第8話 賜死
風が凪んだ。雲がふたたび闇夜を描く。松明を掲げ嶋宮に踏み込んできた靱負らが、大名児の寝所を取り囲んだ。
「皇子さま、出てこられませ。おいでなのはわかっております。津守連通が占にて事顕われておりますゆえ」
しばしの静寂ののち、真白の袍をきちっと身に着けた大津皇子が御簾内から出てきた。その堂々たる風貌に、靱負らが一瞬怯む。
「捕らえよ!」
大伴安麻呂が声を張り上げる。軍事を司る氏族の代表として指揮を命じられたのだ。彼の声で我に返った靱負が大津に駆け寄った。
「触るな、無礼者! 吾をなんと心得る」
びくりと靱負の足が止まった。
「吾は崩りましし天皇が御子なるぞ。逃げも隠れもいたしはせぬ」
気高く麗しいその立ち居振る舞いに、ひれ伏したくなる衝動に駆られる。それをこらえて安麻呂は大津の前に進み出た。
「皇子さま、ご無礼申し上げました。この大伴宿禰安麻呂がお供つかまつります」
大津はゆっくり頷くと、一切振り返ることなく泰然と安麻呂のあとをついていった。
飛鳥川をも越える広大な敷地に建てられた殿舎。皇太子と諸皇子との違いをまざまざと見せつけられる。その胸中は何を思うのか。大津は表門までの長い回廊をひたすら無言で歩いてゆく。
ふと勾の池を横に望んだとき、玉砂利を踏む沓音が聴こえた。柱の陰から姿を現したのは柿本人麻呂だ。彼が目配せをすると安麻呂は立ち止まり、やや離れたところで待機した。
人麻呂がやおら頭を垂れる。大津は超然と詠いだした。
「大船の津守が占に告らむとはまさしに知りて我がふたり寝し」
にやりと笑う。叔母鸕野讃良に疎まれていることは知っていた。知っていて故意に石川麻呂の血を引かない皇女を娶り、皇太子の愛妾を寝取った。そして鸕野讃良がこの日を待ち望んでいたことも、すべては承知の上での振る舞いだ。鸕野讃良におもねるなど、大津の矜持が許さなかったのだ。
「なんと見事な御歌にございましょう。この人麻呂、参りましてございます」
人麻呂も笑顔を見せると、懐から1枚の木簡を取り出した。
「お渡しが遅くなりまして申し訳ございませぬ」
「わざとだろ」
人麻呂は、ふたりが会えばこうなることがわかっていた。だから逢引きさせないよう大名児の返歌を届けなかったのだ。だが、それは徒労に終わった。ふたりの愛は人麻呂の目論見を遥かに超えた高みにあり、互いを引き寄せ合ったのである。
黙って微笑む人麻呂を横目に、大津は木簡を懐に仕舞った。内衣の奥の素肌はまだ涙に濡れている。それはあしひきの山の雫よりも温かく清らかだ。これがいつまでも乾かぬことを願いながら彼は……。
爽やかな笑顔を残しつつ、ふたたび歩き出す。その従容たる背中を目にしたとき、人麻呂は不覚にも落涙した。
——間に合わなかった……
彼はその場に額づいたまま、夜が明けるまで動くことはなかった。
大津皇子の謀反が発覚したのは翌月2日のことだった。
巷では、大津の親友川島皇子の密告によるものだとの噂がまことしやかに流れたが、真相はわからない。当の川島が黙秘を貫いていたからだ。
そうでなくとも大津には逃れようのない罪があった。これより前に、伊勢斎宮の実姉大伯皇女の元へ竊かに下向していたのである。神に仕える身である斎宮は、俗世の男子との接触を固く禁じられている。禁忌を犯した罪と、殯の最中に皇太子の愛妾を竊かに婚いした罪のみならず、謀反まで露見したとなれば極刑は免れようもなかった。
翌3日、大津皇子、磐余訳語田宮にて賜死。享年24歳。天武天皇の崩御からわずかひと月足らずのことだった。
正妃の山辺皇女は髪を振り乱し、裸足のまま奔り赴きて殉死した。その姿はあまりにも憐れで見るに忍びなく、皆袖を濡らし嘆き悲しんだという。
謀反に加担したとして逮捕されたのは直広肆八口朝臣音橿・小山下壱伎連博徳・大舎人中臣(藤原)朝臣意美麻呂・巨勢朝臣多益須など三十余名。そのうち罰を下されたのは、伊豆へ配流された帳内礪杵道作のみ。新羅の沙門行心は飛騨国の寺へと移されたが、あとの者は大津に欺かれたとして皆赦免となった。
これがすべて皇太后鸕野讃良の思惑通りなのかは知る由もない。知ったところで大津が帰ってくることは二度とないのだから。
「本当に行ってしまうの?」
春日野へ旅立つ大名児を、柿本人麻呂が見送る。大津皇子が薨じてひと月半、11月の半ばを過ぎた頃のことだ。
「私は罪人ですもの」
「そなたは皇太后さまの命に従っただけで、罪に問われたわけじゃない」
大名児は大きく顔を横に振った。復讐は自分の意志だ。自分の愚かな思考のせいで大津と山辺皇女を死に追いやったことは紛れもない事実なのだ。自分にこの飛鳥にいる資格はない。
大名児の裳裾を寒風がなびかせる。それを目にしながら人麻呂は躊躇いがちに告げた。
「こんなときに言うのもなんだけど、皇太子さまのことも忘れないで差し上げておくれ」
「ええ、もちろんですわ」
はっきりとした口調で答える大名児の笑顔に嘘偽りはなかった。
——束の間も忘れないよ……
草壁皇太子の穏やかな声が思い出される。今となっては遅きに失したかもしれないが、それでも彼の真の愛情に気づけたことはせめてもの救いだ。
「色々とお世話になりました」
「道中、気をつけてね」
「人麻呂さまもお身体お大切に」
「うん、そなたもね」
別れの挨拶に多くの言葉はいらない。凛とした中にも儚げな翳を含んだ背中を見つめる。手を振る人麻呂の横に、ひとつの貴い影が並んだ。
「行ったか?」
「まだ間に合いますよ。呼び戻しましょうか?」
ふっ……と寂し気に吐息を漏らし、草壁は首を横に振った。
「私もまた罪人だ」
この年齢になってもまだ母親の言いなりになっている。母親を恐れ、大津の盾になってやることができなかった。自分の存在こそが大津を苦しめていたというのに。
「ご自分を責められますな。仲天皇の高市さまでも庇うことはおできになれなかったのですから」
人麻呂の言葉に頷きながら、小さくなってゆく大名児の背中に懺悔の眼差しを向ける。
「なんと言えば引き留めることができたのだろうな? 言葉選びの下手な私は迷うばかりで何も思いつかなかった」
「皇太子さまばかりではございませぬ。この卑しき歌詠みも、言葉を前にしていつも迷っております」
それを聞いて草壁はようやく表情を和らげた。
「おまえも嶋宮を出ていきたいのではないのか?」
「なにを仰せです。私はどこへも参りませんよ」
「忌憚なく申しても良いのだ。本当はあそこへ行きたいのであろう?」
草壁が望んだ方角を見て、人麻呂はぎくりとした。草壁の視線の彼方には大和三山のひとつ、香具山がそびえ立つ。夏が来れば神々が白栲の衣を干すという天の香具山。その麓には高市皇子の香具山宮がある。
人麻呂はまいったというふうに額に手をやった。この御子はまことに人の機微を敏感に察する能力に長けている。生まれついてのやさしさがそうさせるのだろうか。
「ここだけの話だが、」
と、前置きして草壁が切り出す。人麻呂は手を外し、高貴な横顔を見た。
「いずれ氷高を香具山宮へやろうと思うておる」
氷高皇女は草壁の第一皇女だ。幼少にしてすでに美貌の誉れ高い愛娘を高市の元へ送るというのか。まさか高市の妃にとは思えない。となれば彼女に相応しい相手は——。
——長屋王さま!
その名が脳裏に浮かび上がった瞬間、人麻呂の鼓動が一気に躍り出した。期待に満ち満ちた瞳はきらきらと輝いている。その様子に草壁は苦笑いした。
「皇太后にはまだ内緒だぞ。知れたら異母兄上のお命まで危うくなってしまうからな」
「はっ……、それは困ります。心しておかねば」
草壁の狙いは高市・長屋親子を守ることにあるのだろう。鸕野讃良も愛孫氷高の嫁ぎ先ならば迂闊に手出しはできまい。草壁からは、大津の二の舞だけはなんとしてでも避けるのだという堅固な意志が伝わってくる。
この御子、なかなかの策士やもしれぬ、と人麻呂はほくそ笑んだ。
長屋王はどこか大津皇子を彷彿とさせる。まだ十歳を過ぎたばかりではあるが才気に溢れ、物怖じしない堂々たる風姿が周囲の心を惹きつけてやまなかった。しかし彼ならば大津と違って命永らえ、政界でひと暴れしてくれそうな予感がする。藤原不比等などは彼を相手に苦戦するかもしれない。不比等の戸惑う顔を想像しただけでもわくわくする。
「随分と楽しそうだな、人麻呂。そなた、氷高の輿入れについてゆくか?」
「ううむ、これは歌を詠むより難儀な迷いにございますねぇ」
大真面目に腕を組む人麻呂の姿に、草壁は思わず吹き出した。が、すぐに慌てて口元を隠す。
「おっと、まだ殯の最中なのに不謹慎であったな。どうも私は深慮が足らぬらしい。まこと皇太后の子なのかと疑いたくなる」
そのようなことはございませぬ、といった表情で人麻呂が首を横に振る。草壁の視線はふたたび大名児の去っていった道に向けられた。
「あとを追うなどという愚かなことをせねばよいが」
春日野へ行くには磐余を通る。草壁の瞳は不安げだ。
「ご案じ召されますな。すでに手は打っておりますれば」
にっこり微笑む人麻呂の表情が、草壁を安堵へと導いた。
次回は第9話「二上山惜別」です。




