第4話 呪縛と因縁
川の上の斎つ藻の花のいつもいつも来ませ我が背子時じけめやも
吹芡刀自
夏になると暑気のせいか、高市天皇はたびたび体調を崩すようになった。
そんな中、吹芡刀自が藤原宮を訪れる。以前に葛野王の名代として届けた薬が喜ばれ、以来度々届けているのだ。
「おや、あなたはたしか……ええと、そうだ、吹芡刀自どの」
禁中へ続く長い回廊で彼女を呼び止めたのは柿本人麻呂だった。吹芡は立ち止まり、会釈した。
「いつぞやのお歌、素晴らしいものでした。この卑しき歌詠みの心も打たれましたぞ」
「そんな……。人麻呂どのにお褒めいただけるとはまこと光栄にございます」
軽く会釈をし、ふたたび歩き出そうとする吹芡を人麻呂が引き留める。
「たしか、あなたは以前、十市皇女さまにお仕えになられていたのですよね?」
「ええ、それがなにか」
「いえ。額田王さまに習われたのかなぁ、なんて」
「私など、額田さまの足元にも及びませぬ。では、急ぎますので失礼いたします」
立ち去ろうとする吹芡に、またも人麻呂が問いかける。
「そのお手に持っておられる箱の中身はなんです?」
「畏れ多くも天皇への献上の品にございますれば、中身まではご容赦を」
吹芡は無難な答えを残し、足早に立ち去った。今度は人麻呂も引き留めることはしなかった。
——ふーん。なかなか口が堅いじゃないか。
天皇の病状は秘匿されなければならない。外部に漏れれば謀反の引き金になりかねないからだ。その点で彼女は忠実に任務を遂行している。完璧すぎて恐ろしいくらいだ。
だがもうひとつ、人麻呂にはどうしても気になることがあった。吹芡も知っているはずだ。十市皇女と高市が互いに想い合っていたことを。その高市に近づこうとする彼女の心中は、その表情からは一切うかがい知ることはできなかった。
夏も終わりに近づいたころ、香具山宮にいる氷高皇女の元へ1枚の木簡が届けられた。祖母鸕野讃良皇太后からの密書だ。
祖母からの木簡を目にした途端、氷高の細い身体ががたがたと震え出した。
——怖い。私はお祖母さまが怖い。
しかし逆らうことは許されない。祖母の呪縛が彼女をがんじがらめにする。もはやどのような言霊をもってしても、誰であろうと呪縛から解き放つことはできないだろう。
いや、ひとりいる。長屋皇子だ。何ものをも恐れない彼の瞳は、氷高のただひとつの希望であった。
——会いたい……
だが、会うわけにはいかない。会ったら自分がどうなってしまうかわからないのだ。
——巻き込みたくない。
だが、救いの手を差し伸べてほしい。この矛盾した感情と向き合い、戦い、氷高はもがき苦しんでいた。
「吹芡刀自はおるか」
苦しみに堪え、吹芡を呼ぶ。だが、やってきたのは県犬養三千代だった。
「おまえなど呼んではおらぬ。吹芡はどうした。吹芡をこれへ」
「吹芡どのはただいま参内いたしております」
「参内? 何用だ」
「藤原宮さまの御加減が優れぬご様子にて、薬を届けまいらせております」
言いながら三千代は真新しい絹衣を手に取った。
「さぁ、そろそろお支度をいたしましょう、皇女さま」
近づく三千代に触れられまいと、氷高が身をよじらせる。
「皇女さま。天皇の命にございます。これは勅です。逆らうことは許されませぬぞ」
三千代も祖母のことを天皇と呼んだ。これは本当に「勅」なのか。
——いやだ。従いたくない。
三千代が氷高の震える細い腕をぐいと引く。
「天皇に逆らった者の末路をご存じでしょう」
曾祖父天智天皇の顔貌は知らないが、政敵を次々と抹殺してゆく冷酷な様を祖母鸕野讃良は彷彿とさせるという。現に彼女は、天武天皇が崩じた直後に甥大津皇子を死している。それは当時称制を執っていた鸕野讃良の命によるものであり、誰も逆らうことはできなかった。逆らえば己の身が危うくなることを誰もが肌で感じ取っていたからだ。大津の親友と言われた川島皇子でさえも彼女の威圧に屈したのである。
——お祖母さまの命……。お祖母さまは本当に天皇なのか?
「勅」という言葉に対する疑念が頭から離れない。だが祖母の呪縛からは逃れられず、氷高はついに白梅の香が薫き染められた絹衣に手を通してしまうのだった。
湖面に跳ね返される陽光が、きらきらと輝いている。まるでこの眼を射し潰してしまうようでもあった。
湖には果てがある。だが、淡い海は果てしなく広がっていた。どこからともなく寄せる細波は、また、どこへともなく帰ってゆく。そしてすぐにやってきてはすぐに帰る。休むことなく、永遠にその繰り返し。永遠に。そしてその永遠の向こう側には……。
高市天皇は瞼を開けた。
「夢か……」
病に臥してからというもの、この夢ばかり見る。近江大津京の記憶はけして明るいものではない。それでも幸せな時間もあったはず。
「天皇、お目覚めにあらせられますか」
「うむ」
采女の声を聞き、高市はゆっくりと起き上がった。まだ人の手を借りずに起きられることに安堵する。
「吹芡刀自どのがお薬をお持ちくだされましたので、薬湯を煎じましてございます」
「これへ」
采女が几帳を上げ、御帳台の傍らにやってくる。薬湯を高市が飲み干すのを待ってから采女は告げた。
「吹芡刀自どのがお目通りを願っておられます。いかがいたしましょう」
「許す」
その言葉を受け、采女が吹芡を呼びに行く。ほどなくして吹芡はやってきた。
「お目通り叶いまして有難き幸せにございます」
「堅苦しい挨拶はいらぬ。そこに座るがよい」
促され、吹芡は御帳台の傍らにある倚子に腰かけた。
「お懐かしゅうございます。本日は様々に昔語りなどいたしとうございます。願わくはお人払いを」
高市は吹芡の願いを聞き入れ、人払いをした。
「おまえを見ると思い出す。近江にいたころのことを」
「私もでございます。目を閉じると、休むことなく寄せては返す淡海の波が思い出されます」
このときのふたりは同じものを見ていた。大湖の畔に広がる先進的な都市、蒼穹に映える重厚な甍、淡い海の先にうっすらと揺れる伊吹山。目にも鮮やかな風景が眼裏に甦る。
そしてもうひとつ、その景色の中に立つひとりの美しい皇女をふたりは忘れることができない。
「十市皇女さまは、いつもお待ちになられていました。近江でも、飛鳥でも。川の上の斎つ藻の花のいつもいつも……」
不意に吹芡が目を潤ませる。
「いつぞやの宴での歌は朕への当てつけか」
高市は笑った。怒るでもなく、懐かし気に目を細めている。彼は気づいていたのだろうか。それを確かめるべく吹芡は涙を拭い、その瞳の奥をじっと見つめた。
「時じけめやも」
それを聞いた瞬間、高市の目つきが険しく光った。
「あのときはまだ時宜が悪かった。近江の残党が先天皇(天武天皇)の御世を覆さんと狙っていたゆえ、十市を奴らの謀に利用されたくなかったのだ」
「時じけめやも」
「御世が平らかになった暁には、時宜を見て必ず迎えに行こうと思っていた。偽りではない。朕のまことの心だ」
「時宜が悪いなどということがありましょうや」
吹芡は目に溢れんばかりの涙を浮かべていた。
「いつもいつも、ずっとずっと待ちつづける女の気持ちをご存じですか。殿方はいつでも時宜が悪いなどと言い訳ばかり。待つ身の辛さなど歯牙にもかけないのでしょうね」
高市は反論せずに、じっと吹芡の言葉に耳を傾けていた。彼女の言うことにも一理ある。今思えば、敵方の大将の妻であった十市皇女を表向き戦利品として見せつけるという手段もあったはずだ。それを深慮せず、父天武天皇の言いなりになってしまった。彼にとっても悔恨一色に染まった過去なのだ。
「ところで、」
吹芡は唐突に表情を変えた。憂いと怒りの涙は消え去り、薄笑いを浮かべている。
「但馬皇女さまの竊事には御目をお瞑りあそばされているとか」
高市の妃但馬皇女と穂積皇子の密通は、公然の秘密となっている。
「ご自分は十市さまのお心を傷つけておきながら、お若いお妃さまの火遊びには随分とおおらかですこと」
「火遊びではない。あのふたりは真に愛し合っている。そのような者たちを引き裂くことはできぬ」
「左様にございますか。ならば、長屋皇子さまのお命が危うかろうとも、氷高さまと引き裂くおつもりはないと仰せなのですね」
ふっ……と吹芡が笑う。と同時に高市の目の色が変わった。
「長屋がどうしたと? 今なんと言った? 長屋の命が危ういと……!」
そこまで言いかけたところで、突如、高市が胸を押さえてうずくまった。
「おまえ……、もしや、さきほどの薬湯……」
「おほほほ! ようやくお気づきあそばされましたか。教えて差し上げましょうか」
「おまえ……何を入れた……」
吹芡はゆらりと立ち上がった。高市を俯瞰するその眼は狂気を孕んでいる。高市はぞっとしながら彼女を見上げた。
「毒です。しかもただの毒ではありませぬ」
「な……んだ、これは……」
次の瞬間、彼女は恐るべきことを口にした。
「さきほどお召しになられたのは、十市さまが呷られた毒と同じものです」
「……!」
高市の全身に激震が走った。
次回は第5話「遺された想い」です。




