第8話 立太子
宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに
長屋王
「昨夜、皇子が捕らえられたというのはまことか?」
大極殿脇の池の畔で、氷高皇女は不安げに振り返った。白く細い指先は震え、美しいかんばせは今にも泣き出しそうに歪んでいる。
「はい。まことにございます」
石川刀自は神妙に答えた。その隣では柿本人麻呂が肩を震わせくすくすと笑っている。なんでも衆議の晩、長屋皇子は藤原宮に忍び込み、議事録を盗み見したらしい。
「人麻呂さま、笑い事ではございませぬ」
「だって、すごいじゃないか。あの女帝を畏れず皇宮に忍び込むなんて、たいした器だよ。さすが、私が見込んだ皇子さまだけのことはある」
眉を顰める石川刀自とは対照的に、氷高はやや表情を緩めていた。
「なるほど、そういう見方もあるのだな。ただの馬鹿だと思ったが、言われてみれば、なるほど、面白い皇子だ」
ふふんと鼻で笑い、口角を上げる。それを見て石川刀自は驚いた。氷高の笑った顔を初めて見たからだ。この皇女は美しいだけでなく、こんなにも可愛らしい顔で笑うのかと驚きつつも嬉しさが込み上げた。
「しかし、この宮殿の中に地下牢があったなんて驚きだな」
人麻呂が腕を組む。長屋皇子はそこに幽閉されているらしいのだが、一般に知られることのない隠し牢なのだ。場所もわからないのでは助け出すこともできない。彼が今どう過ごしているのかを考えると、そう笑ってばかりもいられないだろう。
しかし、人麻呂は持統天皇に飼い殺しにされている身。自由に動くことはできない。
「ご心配には及びませぬ。すでに手は打ってあります」
氷高と人麻呂が石川刀自を見る。彼女の顔には笑みが浮かんでいた。
「夫に頼んで、大伴の縁者の子虫という童を皇子さまのお世話係に送り込んでもらいましたの」
長屋と懇意にしているという大伴旅人も水面下で情報を集めてくれてはいるが、あまり派手な動きをすると彼にも危険が及ぶので限界がある。それに比べて子供ならばあまり警戒されずに長屋の様子を探ることができるというわけだ。
「そうか。旅人どのは安麻呂どののご子息だものな。大伴の方々がお味方についてくださるならば、これほど心強いことはない」
大伴旅人は大伴安麻呂の前妻の長男。後妻石川刀自とは年が近いが義理の息子にあたる。安麻呂は大伴氏の分家筋のため、あまり目立たない存在であることも今回は幸いしているようだ。
「皇女さま。子虫の話では、皇子さまはすこぶるお元気にしておられるそうですよ」
そう微笑むと石川刀自は懐から1枚の木簡を取り出し、氷高に見せた。
宇治間山 朝風寒之 旅尓師手 衣應借 妹毛有勿久尓
「相変わらず下手クソな歌を寄こしおって。要するに、寒いから衣を貸してくれと言いたいのであろう。まったく図々しいにもほどがある。自業自得だ。凍え死んでしまえ。いや、それは駄目だ。化けて出られたら迷惑千万……」
ぶつぶつと悪態をつきながらも氷高は嬉しそうだ。人麻呂と石川刀自が口を押えて小さく吹き出す。
「畏れながら、皇女さま。この卑しき歌詠みも皇子さまの切なるお心内、胸に染み入りましたぞ。特に入獄を旅に見立てるところなど、いやはや、御見逸れいたしました」
にこにこしながら人麻呂が頭を垂れる。氷高は呆れ気味に溜め息をついた。
「囚われの身だというのに、まったく緊張感のない皇子だ」
「肝が据わっておられるのです。皇子さまの良きところにございましょう」
氷高は人麻呂の邪気のない笑顔からはにかむように目を逸らした。凍てつく池面を見つめ、ぽつり、呟く。
「寒かろうな……」
うつむく氷高に石川刀自が優しく声をかける。
「子虫に衣を届けるよう申し付けておきます」
氷高は、うん……と短く返すと、長い睫毛を伏せたまま告げた。
「刀自、いつぞやは酷いことを申した。許せ」
石川刀自と人麻呂が目を見合わせ微笑む。だが人麻呂はすぐに表情を引き締めた。
「しかし、皇女さま。ご油断召されますな。大津皇子さまの例もございますゆえ」
3人の間に緊張が走る。大津皇子は逮捕の翌日に死を賜ったのだ。長屋皇子が大津と同じ運命を辿らないとも限らない。
「なんぞ動きあらばすぐにお報せいたします」
石川刀自が頭を下げれば、人麻呂も言う。
「私は今身動きが取れませぬゆえ、そのときは皇女さまのお力をお貸しいただくことになるやもしれませぬ」
「私にもできることがあるのか?」
氷高の瞳がきらりと光った。
「皇女さまにしかおできにならぬことにございます」
氷高は怪訝に眉を顰めたが、その光は間違いなく強く穢れのない煌めきを放っていた。
2月、珂瑠皇子立太子。日嗣御子決定の翌月のことである。
「ひとまず、柿本人麻呂の動きは封じましてございます」
「うむ。ご苦労であった、石川刀自」
石川刀自の注いだ酒を飲み干し、持統天皇はひとつ息を漏らした。愛孫珂瑠の立太子の儀を終えたせいか、珍しく機嫌がいい。
「氷高もつつがなく過ごしておるようじゃな。おまえが仕えるようになってからようやく笑顔が見られるようになった。良きことじゃ」
「ありがたきお言葉にございます」
長屋皇子は依然、獄中に繋がれたままだった。持統は、皇太子珂瑠が即位するまでは長屋を生かしておくつもりなのだ。万が一、珂瑠に不測の事態が生じれば一旦長屋を皇位に就け、その後、正后となった氷高皇女を登極させる腹積もりである。
「引き続き見張っていてくれ。くれぐれも自害などさせぬようにな」
「そのご心配はないかと」
酒を注ぎ足しながら石川刀自は微笑んだ。氷高皇女は可憐な見目形からは想像もできないほど芯の強さを持っている。自害も長屋皇子を想うがゆえに出た行動だ。それが未遂に終わった後は驚くほど生に貪欲となり、自分の存在意義を必死で模索しているようでもある。
「ほかにも妙な動きあらばすぐに報せよ」
「かしこまってございます。あとは春宮さまがご即位なさるのを待つばかりにございますね」
「うむ。これでようやく肩の荷が下りる。おまえも良き働きをしてくれた。大津のときも……」
石川刀自は黙って持統の言葉を受け入れている。
「此度も戻ってきてくれて助かった。どいつもこいつも使えぬ者ばかりでまいっていたところでな」
「滅相もございませぬ。此度のことは吹芡刀自どののお働きによるものにございますれば」
それを聞き、持統は床几にもたれ、にやりと笑った。
「葛野王にはな、不比等に知恵を入れさせたのだ。吹芡などおらずともことは容易く運んだわ」
「まぁ……藤原さまに……」
石川刀自は目を丸くした。おそらく葛野王は藤原不比等の用意した筋書きをそのまま述べただけなのだろう。
「それでも吹芡も少しは役に立ったかの。寝物語に高市への憎しみを植え付けてくれたのだからな」
持統が高笑いを上げようとした、そのときだ。御簾の外から侍女が慌てて声をかけてきた。
「申し上げます。吹芡刀自どのが急ぎお目通り願いたいと……」
「追い返せ」
にべもなく持統は一蹴した。どうせ葛野王昇進の件であろうことは察しがつく。珂瑠皇子擁立の協力の見返りとして官位の引き上げという餌をぶら下げたのだ。
「せっかく与えてやった役が気に入らぬらしい」
葛野は皇族の位階の中でも下から2番目の位の淨大肆、役職は治部卿であった。
「せっかく式部卿に任じてやったのに、何が不満なのだか」
胡桃をひょいと頬張りながら、白々しくも一笑に付す。治部卿は寺社の管理、式部卿は人事の管理。同じ参議であり上も下もない。葛野はただ単に上手く利用されたということだ。
石川刀自は空になった杯に酒を注ぎながら思った。この世は弱肉強食。強き者が生き残り弱き者は淘汰されていく。ただそれだけだ。だが、明日は我が身でもある。ここまできて負けるわけにはいかない。一度は死んだも同然の命。何の因果か現世に生かされている。
——負けるものですか。
生きながらえたこの身を捧げる相手は誰なのか。彼女の心はすでに決まっていた。
次回は第9話「姉弟」です。
【用語解説】
◎春宮:皇太子のこと。東宮ともいう。内裏の東側に宮を置いたことからこう呼ばれるようになった。東は五行説で春にあたる。
【一口メモ】
長屋王の歌「宇治間山朝風寒し〜」は、後年(大宝元年か)の文武天皇吉野行幸の際の御製歌(一説)に続いて記載(『万葉集』)されているものです。宇治間山の比定地は不明。




