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第3話 不穏な動き

 ときは3月に入る。藤原宮にて催された宴の帰り、吹芡(ふぶき)刀自は(かど)()(のおおきみ)の邸に寄った。昔の主としばし談笑する。そこへ葛野の祖母(ぬか)()(のおおきみ)がやってきた。

「なにやら楽しそうじゃな。(ばば)も混ぜてたもれ」

 葛野王は、壬申の乱で敗者となった大友皇子と十市皇女の一粒種である。額田王は一人娘の十市皇女を亡くした後、孫葛野の邸に身を寄せひっそりと暮らしていた。かつて天智・天武両帝から寵を受け、宮廷を一世風靡した歌姫の姿は見る影もない。

「これは額田さま。ご挨拶が遅れまして申し訳ございませぬ」

 床に手を着き吹芡がぬかずく。額田は、苦しゅうない、と一言添え、ふたりの間に腰を下ろした。

天皇(すめらみこと)はお健やかにあらせられたか? このところ御加減が優れぬと聞いたが」

「ご心配には及びませぬ。先日、万病に効くという薬を吹芡が届けてくれましたので」

 その薬湯の効果もあって回復したとお褒めにあずかった、と葛野は嬉しそうに話した。

「それはなにより。ほかにもなんぞ良きことがあったようじゃな」

「はい。吹芡の詠んだ歌が柿本人麻呂に褒められました」

「ほう、人麻呂どのにとな。私も是非聴いてみたかった」

 滅相もない、と吹芡は恐縮した。

「ただ今、母宮さまの思い出話などお聞かせ申し上げておりました」

 照れ隠しにさりげなく話題を変えると、額田は懐かし気に頷いた。

「亡き母宮さまは大変お美しいお方でした」

 吹芡の瞳は遠く近江に飛んでいる。葛野は笑みを湛えたまま目を伏せた。

「私も方々(ほうぼう)より母宮のお美しさは聞き及んでおりました。しかし……」

「しかし?」

「母宮を越える美しき皇女がこの大和の国におるとか」

 孫の言葉を聞いた額田は吹芡に目を向けた。吹芡があわてて首を横に振る。

「私はそのようなこと申しておりませぬ。十市さまを越える美しき皇女さまなどこの世におりましょうや」

「ほほほ、よいよい。存じておる。氷高皇女さまであろう。あのお方のお美しさはお生まれになられた瞬間(とき)から皆が口にしていた」

 団扇で口元を隠し、額田は高らかに笑った。反して葛野の表情がやにわに曇る。

岡宮(おかのみや)のお方はなにゆえ氷高皇女を長屋皇子の妃とすることをお認めになられたのでしょうか」

「それは、日並皇子さまのご遺言にあらせられましたゆえ」

 葛野の問いには吹芡が答えた。

「しかし遺詔ではないのだから、無理に従わずともよかったのではないか?」

 言葉に詰まる吹芡の代わりに、今度は額田が答えた。

「長屋皇子さまを次なる天皇にとお考えなのではなかろうか」

「なにゆえです?」

 葛野は驚いたように大きく眼を開いた。

「長屋さまというよりも、氷高さまを……と言ったほうが正しいかの」

 長屋皇子が天皇になれば、すべからく皇后は氷高皇女である。皇后は天皇急逝の際に仲天皇として皇位に就くことができるのだ。

 だが、額田の推測に吹芡が反論する。

「しかしながら、日並皇子さまには珂瑠皇子さまという御子がおられます。弟宮さまを差し置いて姉宮さまが御位にお就きになるなどということは考えられませぬ」

「珂瑠皇子さまは日並皇子さまに似てあまりお身体がお強くはない。万が一、日並皇子さまのように短きお命であられたら……」

「縁起でもない!」

 思わず声を荒げたのは吹芡だった。葛野と額田が驚いたように彼女を注視する。吹芡はそこで我に返った。落ち着きを取り戻し、静かに告げる。

「畏れ多くも珂瑠皇子さまは岡宮の天皇(すめらみこと)皇統(すめろぎ)にございますれば」

「天皇は藤原宮に(いま)すぞ」

「いいえ、天皇は岡宮に坐します」

 譲らぬ吹芡に額田は天を仰いだ。このとき葛野は何を思うのか。じっと敷板を見つめたまま、その日ついに、これについて言葉を発することはなかった。




 翌日、氷高皇女は香具山宮でばたばたと走り回っていた。

()()、志藝刀自はおるか」

 どうやら侍女の志藝刀自を探しているようだ。

「皇女さま、いかがなされましたか」

「志藝がおらぬ。昨夜から見当たらぬのだ。吹芡、おまえ、志藝の行方を知ってはおらぬか」

 宿下がりでもしたのではないかと首を傾げ、吹芡は問い返した。

「昨日はおりましたのか?」

「うん。昨日の朝はいたが、帰ってきたらいなくなっていた」

「帰ってきたら? 皇女さま、昨日どちらかへお出かけになられたのですか?」

 氷高は一瞬、うっ……と詰まり、ぽつりと漏らした。

海石榴(つば)(いち)に連れて行ってもらった」

「どなたに?」

「……皇子(みこ)

 吹芡は驚きの眼を彼女に向けた。見れば髪には見慣れぬ髪飾りが挿してある。おそらく長屋皇子が買ってくれたのだろう。

「三千代どのはご存じなのですか?」

 県犬養三千代は氷高と長屋が会うのを極端に嫌がる。まるでふたりの仲を引き裂くかのようだ。

「三千代は昨日留守だった。(ふた)(つき)(のみや)へ行ったと()(のわらわ)が教えてくれたから、皆には内緒で皇子に伝えさせたのだ」

「二槻宮ですと?」

 吹芡が怪訝に眉を(しか)める。氷高は彼女の異変を敏感に感じ取った。

「二槻宮がどうかしたか?」

 不思議なことに、氷高の明眸に見つめられると嘘が付けなくなる。吹芡は意を決し彼女に告げた。

「皇女さまは二槻宮が何処(いずこ)にあるかご存じなのですか?」

「岡宮から下った先にある宮であろう。(のちの)(おか)本宮(もとのみや)に坐した天皇(斉明天皇。天智・天武両帝の実母)がお造りあそばされた天宮(あめのみや)だ」

「実は、二槻宮はもうひとつあるのです」

 今度は氷高が柳眉を(ひそ)めた。

「もうひとつあるだと? どこだ?」

多武(とう)(のみね)にございます」

「多武峰?」

 多武峰と聞いて氷高は小首を傾げた。どこかで聞いたことのある昔話を記憶の片隅から辿る。と、そのとき、彼女の脳裏にひとつの場所が思い浮かんだ。

(かたら)い山……」

 呟く氷高に吹芡がこくりと頷く。「談い山」とは後に言う談山神社である。斉明天皇は「()()の嶺」に石垣を巡らし2本の槻の木のそばに(たかどの)を建てたという。この「田身の嶺」こそが多武峰であり、観が「(ふた)槻宮(つきのみや)(二槻宮)」なのである、と吹芡は説明した。

「それはまことか? 談い山は近江の天皇(天智天皇)と藤原鎌足が蘇我入鹿を誅する(はかりごと)を巡らせた場所だと聞く。なにゆえそのようなところに三千代が行くのだ?」

「三千代どのだけではありませぬ。天皇もお出ましになられたと聞き及んでおります」

「お祖母さまも? なにゆえだ。お祖母さまに用があるなら岡宮へ参ればよいではないか」

「談い山が特別な地だからでは?」

「特別? 誰にとって特別なのだ。お祖母さまか? 三千代か?」

 矢次早の問いかけに吹芡も必死で頭を捻った。だが、どうしても明快な回答を示すことはできなかった。

「天皇の御父(おんちち)天皇(うえ)所縁(ゆかり)の地……だから、でございましょうか」

「それだけか?」

 たしかにそれだけでは説得力に欠ける。が、ここで考えていても埒が明かない。

「申し訳ありませぬ。私にはわかりかねます。それよりも、皇女さま。これ以上皇子さまと親しくなされぬようお願いいたします」

「なぜだ」

「天皇の命にございます」

 だが根拠のない答えに氷高が納得するはずもない。

「なぜ、お祖母さまは皇子を(うと)んじる? 大津の叔父上に似ているからか? 珂瑠と無理に競わせようとするのも父上と叔父上を重ねているからか?」

 氷高は茱萸(ぐみ)のように紅く可愛らしい唇を噛みしめた。

「皇子はやさしい。昨日だって私を犯そうと思えばできたはずだ。それなのに、日ごろ公務以外は部屋に閉じ込められている私を案じて外へ連れ出してくれたのだ」

 真の浦の継橋のように切れることなく憧れつづけていた外の世界、想いつづけた長屋皇子との逢瀬。夢にまで現れるほど焦がれた想いは、現実となって果たされたのだ。それはなんと清々しく、なんと生き生きとしていたことだろう。籠の中の鳥を見かねて大空へと羽ばたかせてくれた彼は、氷高にとって救世主となり得るのか。

 氷高は穢れなき明眸で吹芡を見据えた。

「私は誰を信じればいい?」

「申し上げるまでもありませぬ。信ずるべきは岡宮の天皇にございます」

 言い切る吹芡をじっと見据えたまま、氷高はなにも答えず自室へと立った。

 御簾が上がると同時に生ぬるい風が吹き込んでくる。不吉な予感が吹芡を襲った。




 藤原宮から戻った藤原不比等を柿本人麻呂がつかまえる。

「どうだった?」

 不比等は、草壁皇太子薨去の翌年、鸕野讃良皇太后の口添えで朝廷に出仕することを許されていた。法令に長ずる彼は(ぎょう)()(しょう)の判事として、その手腕を発揮する下地を地道に積み重ねている。

「別に」

 だが、どこかピリピリとした雰囲気だ。目も合わせず寡黙に通り過ぎようとする不比等のあとを人麻呂はかまわずついてゆく。

「別にってことないだろ。ねぇ、長屋皇子はどんな感じだった? 会ったんでしょ?」

 そこで不比等はぴたりを足を止めた。

「賢い。実に賢い。恐ろしく賢いお方だ」

 不比等の身体をどす黒い空気が渦巻いている。もしや、やりこめられたのだろうか。頭が切れ、口も達者な不比等を言い負かしたとなれば相当な強者だ。矜持を打ち砕かれた不比等はこれ以上刺激しない方がいいだろう。

 ふたたびすたすたと歩き出す不比等の背中に向かって、人麻呂が声をかける。

「意外とモテるんだね」

 またも足を止めた不比等は、今度は振り返り人麻呂をぎろりと睨んだ。

「意外と、とはなんだ」

「やっと私の目を見てくれた」

 人麻呂は嬉しそうににやにやと駆け寄った。

 不比等は前年に四男麻呂を儲けている。母親は不比等の異母妹五百重(いおえ)だ。それだけならなんということはないのだが、彼女の前歴が尋常ではなかった。天武天皇の妃であったからだ。

「それがどうした。岡宮のお方のお許しはいただいている」

「うん。それは別にいいんだけどさ。でもあの(ひと)はいただけないな」

「あの女?」

「県犬養三千代」

 不比等の顔からみるみる血の気が引いた。

「そなた、どうしてそれを……」

「隠すならもっとうまくやらなくちゃ」

 人麻呂は笑みを浮かべてはいたが、その瞳の奥は見透かしたような鋭い光を放っている。

「どこで逢ってたんだい? 嶋宮? それとも……」

 多武峰——。人麻呂がその場所を口にする前に、不比等が先に口を開いた。

「多武峰の麓にある中臣の邸だ。それ以上は言わん。色恋のことはほっといてくれ」

 ぶっきらぼうに言い捨て、不比等は足早にその瞳から逃れようとした。

「ねぇ、危ないこと考えてやしないよね?」

 だが不比等の背中が答えることはなかった。

「心配だなぁ」

 かつて中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿暗殺の謀議を重ねた多武峰談い山。この図式をそっくりそのまま、娘鸕野讃良皇太后と息子藤原不比等に置き換えたとしたら——。

 よからぬ予感は人麻呂をも襲った。

次回は第4話「呪縛と因縁」です。

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