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第5話 遺された想い

 たった今自分が飲んだ毒は、十市皇女が(あお)った毒と同じもの——。

 激しい衝撃が高市天皇を襲った。息が詰まるほどの苦しさに悶える高市を、吹芡刀自は何をするでもなく、ただ傍観している。

「伊勢斎宮の(おお)()皇女さまをお訪ねした折のことです」

 吹芡は苦しむ高市を見つめ、語りはじめた。

「波多にて休んでいたときのこと。十市皇女さまは阿閇(あへ)皇女さまより知らされました。高市さまが御名部(みなべ)皇女さまを娶られると。そのときの十市さまの悲しげなお顔を私は生涯忘れることはできませぬ」

 高市は胸を押さえ、黙って聞いている。吹芡は続けた。

「その翌年、長屋さまがお生まれになり、十市さまがお笑いになることはなくなりました。そして伊勢へ()くことが決まると……」

 突如、吹芡は声を詰まらせた。十市の絶望はいかほどのものか。思い出しただけでも胸が苦しくなる。彼女の苦しみに比べれば、毒の苦しみなど笑止千万だ。

「あの日のことは一日たりとも忘れたことはございませぬ。伊勢への下向を知らされた日、十市さまは珍しくお笑いになって仰せになりました。羽田(はた)へ花摘みに参ろう、と」

「羽田……花摘み……?」

 途端に吹芡の拳がわなわなと震え出した。

「ですが、それは花摘みなどではなかったのです。十市さまがお摘みになられたのは……」

「まさか……?」

 その答えを聞くまでもなく、高市は直感した。十市が摘んだのはトリカブト——根、茎、葉のすべてに猛毒を持つ毒草だ。

 高市は片手で胸を押えたまま、もう片方の掌で口を覆った。苦しみに悶えてのことでもなく、自分が飲んだのがトリカブトだという事実に戦慄したからでもない。死に掻き立てるほどの十市の絶望が、20年近くの年月を経てようやく理解できたからだ。

 わかっていたつもりだった。彼女の悲しみは誰よりもわかっているつもりだったのに、本当は少しもわかっていなかったのだ。見ていたのは十市の悲しみではなく、自分の悲しみだけだったということに、今やっと気づいたのである。

「私はずっとこの日を待っておりました。来る日も来る日も、十市さまの無念を晴らすべく、ずっと堪え忍んでおりました。そしてようやくその機が訪れたのです」

「その機?」

「はい。氷高さまが長屋さまのお妃になられるとの噂を聞き、氷高さまの侍女(まかたち)にしていただいたのです」

「どうやって?」

「葛野王さまに、皇太后(おおきさき)さまに臣下の礼をとられるようお勧めいたしました。皇太后さまはたいそうお喜びになられましてね。その功あって、私の願いもお聞き届けくださいました」

「葛野を利用したのか」

 高市が睨む。吹芡は高笑いを上げた。

「とんでもない。葛野さまはあなたさまを恨んでおられるのですよ。お母上を悲しませたあなたさまを」

「では……あの薬は……?」

「もちろん、最初の薬は本物でした。信を得られなければ禁中には近づけませぬゆえ」

「朕を(たばか)ったのか……」

 息も絶え絶えに高市が声を絞り出す。

「何を仰せです。先に十市さまを裏切ったのはあなたさまですよ」

「ならば、朕の命だけ奪えばよかろう。なにゆえ長屋の命まで……」

「当然ですわ。あなたさまが近江を滅ぼさなければ葛野さまが()(つぎの)()()であらせられたのですから。それをなぜ簒奪者のあなたさまの息子が御位を継がなければならないのですか」

「朕が……簒奪者……だと?」

「そう、あなたさまは簒奪者。大友さまから玉座を奪った簒奪者なのです」

「……!」

 この御世において大友皇子を天皇だと見做(みな)す暴論は赦されるべきではない。しかし、毒はゆるゆると高市の全身を蝕んでいき、反論の言を出させなかった。

 苦しむ高市を尻目に吹芡は懐から1枚の木簡を取り出した。

「おしゃべりがすぎました。さぁ、山吹の泉にて十市さまがお待ちかねですよ。そろそろお逝きあそばしませ」

 木簡を高市の前に置く。高市はその懐かしい文字を震える指でなぞった。


  (あられ)(ふり) (いた)()(かぜ)(ふき) (さむき)()() (はた)()()()(よひ) (わが)(ひとり)()()


 忘れるはずもない。それは紛れもなく十市の文字であった。

「波多にて十市さまが詠まれたお歌です」

「十市が歌を……詠んだ……と?」

 十市皇女はその短き生涯でただの一首も遺していないと思われていた。だが、彼女の詠んだという歌が、今、目の前にある。高市の胸に(たと)えようのない感慨が込み上げた。

「おひとりでお眠りになられるのはさぞお寒うございましょう。しかし、愛する高市さまが共寝してくださるならば、十市さまもお喜びになられましょうぞ」

 吹芡は薄っすら笑みを浮かべ、その言葉を限りに御簾の外へと姿を消した。




 十市皇女の元へ逝くのはかまわない。むしろ常にそれを望んでいた。だが、このまま終わるわけにはいかないのだ。自分にはまだやらねばならないことがある。高市は最後の力を振り絞り、御帳台から降りた。

「誰かある」

 その声に反応し、真っ先に几帳を払いのけ飛び込んできたのは采女ではなく、宮人に変装した柿本人麻呂だった。

「人麻呂、車駕を出せ。今から香具山へ参るぞ」

「天皇、吹芡どのは何を……」

「いいから(はよ)うせい」

「しかし、そのような御身体では……」

 覚束ない足取りで現れた高市に人麻呂が絶句する。だが高市の瞳は見たことのないような凄みを放っていた。

「一刻の猶予もならぬ。朕はどうなってもよい。だが長屋は、長屋の命だけは……」

 真に迫った高市の瞳を見て、人麻呂は腹をくくった。

「かしこまりました。この人麻呂、香具山宮まで、いえ、地の果てまでもお供つかまつります」

 よろめく高市を支え、彼と心中する覚悟でともに車駕に乗り込んだ。

 藤原宮から香具山宮までは半里もない。どうか間に合ってくれ、と祈りながら人麻呂は高市とともに車駕に揺られた。大津皇子のときは間に合わなかった。だから今度こそは是が非でも間に合わねばならないのだ。

「あの吹芡刀自という女、やはり皇太后さまの差し向けた刺客でしょうか」

「いや、違う。吹芡は己の意志で朕を殺しに来たのだ。だが、それを皇太后が利用しないはずはない」

「なるほど。だから皇太后さまは吹芡どのが氷高さまの侍女になることをお許しになられたのですね」

 自分が手を下さずとも高市を亡き者にしてくれる人間が現れたことは鸕野讃良皇太后にとっても好都合だった。これでもし高市が命を落とし、吹芡が捕まっても、岡宮の侍女でなければ自分は知らぬ存ぜぬで通すことができる。それどころか香久山宮――即ち長屋皇子の謀反として彼を抹殺することに成功するのだ。

 しかも深謀遠慮に長けた鸕野讃良のことである。失敗したときの布石は打ってあるだろう。

「ということは……」

 人麻呂は、はっ…と目を開いて高市を見た。

「氷高さまを刺客に……? いや、まさか実の孫を、しかもあれほど可愛がっている孫娘を……」

「いいや、皇太后は実の孫娘だろうが何だろうが利用できるものはなんでも利用する。あれはそういう人間だ。否、人間ではない。鬼だ」

「まさか、日並皇子さまのご遺言に従って氷高さまを長屋さまのお妃にお認めになられたのは、氷高さまを利用するため……?」

 人麻呂の背中に戦慄が走った。確かにそうだ。数多いる天智天皇の皇子皇女の中でも、父親の血をもっとも色濃く受け継いでいるのが鸕野讃良だ。大津皇子に対する処遇を見れば、それは明らかである。謀反発覚の翌日には三十余人もの共犯者が一網打尽で逮捕、大津に賜死という迅速な処置は、まるで最初から周到に用意された地獄絵図のようでもあった。

「朕は大津を救えなかった。悔やんでも悔やみきれぬ。だが此度は誰の血も一滴も流させはせぬぞ」

 人麻呂は大きく頷いた。高市は息を荒くしながらも続ける。

「大津の母宮は皇太后の姉宮。大津は正しき皇統(すめろぎ)の皇子なのだ。その大津を(ころ)したことで人臣の心は皇太后から完全に離れた。だから朕は皇位を返すことなく玉座にとどまったのだ」

 草壁皇太子薨去の際、皇位を返せなかったのではなく、譲らなかったのである。

「あのように冷酷な人間に皇位は譲れぬ。己の欲のためなら人の命などなんとも思わぬ者に皇位を渡してはならぬぞ」

「はっ」

 高市の決意を聞いたところで、車駕は香具山宮の西門で止まった。高市が告げる。

「人麻呂、おまえはひとまず岡宮へ戻れ」

「いいえ、私はどこまでもお供つかまつります」

「ならぬ。戻れ」

「しかし……」

「おまえには(まき)(むく)に妻がおるであろう。危うき目に遭わせてはならぬ」

 高市は押し黙る人麻呂の瞳を捉えた。

「動きを悟られる前に戻るのだ。これは勅命なるぞ」

「……御意」

 苦渋の表情で人麻呂がひとり、車駕を降りる。彼をその場に残し、車駕は西門へと入っていった。




 ほどなくして、岡宮に書簡が届けられた。鸕野讃良皇太后は吉野行幸から帰還したばかりであった。

「県犬養三千代どのからにございます」

 鸕野讃良が木簡の納められた木箱を受け取る。しかし途中まで読んだところで彼女は木簡を床に叩きつけた。驚き、それを拾い上げたのは吹芡刀自だ。一通り目を通し、彼女も驚きの声を小さくあげた。

「なんと……」

 三千代からの(ふみ)の内容は、高市・長屋親子ともども生きている、というものだった。

 ——毒を量が足らなかったのか……?

 吹芡が蒼褪める。

「どいつもこいつも役立たずめ!」

 激しく憤る鸕野讃良の足元に、吹芡は慌ててひれ伏した。

「申し訳ございませぬ!」

 だが鸕野讃良の怒りは収まるどころか益々息を荒くさせている。

「もうよい、下がれ! 追って沙汰する」

天皇(すめらみこと)、お赦しを。この吹芡に今一度、今一度機をお与えくださいませ」

「ええい、下がれと申すに。おまえが岡宮(ここ)にいては朕が疑われるであろう」

「なにとぞ、なにとぞ」

 吹芡は平身低頭、床に頭をこすりつけた。それを見た鸕野讃良の動きが不意に止まる。というよりも、何か思案を巡らせているようだ。しばしの静寂ののち、いつもの深沈なさまで鸕野讃良は口を開いた。

「よかろう。おまえに今一度機を与える。だが一度きりじゃ。次はないと思え」

 吹芡はごくりと息を呑んだ後、恭順の意を示すべくさらにぬかずいた。

次回は第6話「挽歌」です。


【一口メモ】

◎霰落 板敢風吹 寒夜也 旗野尓今夜 吾獨寐牟

(霰降りいたも風吹き寒き夜や旗野に今夜我がひとり寝む)『万葉集』巻第十 2338番歌

『万葉集』では作者不詳となっていますが、十市皇女が伊勢参詣の際に波多神社(津市一志町)へ立ち寄り、この歌を詠んだという説もあります。

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