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第2話 歌姫の娘

 その晩は、宴の散会後も異様な熱気を引きずっていた。

 668年、近江大津京に遷都して1年目のことである。

(ぬか)()(のおおきみ)さまの春秋争いのお歌、まことにお見事であったな」

 退出の回廊で臣下どもはしきりに興奮しあっている。春を褒めたかと思えば貶してみたり、では秋のほうが優れているのかと期待すればそうでもなさそうな詠み口。なかなか結論を出さず、ぎりぎりのところまで聴衆を惹きつけておいて、最後は迷いなく秋に軍配を挙げるのだ。なんとも恐れ入ったことよ、と口々に脱帽している。

 だが、それ以上に彼らを感心させたのは、修羅場をこともなげに収めてしまった手腕であろう。

「一時はどうなることかと肝を冷やしたぞ。額田さまと内臣(うちおみ)どのがおられなかったら、天皇(すめらみこと)大皇弟(もうけのきみ)を……」

 卿のひとりが言いかけて口をつぐんだ。危うく殺すところだった、などという物騒なことは口が裂けても言えない。ただでさえ、このところ朝廷内では不穏な空気が漂い始めているのだ。しかもその原因を作っているのが天皇自身なのだから、臣下にとっては頭の痛いことである。

「大皇弟は、やはり天皇をお恨み申し上げているのであろうか」

「大友皇子さまのことか?」

 天智は伊賀の豪族の娘に産ませた皇子大友を(こと)のほか溺愛していた。できうることなら玉座に就かせたいと考えているほどだ。すでに皇太弟に定められ次期天皇の座を確約されていた大海人皇子にとって、このことは不測の変事だったに違いない。その焦りと兄への憎悪から、長槍を突き立てるという不可解な行為に及んだのだろうか。

 しかし臣下どもの関心はむしろ別な方向へと飛び火していた。

「そういえば、その大友さまのお妃に十市(とおち)(のひめ)(みこ)さまが選ばれたとの話にござる。なんでも、天皇御自らお決めあそばされたそうじゃ」

「十市さまが? もうそのようなお年頃か」

「確か、15歳……」

 ほう……と、その場から溜め息が漏れた。十市皇女は額田王の一人娘である。父親は大海人だ。

「額田さまの媛君ならば、さぞかしお美しいのであろうな」

「きっと、歌の才もおありであろうの」

「げにげに」

 一同、下世話に(うなず)き合った。

「ひとたび拝見してみたいものだ。その美貌と歌才を」

 下世話な憶測ではあったが、確かに十市皇女は美しかった。彼女よりも美しい女人を見たことはあるかと問われたら、誰もが首を横に振るだろう。ところが歌のほうはというと、これが未だに詠んだことがないというのだ。侍女(まかたち)どもも聞いたことがないという。詠えないのか、詠わないのか、理由は誰も知らなかった。




「そろそろそなたも宴の席に顔を出してはいかがかの」

 宴から戻った母額田王の声に、十市皇女が顔だけ向ける。

「しかし……私など、お母さまのように詠えませぬゆえ」

 下世話な噂など露ほども知らず、おっとりと答える娘に、額田は苛立ちをこらえながら言った。

「それ、それじゃ。そなたはなにゆえ詠おうとはせぬ」

「別に詠いたいとも思いませぬが」

 きょとんと首を傾げる娘を見て、額田は頭を左右に振りながら大きな溜め息をついた。

「物思う心さえあれば歌など詠めるものなのじゃ。そなたは幼き頃、草花を眺めるのを好んでおったではないか。そういう心が歌を詠ませるのじゃ」

 だが十市の返答は、額田をさらに苛立たせるものであった。

「そんなこともあったかしら……。幼き頃のことなど忘れてしまいましたわ」

「そなたは、いつからそんなふうになってしまったのか」

 半ばあきらめ顔の母に、十市は微笑んで見せた。だがそれが娘の、母に対する精一杯の詫びであることに額田は気づかない。

 いつから——。いつからなのか。母の前では口にこそしなかったが、十市にははっきりとわかっていた。




 湖面が揺れるたびに陽の光がきらきらと乱反射する。その情景はおぼろげであるのに——。

「私、大友どのの妃になるの」

 そう、ひとつ年下の異母弟高市皇子に告げたあの日のことは、今でもはっきりと憶えている。そして、それを美しい異母姉の口から聞かされた彼の絶望に満ちた顔も。

「天皇の命で……」

 必死で言い訳を探した。事実、それが最大の理由であり、また、それ以上に説得力のある理由などない。ただ、婚姻が自分の意思ではないことを彼に知っていてほしかっただけだ。

 だが高市は何も言わなかった。その()が十市には怖かった。それでも彼の言葉を待つしかなかった。湖面が跳ね返す陽光を避けるような形で少し斜めに逸らした紅顔を、じっと見つめたまま時を待つ。

 高市はそれからしばらく黙っていたかと思うと、おもむろに明るい笑顔を向けた。

「おめでとう。天皇の長男のお妃さまなんてすごいじゃないか」

 えっ……と耳を疑う。高市の予想外の反応に、十市は狼狽(うろた)えた。

「もしかしたら将来は(おお)(きさき)さまになれるだろう。だって姉さまは神様みたいに綺麗なんだもの」

「……」

 十市は言葉を失い、やはり高市を見つめることしかできなかった。

「ほら、姉さまの好きな山吹の花だよ。お祝いにあげる」

 笑顔のまま高市は、十市の黒髪に山吹を一輪挿すと再び言った。

「ごめんね、詠ってあげられなくて。でも私は姉さまが幸せになるように、毎日お祈りして差しあげるね」

 異母弟の笑顔は必死に作られたものだ。十市はそのことに気づいていた。彼女の瞳には溢れんばかりの涙が浮かんでいたが、対して高市はそのことに気づかぬふりをして身を翻し走り去った。

 こうして、淡い初恋は終わりを告げた。

 天皇の命にどうして逆らえよう。十市を奪って逃げようにも、高市はあまりに幼すぎた。淡い初恋にしては、やけに苦い味だけが記憶の淵にこびりついている。




「何を祈っておる?」

 予告もなく寝所へ入ってきた母に、十市は驚き頬を赤らめた。

「まぁ、赤くなって、この子は。明日の輿入れのことでも考えていたのか? 案ずることはない。大友さまはたいそうご立派なお方と評判じゃ。安心してお任せしてよいのじゃぞ」

 違う。明日から夫となる男のことなど考えたくもない。十市はついカッとなった。

「娘の気持ちもわからないようなお母さまに、歌を詠む資格なんかないわ!」

 日頃より口数の少ない十市が突然怒り出したものだから、今度は額田が驚く番であった。

「いかがしたのじゃ?」

「もう……出て行って、出て行ってよ!」

 そう叫ぶなり、十市は(しとね)に突っ伏して泣き出した。

「輿入れを控え不安な気持ちもわかるが、泣いては明日の輿入れに障るではないか」

 母は何もわかってはいなかった。わかるはずもない。十市が、高市の幸せを祈っていたなんてわかるはずがないのだ。




 翌朝、美しく着飾り、白粉(おしろい)をのせ、紅を引いた娘に額田は満足げであった。

「そなたは、どの皇女(ひめみこ)よりも美しいぞよ」

「まこと、美しゅうございます、皇女さま」

 侍女らも口々に(よろこ)びを表した。誰もがこの輿入れを(よろこ)ぶ中、十市ひとりが浮かぬ顔をしている。そしてその憂い顔は大友皇子と(きん)を共にしたとき、殊更(ことさら)沈んだものとなっていた。

「そなたのような美しい皇女を妃にできて、私はうれしいぞ」

 と(よろこ)ぶ大友が悪いわけでは、けしてない。しかし、十市にはどうにも彼が受け入れられないのだ。触れられまいと身体をくねらす十市に、大友はやさしく(ささや)く。

「恥ずかしがることはないのだよ」

 だがそのやさしさも、十市にしてみれば苦痛以外のなにものでもない。彼女は最初から最後まで、とうとう声を発することはなかった。

 十市は祈っていた。自分でもわからないが、必死に祈っていた。

 十市は懐妊した。大友に身体を許したのは、後にも先にもそれ一度きりである。

次回は第3話「妃たち」です。


【用語解説】

◎大皇弟

天皇の弟。本作では天智天皇の弟大海人皇子を指す。

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