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第9話 二上山惜別

 どこからともなく鴨が飛んできた。大名児の肩をかすめた鴨は、飛沫(しぶき)を上げて磐余(いわれ)の池に降り立った。そこへもう一羽の鴨がやってくる。つがいだろうか。彼らは寄り添い、池を優雅に泳いでゆく。

 大名児は従者と離れ、ひとり磐余の池辺に立った。

 やはり本妻には勝てなかった——。池辺に立ち尽くし、つがいの鴨を見つめる。山辺皇女は夫大津皇子に殉死することで正妃としての存在感を世に知らしめたのだ。

 ——私も大津さまのお側に参りたい。

 大津は自分を離したくないと言ってくれた。ともにいると、愛していると言ってくれた。ならばあの世に逝けば一緒にいられるではないか。

 池の中程をじっと見つめる。さっきまで空の青さを映していた水面が、不思議と山吹色に輝いている。まるで()(がね)(いろ)の泉が手招きしているみたいだ。

 ぽちゃり……。片足を池に入れる。無意識だ。だが、刺すような冷たさに足が止まった。自分は死ぬ勇気もないのか。首を激しく横に振る。最愛の破片を失った今、もうこの世を生きる甲斐もない。そうだ、逝かなければ。この世に心を埋める破片はない。この破片がなければ自分は不完全のままだ。完全なる形を取り戻すには、あの破片が必要なのだ。大津皇子という破片が。

 大名児はもう片方の足を水の中に入れた。やはり突き刺すような冷たさが全身を襲う。だが、もう迷いはない。完全なる形を取り戻すため、一歩、また一歩と水中を進んでいった。

 と、そのときだ。

「なにゆえ!」

 細い指からは想像もつかないほどの力が大名児の腕をぐいと引き戻した。咄嗟に振り返る。見れば、高貴な衣装を身にまとった(にょ)(しょう)が憂えた瞳を向けていた。

 ずるずると引き摺り上げられるまま、大名児は力なく池の畔へと倒れ込んだ。

大伯(おおく)さま……?」

 驚きの(まなこ)を見開く。その女性は大伯皇女——大津の実姉であった。

「大伯さま、伊勢におられたのでは……?」

 気づくと大伯の従者たちに囲まれていた。実弟大津の賜死によって彼女が斎宮の任を解かれたことはすぐさま察せられた。

 大伯の顔を見つめる。憂いの瞳はいつしか怒りに変わっていた。大伯が逆に問い返す。

「なにゆえじゃ?」

 大伯の鬼気迫る形相に大名児は言葉を失った。

「なにゆえ死に急ぐのじゃ。十市皇女さまも、山辺皇女も、なにゆえ死に急ぐ……」

 その眼差しは大名児の身体を通り抜け、(ふた)上山(かみやま)の雄岳をとらえている。大津が葬られた山頂を見つめるうちに、彼女の瞳からはいつしか怒りの色は消え、それはふたたび悲哀を濃くしていった。

 現世(うつそみ)にある自分はもう、あの二上山を弟として見つめるしかない——。

「……君もあらなくに……何しか来けむ……」

 何事かをぶつぶつと呟きながら、大伯がゆらりと立ち上がる。瞳に憂いを浮かべたまま疲れた駒に乗り、彼女は従者らとともに訳語田(おさだ)宮へと向かった。

 なぜ帰ってきてしまったのだろう。弟もいないというのに、なぜ自分は(みやこ)に、弟のいない磐余に帰ってきてしまったのか。

 哀傷(かな)しいほどの寂寞が大伯の全身から溢れ流れてくる。大名児は茫然自失としてその背中を見つめた。見つめながら、しばしの間放心していた。

 ——どうして死なせてくれないの。

 あのまま山吹の泉にこの身を沈めることができたなら、黄泉(よもつ)平坂(ひらさか)を越えて()()(のをの)(みこと)の支配する根の国へ()き、そして大津とともに……。

 そのとき背後の気配に、はっと我に返った。

「春日野まで送ってゆこう」

 その人はおもむろにしゃがみ込むと、大名児の濡れた裳裾をぎゅううと固く(しぼ)り上げた。

「安麻呂さま……」

 大伴安麻呂は柿本人麻呂に頼まれて大名児の後を追ってきたのだ。

「従者がおりますゆえ無用にございます」

「送ってゆく」

 安麻呂は無理やり彼女を抱き上げ、駒に乗せた。




 大名児は放心状態を引きずったまま駒に揺られていた。無言で二上山を見つめる彼女に、安麻呂が声をかける。

「あのときはすまなかった」

 嶋宮に踏み込み、大津を捕らえた安麻呂は皇太后鸕野讃良の命に従ったまでだ。謝罪する道理はない。だが大名児は返す言葉が見つからず、顔を左右に振るばかりだった。

 安麻呂は気を取り直し、話題を変えた。

「そなたが但馬(たじま)からやってきたときは驚いた」

 彼はぽつり、ぽつりとそのときの心境を語りはじめた。

「但馬へ配された表米(うわよね)さまが石川麻呂さまの媛を娶られ、お子がお生まれになったというのは風の便りに聞いていた。しかし、まさかその娘御に(まみ)えることができようとは夢にも思わなんだゆえな」

 嬉しそうに笑う。

「これほど(まばゆ)女性(にょしょう)に成長していたとはな、いやはや恐れ入ったぞ」

 おだてられても大名児は、ひとつも表情を変えない。黙って二上山を見つめている。視線を二上山の雄岳山頂から離さぬまま、彼女もまた思い出していた。

 国を二分した戦い——壬申の乱が終わり、(みやこ)がふたたび飛鳥に舞い戻ったと知った幼き日のことは今でも鮮明に憶えている。但馬国から大和国へ向かう旅路は難儀であった。それでも亡き祖父蘇我倉山田石川麻呂の山田寺を詣でたい、飛ぶ鳥の明日香の里を一目見たい、ただその一心で、わずかな供とともに寧楽(なら)山を越えたのだ。

 一行は無事大和国に辿り着いた。その直後、山田寺で何の因果か祖父石川麻呂の法会に訪れていた鸕野讃良皇后と出会い、宮人として仕えることとなる。しかし夢にまで見た華の宮殿(みあらか)は、血で血を洗う醜い伏魔殿だった。裏切り、見栄の張り合い、足の引っ張り合い……。女が多数寄れば醜い争いは自ずと生ずる。特に天皇の寵を得んとする競い合いは熾烈を極め、心を粉々に打ち砕いた。

 そんな宮仕えの日々に嫌気がさしていた折に出会ったのが大津皇子だ。鸕野讃良から父母の不遇を聞かされるたびに膨れ上がる憎悪の念。元凶は蘇我赤兄だ。憎悪は山辺皇女に向けられ、命じられるがまま大津に近づいた。

 それなのに——。

 ——あのお方は純粋に私を愛してくださった。

 打ち砕かれた心の隙間に突如として射し込んだ一筋の光。一度だけ、もう一度だけと会うたびに、砕け散った破片がひとつずつ集められてゆくような不思議な感覚にとらわれていった。

 はらり……無意識に涙が零れ落ちる。それに気づいた安麻呂が駒を止めた。

「つらいことを思い出させてしまったようだ。すまぬ。許してくれ」

 大名児は涙を拭った袖を見た。どんなに泣こうとも涙を拭ってくれるやさしい手はもう、この世にない。憎悪を生んだこの宿命が恨めしい。

「そなたの祖父君は今際(いまわのきわ)におっしゃられたそうだ。生生(しょうじょう)世世(せぜ)けして我が君を恨むことはせぬ、と」

 安麻呂の言葉が重く響く。蘇我倉山田石川麻呂は、生まれ変わっても天皇を恨まないと言い遺したという。大津も「誰も恨むな」と言い遺して逝った。それは、己の宿命をも恨むなという意味も含むのだろうか。

 大名児はしばしうつむいたあと、おもむろに顔を上げた。

「教えてくださいませ。父の幼き日のことを」

  わずかでも光が欲しかったのかもしれない。その意を汲んだようにふたたびゆっくりと駒を進め、安麻呂は表米皇子との思い出話を語ってくれた。ときに大袈裟に、ときに面白可笑しく。話術巧みな安麻呂の語り口に、大名児はいつしか惹き込まれていた。

 ほんの少し、心が和む。それを見計らい、安麻呂は唐突に切り出した。

「ところで、わしの妻になるという話、考えておいてくれたか?」

 大名児はびっくりしたように息を呑み、溜め息をついた。大津のことは生涯忘れることはない。安麻呂の妻になるなど、そんなことを考える余地はないのだ。

「申し上げたはずです。気の利いた歌をいただけたら、と」

 ぐぬぬ……と安麻呂はしかめ面をして顎に手を当てた。うーん、うーん、と歩きながら唸っている。

「無理をなさらずともよいのですよ」

「いや、待て。今少し、今少し時をくれ」

 安麻呂があきらめる気配はない。大名児は黙って駒に揺られながら、西に連なる山々を眺めた。たたなづく青垣は冬の澄み切った空気に洗われて、より一層麗しく鮮やかに輝いている。右の端に見える二上山も……。

 安倍(あべ)寺を過ぎたころ、三輪山の神々しさに目を細めていた安麻呂がいきなり詠いだした。

(かむ)()にも手は()るというをうつたえに人妻といえば触れぬものかも」

 人妻じゃ無理かなぁ、どうにか触れることはできぬものか、いや、やはり人妻は駄目だよな、神罰が下ってしまうもんな……。

「どうじゃ? 我ながら良い出来だと思うがな」

 大名児は、今度は大きく息を吐きだした。

「私のどこがそんなによろしいのですか? 人のものは良く見えるとは聞きますが、私はもう誰のものでもございませぬ」

「誰のものでもないのならわしのものになれ」

「私はあなたさまが思うような良き女ではございませぬ。私は不完全な人間なのです」

「人は誰も皆、不完全なものだ。わしもな。それでもこうして明るく生きておる」

 わははは!と安麻呂は豪快に笑った。大名児も思わずつられて笑みを零した。

 不完全のまま生きながらえるのが、自分にできる最大の償いなのかもしれない。人を恨み、呪えばいつか必ず跳ね返ってくる。それも覚悟の上で復讐を誓ったというのに、最愛の人を失ったことで、それがどれほど愚かなことか気づかされたのだ。

「返し歌は考えておきますわ」

 いつになるかはわかりませぬが、と付け加えるのも忘れない。安麻呂はがっくりと肩を落とした。

 大名児はそっと微笑んで、藤井が原を振り返った。香具山・耳成(みみなし)山・畝傍(うねび)山の大和三山に囲まれた、今は何もない草原に、新しい息吹が(めば)えようとしている。

 ——新しさ(みちあふ)れる京に(うつ)られたら戻ってこよう。

 最愛の破片を失ったまま自分が生きる場所は但馬国ではなく、ここしかない。贖罪が赦されるとするならば、このまほろばを置いてほかにはないのだから。

 飛鳥を背にして駒が歩みを進める。不完全な心を抱えつつもまっすぐ前を見定め、大名児は安麻呂とともに春日野を目指していった。




(第二章「大津皇子の抵抗」終わり)

次回から第三章「氷高皇女の逆襲」に入ります。

第1話は「憐れな許婚いいなずけ」です。


★僭越ながら、評価ポイント・感想・ブックマーク等いただけましたらありがたく存じます。どうぞよろしくお願いいたします。


【ご注意ください】

第三章は、以前に上梓した拙作『語る木簡』(主人公:長屋王)のアナザーストーリーとなります。『語る木簡』をお読みいただかなくても差し支えのない内容となっておりますが、念の為お知らせいたします。尚、『語る木簡』は違う筆名を使用しております。こちらでは非公表にしておりますので、ご興味ある方はメッセージにてお問い合わせください。

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