第6話 挽歌
……瑞穂の国を神ながら太敷きましてやすみしし我が大君の天の下奏したまへば万代に……
柿本人麻呂
龍蓋の池に細い月が映る。揺れる月を見つめ、吹芡刀自はひとり、唇を震わせていた。
「しくじっちゃいましたね」
ぎょっとする。振り返ると暗闇の中に柿本人麻呂が立っていた。吹芡は負け惜しみのように言い放った。
「長屋皇子は腕に傷を負われたと聞きました」
「でもぴんぴんしておられますよ」
にやにやしながら人麻呂が横に並ぶ。
「天皇は長屋さまに付き添われて藤原宮へお戻りあそばされたそうです。きっと十市皇女さまがお守りくだされたのでしょう」
人麻呂の言う「天皇」とは無論高市天皇だ。
「いい加減なことを申されますな。あなたに十市さまのお気持ちのなにがわかるというのですか」
拳を握りしめ、吹芡は顔色を変えた。
「ならば、あなたにはわかるとでも? とてもそうは思えないなぁ」
袖の中で腕を組み、人麻呂が首を傾げる。吹芡は怒りを隠し、ふっ……と吐息を漏らした。
「人麻呂どの、あなたはどちらの味方なのです? あなたは岡宮の舎人ではないのですか?」
「私はね、別にどなたの舎人であろうがかまわぬのです。ただ、」
「ただ?」
人麻呂は、問い返す吹芡に鋭い光を投げつけた。
「可愛い孫娘に愛する男を殺せと命じるその性根が許せぬのですよ」
視線を、小刻みに震える吹芡の袖口から顔に移す。その眼は凄愴入り混じる憤りを顕わにしていた。
「吹芡どのだったらわかるでしょう? 愛する者同士を引き裂こうとする力を、我がことのように憎んだことのあるあなたならば」
人麻呂は怒りに揺れる瞳で吹芡を見据えた。だが彼女は信念を曲げることなく、負けじと見つめ返す。
「だから、あなたにはわからぬと申しておるのです。私は十市さまの幼き頃よりお側に仕えておりました。あなたよりもずっとずっと十市さまのことは存じ上げております」
「でも、薨ったのちのお心まではわかりませんよね?」
「……!」
「山吹の泉におられる十市さまが、今のあなたのお姿をご覧になられたらなんと申されるだろう」
ぎりり……と吹芡が唇を噛みしめる。それを横目に人麻呂は龍蓋の水面をじっと見つめた。
「十市さまはなんのためにこの世を去ることを選ばれたのでしょう」
なんのために——。その言葉が吹芡の心にずしりとのしかかる。今までは「何のせいで、誰のせいで」ということばかりを考えていた。人麻呂の問いの答えは、今の吹芡に解くことはできないだろう。
黙りこくってしまった吹芡を残し、人麻呂はその場から立ち去った。吹芡は暗闇の中、細い月明かりを揺らす龍蓋の池を、ただじっと見つめるばかりだった。
それから10日余り持ちこたえていた高市天皇だったが、遂に力尽きる時が来た。
696年7月10日崩御。享年43歳。
崩御の報せは直ちに岡宮にも届けられた。皇太后鸕野讃良の専横の抑止力となっていた高市の死によって、政権の均衡が破られようとしていた。
殯宮へと続く葬送の列が横大路を往く。藤原宮を出立して百済が原、香具山の裾野を通り、一行は城上へと向かっていった。
殯宮は藤原宮ではなく、城上を常宮とするとの旨が伝えられたが、その本意はわからない。これを決定したのは鸕野讃良皇太后であったからだ。
殯には高市の嫡男長屋皇子、后御名部皇女、長屋の妃氷高皇女のほか、鸕野讃良をはじめとする岡宮の者たち、阿閇皇女・珂瑠皇子をはじめとする嶋宮の面々が集結したのは必然であった。
すべからく柿本人麻呂も鸕野讃良に付き従い殯に参列した。特に挽歌を詠む彼の仕事は重要だ。死者本人だけではなく、先代、あるいは神代にまで遡り、代々続く天皇家の事績を礼賛するのだ。それを高らかに歌い上げることにより、あらためて天皇家の権威を示す効果を求められる。
「人麻呂、命が惜しくば天皇に逆らうな」
この日は珍しく藤原不比等のほうから声をかけてきた。不比等の言う「天皇」とはすなわち鸕野讃良皇太后のことである。
人麻呂は歩みを止め、不比等を振り返った。
「へぇ、珍しい。不比等が私のことを案じてくれるなんて雪でも降るんじゃないか?」
死んだような目つきで薄ら笑いを浮かべる。
「私はただの歌詠みだ。詠めと言われたから詠んだだけのこと」
人麻呂はすたすたと歩き出した。不比等が追う。
「あれでは日並皇子さまのお顔が立たぬではないか。天皇は御心をお痛めあそばされていることだろう」
「私は事実を詠んだまでだ。壬申の乱の折の勇ましきご活躍、飛鳥浄御原宮にて政をお治めになられた手腕。どれもこれも天の下をことむけやわされた素晴らしき偉業にあらせられるではないか。それを賛じて何が悪い」
「そうではない。長すぎるのだ。日並皇子さまへの挽歌の倍はあるではないか。これでは日並皇子尊が後皇子尊に劣っていると言っているようなものだ。天皇のお怒りを買ってしまうぞ」
人麻呂はぴたりと足を止め、不比等に詰め寄った。
「後皇子尊ってなに? 殯宮だって皇宮じゃなくて城上に設けられた。そうやって高市さまが天皇であらせられた事実を歴史上から抹殺しようって腹かい? 表米皇子だってそうだ。都合の悪いことはみんな削除してなかったことにする。私たち官人はいつだってお上の言いなりだ」
珍しく感情を顕わにする人麻呂に、不比等は驚きを隠せず絶句している。
「城上を常宮とする旨を歌に盛り込めと強要されたんだ。だからせめて歌で高市さまがどれほど偉大であったかを残そうとしたのではないか」
不比等は即座に反論できなかった。人麻呂が尚もまくしたてる。
「ねぇ、不比等。そなた、前に言ったことがあったね。武力で権力を奪おうなどという輩は愚の極みだ、これからの御世は頭を使ってこそ政を操ることができる、って。私は政には疎いし、不比等みたいに法令に通じているわけでもない。だから私は歌を武器に戦うしかないんだ」
「私はただそなたの身を案じ……」
「よく言うな。私が高市さまと通じていることを皇太后さまに教えたのは不比等、そなたであろう」
別段不比等は驚きもしなかったかわりに、ほんのわずかであるが瞳に罪の意識を滲ませたか。しかし彼の行動は、人麻呂を失脚させたくないがゆえに出たものであった。そのことに人麻呂が気づいているかどうか、次の言葉からは不比等には判別できかねた。
「別に不比等を責めるつもりはない。近江の敗け組が大和で生き残ることが想像を絶する辛さだってこと、そなたを見ていてわかっているつもりだ」
人麻呂はふたたび前を向いた。
「言っとくけど、私は官位が欲しいわけじゃないからね。皇太后さまにどう思われようがかまわないさ」
震える背中を不比等が見つめる。それは悲しみか、それとも怒りか。
「人麻呂、そなた、これからどうするつもりだ」
「どうもこうも飼い殺しだよ。私は皇太后さまが生きている限り自由にはなれない。言われるままに詠いつづけるだけだ」
人麻呂は藤原宮に向かって歩き出した。鸕野讃良が人麻呂を側に置くことを決めたのは、表向きは歌人としての彼を寵愛していると見せかけ、その実、彼の自由を奪うためだった。
「我が大君の万代と思ほしめして作りましし香具山の宮……」
高らかな歌声が遠ざかってゆく。
「万代に過ぎむと思えや天のごと振り放け見つつ玉たすき懸けて偲はむ畏くあれども」
去りゆく人麻呂の背中を見つめながら、不比等はこのとき、彼と袂を分かったことを悟った。
高市天皇が皇太子を定めないまま崩御したため、藤原宮には鸕野讃良皇太后が入り、政務を執ることとなった。
古来よりの前例を踏むならば、高市の正后御名部皇女が仲天皇として政務を執るべきであった。が、鸕野讃良は有無を言わさず彼女を藤原宮から追い出し、自らが指揮を執った。天皇として——。
第41代持統天皇である。
持統天皇登極に関して臣下らに不信感はあったものの、それを表立って口にする者は皆無だった。繰り返される吉野行幸によって天武天皇の影をちらつかせ、壬申の乱の記憶を消させず、自分が覇者であることを諸臣の潜在意識に刻み込んだのだ。
壬申の乱の総指揮官高市亡き今、唯一の覇者鸕野讃良に闘いを挑もうとする無謀者はいないということである。
さて、高市の嫡男長屋皇子は立太子していなかったため、成人に達していたにもかかわらず朝政に参画させてもらえず、事実上、香具山宮に軟禁状態となっていた。妃氷高皇女は、半ばさらわれるようにして香具山宮から藤原宮へと連れ去られてしまった。持統天皇によって強制的に引き裂かれたふたりは互いに失意に陥っているという。
宮人たちの噂でそれを耳にした人麻呂であったが、持統に飼い殺しにされている身では動くに動けず、手をこまねいている状態だ。
高市崩御から三月ほど経った、そんなある日のことだ。
「人麻呂さま」
退出する人麻呂を、ひとりの女性が呼び止めた。朱雀門の陰からのぞかせるその顔を見て、人麻呂の顔が一気に明るくなる。
「大名児! 大名児ではないか。懐かしいな」
その女性は大名児だった。かつて草壁皇太子の愛妾であり、大津皇子と相思相愛の仲であった元宮人だ。
「人麻呂さま、お久しゅうございます。お目にかかれてようございました」
大名児の笑顔を見て人麻呂は嬉しそうに駆け寄った。心沈む日々の中、久々に嬉しい出来事だ。
「いつこちらへ?」
「実は、もうずいぶん前に戻っておりましたの。遷都を機に出仕を願い出ようと思ってはいたのですが……」
大名児は顔を赤らめうつむいた。
「どうしてそのとき参内しなかったの? なにかあったの?」
人麻呂が彼女の顔を心配そうにのぞき込む。もしや持統に拒絶されたのだろうか。だが、大名児は笑みを浮かべ、告げた。
「実は、ややこを産んでおりまして……」
「ええっ! 誰の? まさか大津さま……なはずはないか」
大名児は袖口で口元を隠し、はにかむばかりだ。彼女の赤らむ顔を見つめていた人麻呂は、はっと閃いた。
「もしや、安麻呂どの? 大伴安麻呂どのだね? そうだろ?」
こくりと頷く大名児の顔は幸せに満ち溢れている。生まれたのは媛。後の大伴坂上郎女だ。額田王の再来とも評され、後世に名を遺す歌姫となる。
「いやぁ、喪の最中だから祝いの言葉は言えないけど、うん、よかった。よかったね、大名児」
「もう、おやめください、大名児などと呼ぶのは。もうそのように若くもありませんわ」
とは言いながらも大名児の肌はいまだ美しく輝いている。人麻呂は首を横に振りつつも訊ねた。
「ではなんとお呼びしたらいいのかな? 石川郎女、それとも……」
「刀自でかまいませぬ。明日よりふたたび宮仕えさせていただけることになりましたもので」
「それはまことかい?」
にっこりと頷く大名児改め石川刀自の顔を人麻呂がまじまじと見つめる。しばらく考えたかと思うと、彼は石川刀自に問いかけた。
「ひとつ頼みごとをしてもいいかい?」
「なんでございましょう? 人麻呂さまにはお世話になりましたもの。お役に立てることがあればなんなりとおっしゃってくださいな」
それを聞いて安心したかのように人麻呂は頬を緩めた。
「なんですの? さきほど朱雀門の下を通るとき、暗い顔で溜め息をついていらしたわ。なにかあったのですか?」
「うん、実は……」
緩めた頬を引き締め、人麻呂は切り出した。
次回は第7話「もうひとりの遺児」です。




