぬ。皇族にあられるお方が上位を目指さずしてなんになりましょうや。戯言(ざれごと)にもほどがありますぞ」

「たしかにおっしゃる通りです。官位には一切興味のない歌詠みの戯言(たわごと)でした。お聞き流しください」

「あなたと一緒にしないで。葛野さまが位人臣を極められるお姿を十市皇女さまは願っておいでなのですよ」

「それはあなたの願いでしょう?」

 はっ……と吹芡が息を呑む。人麻呂は畳みかけた。

「亡きお方のお心内は誰にもわからない。しかし、十市さまが葛野さまのお幸せを願っておいでであることは確かです。そして、あなたに誰かを陥れて欲しいなどとは願っておられぬことも」

 吹芡は言葉を失っていた。彼女が動かずとも、持統天皇は他の誰かを使って長屋皇子の立太子を阻止していただろう。結果は変わらなかったかもしれない。だからこそ、もう吹芡には恨みを晴らすなどという愚かな過ちを繰り返してほしくないのだ。

「私は天皇(すめらみこと)に利用された人を何人も見てきました。したたかに生き残る者ばかりではありません。自責の念に(さいな)まれたまま亡くなられた方、贖罪を抱えたまま生きつづける者。そのどちらも悔恨に苦しんでいる。したたかに生き残った者でさえもその地位を保つためにもがき苦しんでいるのです」

 吹芡の顔が蒼褪めてゆく。それでも人麻呂の言葉は止まらなかった。

「あなたはおそらく、己の犯した罪の大きさに恐れおののき、死を待つことでしょう」

「そのようなこと……」

「今すぐにはわからずとも、いつか知るときが来るでしょう。それは5年後かもしれない。10年後かもしれない。しかし必ずやあなたは思い知ることになる。自らの行動が徒労に終わったことを」

 吹芡は震える指先で口元を押えた。いたたまれずに走り出す。一刻も早く藤原宮から逃れたかったのだろう。

 残された人麻呂はふたたび夜空を見上げた。少々脅しが過ぎたようだ。肩をすくめ後宮の方角に目を遣る。その真上には満天の星が燦然と輝いていた。

 ただ美しいだけでなく、清らかさと強さを兼ね備えた玲瓏な皇女と同じ時代を生きられることが、ただただ嬉しかった。




 桜が散り急いでいる。春は駆け足で過ぎようとしていた。

「どこへ行っておった」

 長屋皇子のいる地下牢から戻ってきた氷高皇女の前を、禁中の回廊にて()()(たま)の影が立ち塞いだ。

「大極殿の横の池で鯉に餌をやっておりました」

 射干玉の影、持統天皇に対し、氷高は怯むことなく答えた。

「鯉の世話は舎人に任せておけと申したはずじゃ」

「まぁ、そうでしたわね。嶋宮では私が世話をしていたものですからうっかり忘れておりました。満腹でしたのね。道理で寄ってこなかったわけですわ」

 可憐な笑顔を祖母に見せる。その瞳には邪気の欠片もない。だが芯が一本通っている。それはまるで天に向かって真っ直ぐ伸びる三輪の神杉のようでもあった。

 穢れない瞳は信念の光を宿している。どこかで見たことのあるその光から、持統は思わず目を逸らした。ふっ……と微かに笑みを浮かべ、氷高は祖母の前から立ち去った。

「殺してしまおうかの」

 長屋の命は持統の掌中にある。呟く彼女に、柱の陰から現れた石川刀自がそっと耳打ちした。

「天皇、時期尚早にございます。春宮(とうぐう)さまがご即位されるまでは事を荒立ててはなりませぬ」

 珂瑠皇子の登極が血塗られたものになってはいけない。即位の儀はなんの疑念も持たれずに、清く正しく執り行われなければならないのだ。

「石川刀自、おまえは裏切るでないぞ」

「私は天地神明に誓って、いかなる時も天皇に従う所存にございます」

 持統は石川刀自の言葉に頷き、御在所へと戻っていった。石川刀自はその背中を見送りながら、持統の心の中に僅かな変化が見られたことに気づいた。

 天智天皇が藤原鎌足を腹心として側に置いたように、持統は鎌足の息子不比等を懐刀として保持している。父を彷彿とさせる持統であるがゆえ、その行く末を予感させるのか。

 政敵を次々と亡き者にしていった天智天皇も、最期の最期は皇太弟大海人皇子を殺しきれなかった。死に面して初めて自らの大罪に気づき、まるで天に懺悔の意を伝えようとしたかのようだ。

 果たして持統はどのような道を(えら)び取るのだろうか。




「姉上はお強くなられた。以前はお祖母さまとお話しされるときは緊張されて、お顔が白くなっていらしたのに」

 遠目でふたりのやり取りを見ていた珂瑠皇子が声をかける。氷高は紅潮させた頬を背け、散りゆく花びらを目で追った。答えてくれない姉宮に珂瑠がしつこく問いかける。

「香具山に嫁がれてからでしょう?」

 そこで氷高は弟宮に顔を向けた。

「そなたこそどうなのだ。このままお祖母さまの傀儡(くぐつ)のまま高御座(たかみくら)に登るつもりか」

「はい、そのつもりですが。だってそのために不比等たちが律令を整えようと頑張っているのでしょう? 誰が天皇になってもいいように」

 しれっと言い放つ弟を、氷高はぽかんと見つめた。

「私はまだ15歳なのですよ。こんな若くして即位した例は聞いたことがありません。ということは、私に政を任せる気などないということですよ」

「……」

「律令が整えばもう、天皇が政を為さずに済むということです。私は政が苦手だからよかったぁ」

 珂瑠が屈託なく笑う。氷高は黙ったまま弟宮の横顔を見つめていた。

「まだおわかりになりませんか? 国を動かすのは政に向いている者がやるべきだと申しているのですよ。たとえば……」

「不比等とか?」

「もうひとりいるでしょう」

 長屋皇子——。姉弟の脳裏にその名が浮かぶ。

「長屋どのにお飾りの玉座は似合わない。まことの意味で国を治めていただくのです」

「長屋皇子が位人臣を極めるということか」

「私は不比等を越えると思いますけどね」

 珂瑠は姉に目配せをし、にやりと笑った。

「でもね、たとえお飾りでも勅を下すのは天皇です。ここ、お忘れなく」

「珂瑠……そなた、強くなったな」

 驚きの目で氷高が弟宮を見つめる。

「姉上ほどではありません。私はまだお祖母さまが怖いですから」

「私もだ。さっきは震える足を悟られぬようにすることで必死だった」

 ふたり顔を見合わせくすりと笑う。この姉弟はまた少し強くなったようだ。




 その年の8月1日、珂瑠皇子は即位した。第42代文武天皇である。添い臥しには藤原不比等の息女宮子媛が選ばれた。

 持統天皇は譲位して太上天皇となった。譲位の例は、天智・天武両天皇の母皇極天皇(践祚して斉明天皇)があるが、「太上天皇」の称号は持統が初出である。

 すべては彼女の意のままに事が運ばれたのだ。

次回は第10話「かどの軍」です。


【用語解説】

(けい)():経書(儒教の経典)と歴史書。

大棟おおむね:朱雀門の屋根にあたる部分。

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