第7話 もうひとりの遺児
露往き、霜来り。愛別離苦の悲しみを引きずったまま冬がやってきた。
「皇女さま。新たにお仕えする石川刀自どのがご挨拶したいと、お目通りを願っておられます」
女孺の声に、氷高皇女は顔を上げず素気無く答えた。
「今は誰とも会いとうない」
物憂げに長い睫毛を伏せ、床几にもたれる。
「かしこまりました。そのようにお伝えいたします」
女孺が几帳から離れた直後、氷高は突然思いついたように立ち上がり彼女を追った。
「待て、白妙」
何の気まぐれか、それとも胸騒ぎだろうか。石川刀自について訊ねる。
「新たな刀自は石川と申したな。その者、誰の縁者だ?」
「大伴安麻呂どのの奥方にございます」
「そうではない。石川は蘇我の流れを汲む者であろう。その縁者……例えば連子とか、果安とか……」
女孺に訊いてもわからないか、と氷高があきらめかけたときだ。
「ああ、蘇我倉山田石川麻呂さまの孫だとかおっしゃっていました」
蘇我倉山田石川麻呂は持統天皇の祖父でもある。氷高の身体にも彼の血が流れているのだ。だが、氷高の胸を騒がせたのは、血の縁ではなかった。
「字は?」
「ええと……大…名児……?」
「!」
氷高の明眸が見開かれた。
「通せ」
「かしこまりました」
ほどなくして、目通りを許された石川刀自が氷高の在所にやってきた。
「お目通り叶いましてありがたき幸せにございます」
「挨拶はいい。それより、おまえは曾々祖父さまの孫だと聞いた。まことか」
「はい。畏れ多くも天皇、御母宮さま、皇女さま方と浅からぬご縁をいただいております」
恭し気に頭を垂れる石川刀自を見つめる氷高の明眸は厳しい。
「おまえ、何をしに来た」
唐突に不穏な物言いをされ、さすがに石川刀自も面食らった。
「何……とは?」
「とぼけるな。どうせおまえもお祖母さまの言いなりなのだろう」
県犬養三千代は弟宮珂瑠皇子の東の宮に戻ってしまった。吹芡刀自も葛野王の侍女に戻ったという。彼女らに代わり石川刀自を氷高の侍女にすることで持統が氷高を監視下に置いたことは明白だ。
石川刀自は氷高の瞳の奥を見つめた。天の先の先に染まる濃き群青のごとく、純粋で透明な深みがそこにある。石川刀自は思った。この色は何人たりとも穢してはならない。たとえそれが現人神であろうとも。
「天皇の命とあらば従わねばなりませぬゆえ」
静かに答える。答えはそれ以上でもそれ以下でもない。果たして氷高の反応は冷ややかだった。
「もうよい、下がれ。おまえに期待した私が愚かだった」
「はい、失礼いたします」
石川刀自が深々とひれ伏し、立ち上がる。
「石川刀自、いや、大名児」
御簾に手をかけたそのとき、氷高が呼び止めた。字を呼ばれた石川刀自は心の臓を押えた。動揺を悟られぬよう振り返り、ひざまずく。氷高が訊ねた。
「愛する男を謀るのはどんな気持ちだ?」
氷高の瞳は笑っているような、それでいて憐れんでいるような、雑多な色味を浮かべている。
「愛する男ではないな。平気で見殺しにできるのだから」
ずき……古傷が疼く。最後の夜のことは誰も知らない。大津皇子と交わした言葉、互いの想いはふたりにしかわからないのだ。
「畏れながら、私の気持ちは皇女さまと同じにございます」
案の定、氷高の柳眉が歪んだ。氷高が、祖母持統の命で長屋皇子を暗殺しようとした晩、彼女はどうしても彼を殺せずに自害しようとしたという。長屋はそんな彼女を愛おしみ、父高市に逆らい、彼女の助命を哀訴したのだとか。自分と同様に、氷高と長屋の間には彼らにしかわかり得ない想いがある。たとえ地の果てまで引き裂かれようとも、誰にも侵せない絆があるのだろう。
深く一礼をし、石川刀自は御簾を出ていった。今更悔いても詮無いこととは知りつつ、どうしようもない自己嫌悪が込み上げてくるときがある。自分に氷高ほどの強さがあったなら——。濃き群青の澄み切った透明が羨ましく、眩しさも覚えるのだった。
年が明けてひと月。まだまだ寒さ厳しく、霜柱が道を凍らせている。
「お気をつけていってらっしゃいませ」
まだ薄暗い朝靄に白い息が漂う。吹芡刀自は出仕する主を笑顔で見送った。彼女の主葛野王は口を固く閉じ、緊張の面持ちで馬を出す。吹芡の横では額田王が複雑な表情で孫の背中を見送っていた。
「額田さま、ご案じ召されますな。王さまは必ずや成し遂げてくださいましょうぞ」
吹芡の言葉に頷くでもなく、額田は孫の決意に満ちた顔をただ見守ることしかできなかった。
この日の衆議は紛糾を極めた。議題は日嗣のことである。葛野の緊張はまさにここにあった。
高市天皇が崩御してから半年、いまだ皇太子が定まらず、朝廷は持統天皇が称制を執る状態が続いている。この現状を打開すべく、皇族・公卿・百僚の一同が禁中に集められ、日嗣に関する議論が交わされることとなったのだ。仕掛けたのは持統天皇。だが、自ら仕掛けたにもかかわらず、彼女は黙ったまま臣下たちの議論を傍観していた。
群臣はそれぞれ私情を挟み、衆議は紛紜するばかり。それでも持統は一切口を挟まず、事態をじっと見据えている。今や持統の腹心と言っても過言ではない藤原不比等も黙って様子を窺っていた。それは葛野も同じだった。
臣下の中には天武天皇の皇子を推す者もあったが、議論の末、やがて臣下らの意見はふたつの方向へとまとまっていった。
「先天皇のご長子・長屋皇子さまが御位をお継ぎになるのが筋というもの」
「いいや、日並皇子さまのお遺しになられた珂瑠皇子さまこそ正しき皇統なるぞ」
意見は真っ二つに分かれた。双方の言い分は真っ向対立し、一歩も譲らない。どちらも道理に適っていたからだ。
たしかに高市は天皇として政務を執っていたが、あくまでも皇太子草壁が即位するまでの中継ぎという立場であった。そのため即位の儀は行なっていない。そもそも彼の母は皇族ではないため皇位継承権はなかった。それでも、壬申の乱での功績や長年の政務の実績から天子の器を兼ね備えていることは誰もが認めるところであり、そのことに異を唱える者は皆無だった。
一方、血筋の上で申し分のない草壁は即位以前に薨去している。壬申の乱ではまだ幼く、政務の実績もない。そもそも天皇ではないのだ。どちらも正式な天皇とは言えない以上、議論が平行線を辿るのは必至であった。
議論はふたたび白熱した。持統は依然として口を開かない。結論が出ないまま時ばかりが過ぎてゆく。
葛野は己の掌をじっと見つめた。脂汗でぬるつく掌を何度も握り直す。先ほどから突き刺すような視線を感じ取っていたのだ。視線の元は辿らずともわかっている。藤原不比等だ。
鼓動が次第に速くなる。心臓は今にも破裂しそうだった。不比等の目が言っている。近江朝の敗者が生きる場所はどこなのか。その場所を確保するためには何をすべきか、誰につくべきか。
同じく近江朝の敗者不比等の腹は決まっている。彼の辛酸を舐めるような努力は目を見張るものがあった。彼は実力で居場所を勝ち取っている。自分はどうなのだ。葛野は自問自答を繰り返した。次期皇太子と目された近江時代から急転直下、煮え湯を飲まされ続けた飛鳥浄御原時代。終戦からすでに二十余年が経過しているというのに、いまだ日陰に身を置いている。このまま一生を終えるのか。あのとき高市皇子が敵方の総大将でなければ、高市が母十市皇女を迎えに来てくれていたなら……。繰り返し繰り返し吹芡刀自から寝物語に聞かされた母の悲運。母の無念を晴らすのは自分しかいない。そしてその絶好の時宜が今、目の前に訪れたのだ。この機を逃してなるものか。
「おそれながら!」
無意識に身体が動いていた。突如立ち上がった葛野を全員が一斉に注視する。足が震えた。だが、葛野は丹田に力を込め、声を発した。
「今、我らは神代より受け継がれし法を以てして天意を論じております。然れども、ここに集う誰が天意を測ることができましょうや。それでも人事を以て考えるならば、古来より子孫相承を以てして御位は襲われてまいりました。もし、兄弟にて御位を渡されれば国は乱れましょうぞ」
息もつかせず言い切ったあと、ここで一呼吸入れた。鋭い目つきでその場にいた諸皇子・公卿ら全員をぐるりと見渡す。兄弟相承が壬申の乱を引き起こした、自分はその犠牲者なのだと暗に突きつけたのだ。
「これを鑑みれば聖嗣は自ずと定まれり。これ以上は間然するところなし」
葛野が言い終えると、一瞬場は水を打ったように静まり返った。近江朝の大将の息子が発した言葉——これに勝る説得力がほかにあろうか。
葛野は掌の汗をぎゅっと握りしめた。まだ心臓がどきどきしている。いいや、自分は間違ったことは言っていない。本来ならば草壁が継ぐべき皇位を兄の高市が継いだ、否、奪ったのだ。これが争いの火種となれば、ふたたび国を二分する戦乱を引き起こし、同じ過ちを繰り返すだけである。
葛野は不比等をちらと見た。不比等は表情を変えなかったが、小刻みに頷いているようにも見える。
と、そのとき高市の異母弟弓削皇子が座位のまま声を上げた。彼の母親は皇女であるから皇位継承権は十分に有する。
「お待ちあれ。兄弟相承の例はこれまでにも……」
「間然するところなし!」
葛野の一喝で弓削皇子は言葉を呑んだ。弓削に対する援護は誰ひとりとして行なう気配がない。彼は発言をあきらめ、以降、何も言うことはなかった。
誰からともなく拍手が湧く。それはいつしかその場の全員を巻き込み、喝采となって鳴り響いた。やがて拍手が落ち着いた頃を見計らい、不比等が立ち上がる。
「後皇子尊はその死をもって日並皇子尊に玉座をお返還しくだされました。これにより正しき皇統は日並皇子さま。そしてその後をお嗣ぎあそばされるのは日並皇子さまのご兄弟ではなく、御子であられる珂瑠皇子さまにほかなりませぬ」
不比等の「返還」という言葉により高市は天皇であったことを完全に抹殺された。死人に口なしとはまさにこのことである。腹のうちは爪の先ほども悟らせず、持統は険しい顔を崩さぬまま口を開いた。
「これにてこの議は終わりとする。よいな」
事実上の勝利宣言であった。静かに目を開き、席を立つ。このとき誰もが思い出したはずだ。天智天皇の姿を、尖鋭なる眼を、その射干玉の光を。
畏怖に戦慄する臣下らを置き、持統はその場を後にした。
次回は第8話「立太子」です。




