第2話 良き男
我が背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり妻待ちかねて
長屋王
翌々年の694年12月、都京は遷された。新益京——俗にいう藤原京である。
飛鳥浄御原宮から凡そ一里ほど北に上ったところにある新都は、香具山・耳成山・畝傍山という大和三山に囲まれている。大極殿を中心とした方形の都城建設は、律令を基盤とした中央集権国家を目指したものだ。
天武天皇の悲願であった新都建設。その遺志を継ぎ、完成させたのは皇太后鸕野讃良と仲天皇高市であった。
遷都の翌年、世にも美しいひめみこが香具山宮に入った。彼女の名は氷高皇女。天武天皇の嫡子でありながら即位することなく夭折した皇太子草壁皇子の忘れ形見である。
元々高市皇子の宮であった香具山宮を、今は嫡男長屋皇子が引き継いでいる。その香具山宮に氷高皇女が入ったということは即ち、彼女が長屋皇子に嫁したということ。今上天皇高市の嫡男と先皇太子草壁の長女の婚姻は誰の目から見ても最高の組み合わせであり、何をおいても祝福されるものであることは疑いようがない。
「吹芡刀自はおるか」
めでたきことだというのに、氷高は柳眉を吊り上げて吹芡刀自を呼びつけた。
「皇女さま、お召しにございますか」
輿入れに付き従い香具山宮に入った吹芡に、氷高が長い睫毛を近づける。
「なにゆえお祖母さまは嘘をつかれたのだ?」
「嘘……とは?」
「三千代もだ。なぜみな私に嘘ばかりつく」
氷高の実弟珂瑠皇子の乳母県犬養三千代もまた氷高の輿入れに付き従ってきた侍女のひとりだ。溺愛する珂瑠皇子から引き離された彼女は、香具山宮に入ってからというものすこぶる機嫌が悪い。
「三千代どのも、でございますか? はて、お話がよく見えませぬが……」
「とぼけるな。おまえも知っていたのだろう。私を馬鹿にしおって。許さぬ」
「お怒りをお鎮めくださいませ、皇女さま。嘘とはなんでございましょう。お教えくださいませ」
興奮気味だった氷高は息を整え、吹芡から目を逸らした。
「良き男だ」
声が小さくて吹芡はよく聞き取れない。
「はい?」
訊き返す吹芡に視線を戻し、氷高は頬を赤らめた。
「皇子は良き男だと申している」
握りしめていた木簡を愛おしげに見つめる。男に歌を贈られたことは数知れず。しかし、ひとつとして彼女の心を動かすことはできなかった。それが、長屋皇子のたいして上手くもない歌が千々に心をかき乱すのだ。
「それなのに、お祖母さまや三千代は皇子のことを悪く言う。野蛮だの、ずる賢いだの、女癖が悪いだの。だがとてもそうは見えぬぞ」
「皇女さまには、皇子さまがどのようにお見えになられるのですか?」
「……良き男……」
さらに氷高は頬を紅潮させ、うつむいた。吹芡はひとつ小さな吐息を漏らし、告げる。
「そのような歌ごときに騙されてはなりませぬ。長屋皇子さまは珂瑠皇子さまを害そうと企んでいる悪逆人なのですよ」
「嘘だ」
「天皇が嘘をおつきあそばされるなどということはありませぬ」
「なぜだ」
「それは、天皇はどのようなときも正しくあらせられ……」
「違う。なぜ、お祖母さまを天皇と呼ぶのかと訊いているのだ」
氷高の真っ直ぐな明眸が吹芡を言葉に詰まらせた。
「今日こそは答えてもらう。答えるまで赦さぬぞ」
その瞳は祖母のそれよりも強く鋭い光を突きつけてくる。吹芡は観念した。
「玉座は本来であれば日並皇子さまのものでした」
「父上のもの……だった?」
「はい。日嗣の皇子は御父宮であらせられましたゆえ。しかし、先天皇は御父宮を差し置いて御位をご長子の高市皇子さまにお譲りあそばされたのです」
「なにゆえだ?」
「その頃はまだ、近江の残党が皇位の簒奪を狙っておりました。ゆえに、壬申の戦の折に武功を挙げられた高市さまならば簡単に手は出せまい、と思し召されたのでございます」
氷高は吹芡の言葉を一言一句漏らすまいと聞いている。吹芡は一呼吸置いてからふたたび語りはじめた。
「高市さまのご即位は仲天皇としてのものでした。それは高市さま自ら申し出られたとのことにございます」
「なんと?」
「令を発し、国の安定を図ったところで日並皇子さまに御位をお返しすると」
「しかし、その前に父上が薨ってしまわれたがゆえに返せなかった、そういうことなのだな?」
吹芡は大きく頷いた。
「ならば、いたしかたあるまい。義父上(高市)は筋を通されている」
吹芡は、今度は大きく頭を振った。
「いいえ。筋は通っておられませぬ。本来であれば玉座は日並皇子さまのもの。日並皇子さまがお嗣ぎになられぬのなら、その御子珂瑠さまに御位は嗣がれるべきなのです。それが筋というもの。その筋を通さぬ高市さまこそ、皇統を蔑ろにした大逆の罪を負うべきなのです」
その真剣な眼差しを、氷高は頷くでもなく、ただじっと見つめている。それからうつむき、しばらく考え込むように木簡をぎゅっと握りしめると不意に顔を上げ、ふたたび吹芡の瞳をしっかととらえた。
「今の話、嘘偽りはないな」
「ございませぬ」
「わかった。おまえを信じよう」
そこでようやく吹芡は解放された。
久方ぶりに嶋宮に帰省した氷高は、拍子抜けしたように弓場の敷板に腰を下ろした。
「思ったより元気そうではないか」
冬に入ってから弟宮珂瑠皇子の風邪が長引いていると聞き及び、こうして見舞いにやってきたのだが、意に反して彼は元気に射芸の練習に励んでいる。
「三千代が大袈裟に伝えたのでしょう。あれは何かと理由をつけて嶋宮に戻りたがりますゆえ」
珂瑠皇子はうんざり気味に的を向いた。生まれたときから世話をさせている乳母ではあるが、あまりの過保護ぶりにときどき辟易することがある。
中弭をつがえ弓を構える背中は、少し見ない間に大人っぽくなった。目を細めて弟宮を見つめる姉宮の前で、ひょうっ……と矢が放たれる。矢はかろうじて的の脇に届いた。
「届くようになったではないか」
「ぜーんぜん。まだまだです。これではあの方に勝てません」
肩で大きく呼吸をしながら珂瑠は一息入れた。
「なんでもかんでもお祖母さまの言いなりにならずともよいというに」
姉の言葉に口を尖らせる。
「ならばなにゆえ姉上は香具山へ参られたのですか? お祖母さまの命によるものではないのですか?」
姉弟は生まれた瞬間から祖母鸕野讃良の脅威にさらされ続けてきた。心の奥の奥まで射抜くような鋭い眼差し。どれほど溺愛されようが、その瞳の奥にある冷酷な光を幼い心は敏感に嗅ぎ取ってしまうのだ。しかもそれは逆らいようもないほど彼らの心に植え付けられている。その呪縛からは大人になった今でも解き放たれてはいない。いや、大人になったからこそ、祖母の真の恐ろしさを知るようになったのだ。だが氷高は、それを認める自分を弟に見せたくなかった。
「そ、それは……香具山がどのようなところか見てみたかったからだ。他意はない」
「まことに? 少し興味があったのではありませんか? 長屋どのに」
氷高は弟宮をじろりと睨んだ。だがその頬は赤く染まっている。
「ねぇ、姉上。長屋どのはどのようなお方なのです?」
「そのようなこと、どうでもよいではないか。そなたには関係のないことだ」
珂瑠はわずかに吐息を漏らし、汗を拭った。
「関係ないことないでしょう。お祖母さまが絶対に負けるなっておっしゃるものだから、こうして病み上がりにもかかわらず射芸に励んでいるのではありませんか」
正月には藤原宮の南門にて射礼がある。そこで公卿百官が集まる中、祖母鸕野讃良は珂瑠を射礼に参加させるつもりなのだ。目的はただひとつ、草壁皇太子の遺児珂瑠皇子の存在を世に知らしめるためである。
「そなたの勝てる相手ではない。せいぜい怪我をせぬことだ」
氷高の脳裏に長屋皇子の雄姿がよぎる。黒い光を放つ強弓をいとも軽々と扱う上腕二頭筋が瞼に焼き付いて離れない。鍛え抜かれた体躯だけではない。精悍な顔つき、清々しい笑顔、やさしげな眼差し。思い出すだけで鼓動が高鳴るのはどうしてなのか。
「好きなのですか?」
唐突な問いかけに鼓動がばくんと跳ね上がる。
「ばっ馬鹿を申すな。そのようなことあるわけないだろう」
「ふーん」
「そなたはいつからそのようにませた物言いをするようになったのだ」
それには答えず、珂瑠はにやにやしながら矢を取った。中弭をつがえ構えの体勢に入ったころにはすでにきりりと的を見据えていた。すぅーっと息を整え、矢筈から指を離す。放たれた矢は見事的の真ん中へと、糸を引くように吸い込まれていった。
「当たった!」
姉弟ふたりで顔を見合わせる。
「肩の力を抜いたほうがいいみたいだな」
「そのようです。なんとなくコツが掴めました。姉上のお陰ですね。ありがとうございます」
「私は何もしておらぬが」
きょとんとする姉に目配せをし、珂瑠はふたたび矢を取った。憂鬱だった射礼が少しだけ楽しみになったようだ。
年明けの射礼では、珂瑠皇子の、亡き草壁皇太子のあまりの生き写しぶりが見る者を驚愕させた。だが、誰よりも驚いたのは高市天皇であっただろう。草壁の面影を見せつけることで真の皇統がどちらなのかを突きつける鸕野讃良皇太后の挑戦状を、否が応でも受け取らざるを得なかったのだ。
一方、深沈大度の鸕野讃良皇太后も涼しい顔ばかりしてはいられなかった。高市天皇の嫡男長屋皇子の英姿を目の当たりにし、戦慄していたのだ。近い将来、必ずや愛孫珂瑠皇子の脅威となるだろう。彼女の中に一種の焦りのようなものが芽生えた。
次回は第3話「不穏な動き」です。
★活動報告に氷高皇女のイメージ画を掲載しました。
(イメージを損なうといけないのでこちらでは掲載いたしません。)




