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第1話 憐れな許婚(いいなずけ)

第三章「氷高皇女の逆襲」


この章は、あらすじの※部分をお読みいただき、ご了承の上ご覧ください。

  

  (あられ)降りいたも風吹き寒き()旗野(はたの)()(よひ)我がひとり寝む

                     詠み人知らず


 

 波多(はた)の横山を望んだところで車駕が止まった。数多の者を従え後に続く豪奢な輿が物々しい。あからさまにその威光を誇示しているかのようだ。

 そのとき、中でもひときわ輝く眩い光が、数ある奢侈な輿のひとつから漏れ()でた。

「伊勢にはまだ着かぬのか」

「今少しにございます」

 侍女(まかたち)()(ぶきの)()()がその光——ひめみこの白く細い指を取る。(くも)()川の畔へと歩み寄る玲瓏な物腰は、とても13歳になったばかりとは思えない。

「お祖母(ばあ)さまはなにゆえこうも行幸(みゆき)を繰り返されるのだ」

 ぱしゃり……と、ひめみこが流れに掌を浸す。晩春の水は冷たくも爽やかだ。気持ち良さげだが、しかし彼女は柳眉を歪めた。

「こう、年に幾度も付き合わされるのではたまったものではない」

皇女(ひめみこ)さま、お口が過ぎます。お控えなされませ」

 確かに近年、幾度となく吉野行幸が繰り返されていた。特に此度の伊勢行幸は農繁期と重なり、刈り入れ作業の妨げとなっている。だが、事態を憂慮した中納言大三輪高市麻呂が諫言するもまったく聞き入れられず、行幸は強行されたのだ。高市麻呂はそれに抗議するかのように職を辞してしまった。壬申の乱の功臣を失ってまでも続ける行幸の意味とは何なのか。

「愚かな戦を繰り返さぬためにございます」

 吉野行幸は忌まわしい戦の記憶を諸臣に忘れさせぬため、伊勢行幸は壬申の乱の折に勲功があった者たちへの労いの意味がある、と吹芡は諭す。

 聞いているのかいないのか、ひめみこは川の流れを遮るかのように両手をぱしゃぱしゃと泳がせている。真の悩みはどこか違うところにあるようだ。

(なが)屋皇(やのみ)()とはどのような男なのだろう……」

 不意にぽつりと漏らす。最後に会ったのは3年前。父草壁皇太子薨去の(もがり)だ。そのときは父を亡くした悲しみがいっぱいで会ったことすら憶えていない。それから一度も会ってはいない。母親同士は同母の姉妹だというのに、それまでもほとんど顔を合わせることはなかった。そもそも幼児の記憶は心許ない。成長すれば顔貌も変わる。彼女にとっては初対面と言っても過言ではない、見ず知らずに等しい4つ年上の従兄(いとこ)である。

「詳しくは存じ上げませぬが、噂ではそのお振る舞いは……」

「その振る舞いは? どうなのだ?」

 ひめみこが食い気味に顔を向ける。美しいかんばせにどきりとしながら吹芡刀自はその名を告げた。

「大津皇子さまにとてもよく似ておいでだとか」

 ひめみこはがっくりと肩を落とした。

「ならばいずれお祖母さまに殺されてしまうな」

「皇女さま」

 眉を逆立て、吹芡がにらみつける。彼女はすぐに周りをきょろきょろと見回した。ひめみこの祖母宮や母宮たちは、少し離れた木陰で休んでいる。吹芡はほっと胸を撫で下ろしたが、ひめみこは彼女にかまわず続けた。

「お祖母さまは、気に入らぬ者はみな亡き者にしてしまうのだ」

「滅多なことをおっしゃるものではありませぬ」

「知らぬのか? 皆が噂しておるぞ。昨年、川島皇子が(みまか)ったのはお祖母さまの逆鱗に触れたからだと」

 さすがに最後は声を潜めた。愛孫といえども祖母は怖いらしい。

「根も葉もない噂にございます」

 ひめみこだけではない。祖母は周囲の誰からも畏れられていた。吹芡の蒼褪めた顔を見てひめみこがくすくすと笑いだす。吹芡は顔色を青から赤に変えて動揺を静めた。

「ご心配には及びませぬ。このご縁組は亡き御父宮(おんちちみや)()(なみしの)皇子(みこ)さまのお遺しになられたお話にございますれば、いかに天皇(すめらみこと)といえども長屋さまを(ないがし)ろにされることはございませぬ」

 吹芡は祖母のことを「天皇」と呼んだ。吹芡だけではない。周りの侍女は皆祖母のことを「天皇」と呼ぶ。ひめみこはこれがいつも不思議でならなかった。

「なにゆえおまえたちはお祖母さまを“すめらみこと”と呼ぶのだ?」

「何を仰せです。天皇はご即位あそばされておられるのですよ」

「しかし……」

「さぁ、そろそろ輿に戻らねば遅うなってしまいます。明後日には嗚呼見(あみ)まで行かねばなりませぬゆえ」

 大事なところで彼女はいつもはぐらかす。桜色の頬をほんの少しふくらませ、ひめみこはふたたび輿に乗り込んだ。

「長屋皇子……、憐れな男だ。間もなく殺されるとも知らずに……」

 よく知らぬ許婚(いいなずけ)に思いを馳せ、ひめみこは独り言とともに溜め息を吐いた。




「嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか……」

 (りゅう)(がい)の池を見つめ、柿本人麻呂が口ずさむ。その昔、僧()(えん)が法力にて龍を閉じ込めたと云われる池。その印象は乙女らの裳裾に絡みつく嗚呼見の潮とは程遠い。

「独り言か?」

「歌だよ。わからないの? 不比等はまったく風情がないなぁ」

「風情がなくて悪かったな」

 涼しい顔で藤原不比等が並ぶ。

「人麻呂、そなた、本当は伊勢へお供したかったのではないのか?」

「私? 私は留守居役で助かったと思っているよ。こんなに羽を伸ばせたのは何年振りだろう」

 うーん、と両手を広げ、人麻呂は思い切り深呼吸をしてみせた。

「せっかくだからこの隙に天皇の御機嫌伺にでも参ってこようかな」

「伊勢まで行くのか?」

「いや、(きよ)()原宮(はらのみや)だ」

 互いに顔を見合わせ怪訝に眉を顰める。

「天皇は今、伊勢へ行幸されておる」

「天皇は今、飛鳥浄御原宮におわします」

 不比等は天を仰ぎ、人麻呂は欄干に額を押し付けた。

「ややこしいな。昔の呼び方で区別しよう」

 人麻呂の提案に不比等は渋々応じた。

皇太后(おおきさき)さまは我が藤原の邸にて即位の儀をいたされておる」

「でも高市(たけち)皇子さまは先天皇(さきのすめらみこと)より御位を譲られているよ」

 先天皇天武が大津皇子ではなく高市皇子を選んだのは、皇后鸕野讃良との無駄な衝突を避けるがためであったろう。

「高市さまは日並皇子さまがご即位あそばされるまでの(なかつ)天皇(すめらみこと)だ。正式には認められていない」

「でもその日並皇子さまが(みまか)ってしまわれたのだから高市さまは玉座を降りるわけにはいかなくなってしまわれた」

「だから皇太后さまが代わりに称制を……」

「それって先天皇の遺詔? まさか日並皇子さまのご遺言じゃないよね? 即位の儀だって神器は三種全部そろっていなかったって話じゃないか」

「……」

 不比等が黙る。人麻呂はすかさず畳みかけた。

宮殿(みあらか)は飛鳥浄御原宮だ。この岡宮(おかのみや)じゃない」

 つまり、公には飛鳥浄御原宮に在所している高市が天皇であり、岡宮に逼塞している鸕野(うの)(のさら)()皇太后は天皇と認められていない、ということだ。

「いや、しかし……」

「はい、そこまで。私はね、不比等とつまらぬことで喧嘩したくないんだよ」

 ぱんっと手を叩き、人麻呂は目を閉じた。だが不比等は食い下がる。

「つまらぬこととはなんだ。これは皇統(すめろぎ)に関わる重大な案件だぞ」

「だからこそ、日並皇子さまは愛娘の氷高皇女さまを長屋皇子さまのお妃にと言い遺されたのではないのかな」

 人麻呂は目を開け、不比等の眼をじっと見据えた。不比等がふたたび黙る。これを言われては口が達者な彼も返す言葉がない。

 人麻呂が、日並皇子こと草壁皇太子から「愛娘氷高皇女を長屋皇子の妃に」という秘めたる思いを明かされたのは6年前、春日野へ旅立つ大名児を見送った際のことだ。そのときはまだ内密の話であった。まさかそれから3年も経たぬうちに草壁がこの世を去ることになろうとは、当の本人ですら、このとき思いもよらなかっただろう。

「日並皇子さまはなにゆえ氷高さまを長屋さまのお妃にとお考えあそばされたのだろうな?」

 不比等が腕を組んで首を捻る。人麻呂は袖で口元を隠し、肩を震わせ笑った。

「遅く来た反抗期とか? あ、それともただの嫌がらせだったりして」

 大津皇子を彷彿とさせる長屋皇子に愛する孫娘氷高皇女を嫁がせるとなれば、鸕野讃良が難色を示すに決まっている。それゆえ草壁は、機が熟すまで内密にせよと人麻呂に釘を刺したのだ。

「日並皇子さまは長屋さまにご譲位なされるおつもりだったのだろうか」

 首を捻ったまま不比等が呟く。人麻呂も首を捻った。

「さぁ……? もしかしたら、色んな種を蒔いておきたかったのかもしれないね」

「色んな種?」

「さぁ?」

 人麻呂は含みを持たせた笑顔で水面に映った蒼穹を見た。草壁の高貴な横顔を思い出す。凡庸だ暗愚だなどと陰口をたたかれ、挙句に天子の器ではないとまで揶揄されていた草壁だが、その瞳はすべてを余すところなく見据えていた。父天武の寿命、母鸕野讃良の政治的手腕、近江の残党の脅威……。今国を治めるべきは誰なのか、その時その時の最適解を弾き出していたのは天皇でも皇后でもなく、草壁であったかもしれない。

 その彼を突き動かしたのは、異母弟大津皇子に対する悔恨だ。大津を救えなかった自責の念が、高市・長屋親子だけはなんとしてでも守らねばという決意を生んだのだ。大津への償いの意を込め、あらゆる方向に可能性という種を蒔いて逝った草壁の執念を、人麻呂はあらためて尊びたいと思うのである。

「たとえ不比等といえども、この縁組だけは邪魔はさせないよ」

 珍しく強い瞳を向ける人麻呂にたじろぎつつも、不比等は静かに言い切った。

「私は天皇の命に従うまでだ」

「どっちの?」

「言わずもがなだ。そなたとて今は岡宮の舎人なのだぞ。それを忘れるな」

 不比等は、これと決めたら簡単に信念を曲げるような男ではない。人麻呂もそれは良く知っている。彼はにっこりと頷いた。不比等も頷く。仕える相手と信奉する相手は違っていい。ふたりの方針は妙なところで一致した。

 放ち鳥が羽音を立て、水飛沫(しぶき)を上げる。ふたりは北へ飛び立つ彼らを眩し気に見送った。

次回は第2話「良き男」です。


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