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第7話 皇太后の罠

 諸皇子及び舎人らの大半が殯宮に滞在する一方、すべからく嶋宮も閑散としていた。静謐な回廊に冷たい夜風が通り抜けてゆく。だが、寝所の御簾を揺らしたのは夜風ではなかった。

 大名児は息を呑んだ。射干玉の闇を背負い、黒い影が忍び寄ってくる。かと思うと、あっという間に褥に滑り込み、大名児の細い身体を包み込んでしまった。

 大津さま……と言おうとしたときにはすでにその口は、彼の唇によって塞がれていた。意に反して全身の力が抜けてゆく。大名児は身も心も、すべてを彼にあずけた。

 晩秋の夜風が雲を洗い流してゆく。すべての雲が取れるまでどれくらいの時を要するのか。のろのろと流れる雲は、ふたりに猶予を与えているようでもあった。

 やがて新月が生み出す闇に星たちが瞬き出した。そのせいなのか、闇夜だというのに紅潮した柔肌はいつになく輝いて見える。

「俺を(たばか)ったな」

 火照った身体を大きく広げ、大津はごろりと仰向けになった。まだ荒い呼吸を整えようともしない。

「おまえの父親がわかった」

 左腕に乗せた大名児の顔を見る。揺れる燭台の灯りではその表情はつかめない。だが、何度も繰り返される深呼吸と、左半身に貼りつく産毛からその感情は読み取れた。

「何も言わないのか?」

 大名児は黙ったままだ。大津は落ち着きかけた息を天井に向けて大きく吐き出した。

「言わないなら俺が言ってやる。おまえの父親は表米(うわよね)皇子だ。難波の天皇(すめらみこと)の御子、いや有間皇子の弟と言ったほうが話が早いか」

 産毛がざわついたのがわかった。さらに続ける。

「なんでおまえが俺に近づいたのかもわかったよ。おまえの狙いは俺じゃない。俺の妃山辺皇女だ」

 微笑とともに大名児が大きくひとつ吐息を漏らす。だが彼女はまだ何も言わない。

「いや、正しくは蘇我赤兄の血筋、だな」

 そこでようやくゆっくりと起き上がった。微笑を浮かべたまま衣を肩にかけ、格子越しに瞬く星を望む。

 有間皇子は謀反の(かど)で刑死した。父孝徳天皇崩後、(せん)()した斉明天皇に対する謀反の嫌疑をかけられたのだ。有間は紀国(きのくに)藤白の坂で絞首刑に処された。享年19歳。謀反の計画から発覚、そして処刑まで10日もかからなかったことから、有間は()められたのではないかとの疑惑も生じた。だが当時の皇太子中大兄を恐れ、疑念を口にする者はいなかった。

「有間さまは(そそのか)されたのです。唆したのは蘇我赤兄。すべては赤兄の策略だったのです」

 蘇我赤兄が有間に謀反を勧めた2日後、有間は赤兄邸にいた。そこで謀議を重ねている最中、突如有間のもたれていた(しょう)()が折れたという。これを不吉の前兆として一旦は(はかりごと)を中止した。赤兄が()(こま)に向かったのはその晩のこと。彼は反旗を翻して兵を率い、有間の生駒(いち)()(のみや)を囲んだのである。

 堰を切ったように大名児が怒りを吐き出した。

「藤白の坂で問いただされたとき、有間さまはこうおっしゃられたそうです。(あめ)と赤兄と知らむ、(おのれ)(もは)()らず、と。赤兄は裏切ったのではありませぬ。初めから有間さまを陥れる計りだったのです」

 有間の最期は当時の誰もが知る通りだ。連座の次弟は僧として入唐させられ、末弟の表米は皇子の身分を剥奪され但馬国へ配流となった。幼い兄弟にも情け容赦なかったのは、中大兄の判断によるものだろう。冷酷な彼らしいやり口だ。

「お祖父(じい)さまが……?」

 大津は目を丸くして起き上がった。

「おそらく赤兄に命じたのは中大兄さま——先天皇(さきのすめらみこと)(天智天皇)でしょう。日嗣の地位を脅かす有間さまが邪魔になったのです」

 祖父中大兄に愛された大津は彼の裏の顔を知らない。一方、邪魔者はすべて消すという中大兄の徹底した冷徹ぶりを、大名児は母親から聞かされて育った。そのことがふたりの間に微妙なずれを生じさせたようだ。

「父表米は皇族に戻ることも都に帰ることも(ゆる)されず(ひな)に置かれたまま、私の顔を見ることなく()(まか)りました」

「だから、お祖父さまと赤兄の両方の血を引く山辺を憎んだのか」

 大名児は涙を堪えるように唇を噛みしめたまま、大津の問いには答えなかった。その場に不穏な空気が流れた。




 柿本人麻呂は川島皇子を誘い、南庭の人目に付かない(つが)の木の下へと移動していた。天皇家の系譜や有間皇子事件について確かめながら、時間をかけ、詳細に(ひもと)いてゆく。するとあるとき、じっくりと耳を傾けていた人麻呂の驚きに満ちた顔が、遠くで揺れる篝火に照らされた。

「表米皇子の母親が蘇我倉山田石川麻呂の媛ですと?」

 石川麻呂は娘たちを入内させていた。孝徳天皇に1人、中大兄皇子には2人。川島は、孝徳の妃となった()(のいらつめ)が表米皇子の母親ではないかと推測する。有間皇子の母親は阿部(くら)(はし)麻呂(まろ)の娘()(たらし)(ひめ)だ。兄弟の年齢差からして、そう考えるのが妥当だろう。それには人麻呂も頷けた。

「なるほど、皇太后(おおきさき)さまが大名児を利用するわけだ」

 石川麻呂の血を色濃く受け継ぐ大名児ならば、同じ石川麻呂の血を引く鸕野讃良に共鳴できるだろう。鸕野讃良が赤兄を憎んでいるなどというのは真っ赤な嘘だ。だが、大名児には赤兄を憎む明確な理由がある。鸕野讃良はその大名児を利用するために詭弁を使ったのだ。

「なんのために石川郎女を利用するのだ?」

 川島が首を傾げる。

「それはもちろん……」

 大津皇子を陥れるため、そう言いかけたところで人麻呂の口が止まった。彼の視線がある男に釘付けになる。

「あれは……」

 日も落ちきった南庭の、殯宮に入っていくひとりの不審な男に川島も気づいた。

「あれは()(もりの)(むらじ)(とおる)ではないか。あの者がなぜ殯宮に?」

 津守連通は(うら)()だ。人麻呂はその男のことがやけに気になった。殯宮には皇太后と皇太子が常時滞在している。唇に拳を押し当てしばし考え込んだあと、ほどなくして彼ははっと顔を上げた。

「大津さまはいずこ」

「嶋宮だ。止めるのも聞かず、石川郎女に()いに行ってしまった」

 途端に人麻呂をざわざわととてつもない胸騒ぎが襲った。

 ——しまった、皇太后さまの罠だ! 私としたことが……

 人麻呂は踵を返し、嶋宮へと急いだ。




 辛い過去が甦り、瞳を潤ませる大名児を大津はやさしく抱きしめた。

「粗方はわかった。もういい。この話は(しま)いにしよう」

 大名児の肩を抱いたまま涙を拭ってやる。

「ところで、川原寺で贈った俺の歌になぜ返し歌をくれなかったんだ?」

「えっ? 返し歌は詠みました。てっきり届けていただけたものとばかり……」

「誰に託したんだ?」

「人麻呂さまです」

 まんまとしてやられた……。ふたりは同時に溜め息をついた。と、やはり同時に顔を見合わせ、肩を震わせる。ひとしきりふたりで笑い合った後、大津はふたたび大の字に寝転んだ。

「やっぱり俺とおまえは、元はひとつだったんだな」

 確信したような瞳を投げかける。蘇我の血がふたりを結びつけたのではない。ふたりの結縁が血を引き寄せ合ったのだ。引き裂かれても引き裂かれても引き寄せ合う。ふたりを阻むものはこの世に存在しない。それが今、ようやくわかった気がする。

 大名児も、最後の破片がぴたりとはまったような不思議な感覚にとらわれた。元はひとつだったという大津の言葉が心にじわりじわりと沁み込んでゆく。

 大津は大名児の腰をぐいと引き寄せ、強く抱きしめた。

「このままおまえを離したくない」

「なりませぬ。見つかればお命はありませぬ」

 鸕野讃良の標的が大津だということは最初から気づいていた。だが、そんなことはどうでもよかった。山辺皇女から夫を奪い、復讐を果たせればそれでよかったのだ。それなのに会えば会うほど溺れてゆくこの想いから、藻掻けば藻掻くほど沈んでゆく。気づけばどうにも浮かび上がれなくなっていた。

「さぁ、もう殯宮へお戻りあそばせ」

 だが言葉とは裏腹に、身体は言うことを聞いてくれない。それを知ってか大津も腕を緩めなかった。

「いいや、俺はここにいる」

「いけませぬ。これは皇太后さまの罠です。津守連の占を利用した罠なのです。皇太后さまは初めからすべてをご存じでした。皇太子(ひつぎのみこ)さまも……」

 大名児がそこまで言ったところで大津は遮った。

「罠だろうがかまわない。俺はおまえとともにいる。おまえの傷を癒せるのは俺だけだ」

 その瞬間、大名児の胸の奥から熱い何かが込み上げた。ひりひりと灼けつくような痛み。それは容赦なく彼女の瞳から溢れ出した。

「だめ……お戻りください……ど……うか……」

 (こら)えようにも堪えきれない。とめどなく溢れ流れる涙が大津の胸筋を濡らす。しゃくりあげる大名児の身体を大津は強くやさしく抱きしめた。

「俺が死を賜れば山辺も咎人(とがびと)の妻となる。この飛鳥にはいられなくなるだろう。おまえはそれを望んでいたんじゃないのか?」

 大津の腕の中で大名児は激しく(かぶり)を振った。(むせ)返る涙で言葉にはならなかったが、それでも違う、もう復讐などどうでもいい、あなたには生きていて欲しいとの願いを強く示したかった。

 その懸命な願いが伝わったのだろうか。大津は目を閉じ、柔らかな吐息を大名児の長い(まつげ)に乗せた。

「わかったよ。殯宮に戻るよ。そのかわりひとつだけ条件がある」

「条件?」

 涙でくしゃくしゃになった顔を上げ、大津を見つめる。彼は瞼を上げ、光る瞳を返した。

「もう復讐はしないと約束しろ。約束してくれたら殯宮に戻る」

 抱きしめた腕を緩めず言い切る。

「もう誰も恨むな。たとえ恨みを晴らしたって心までは晴れない。おまえはそんなことのために生まれてきたんじゃない。おまえは幸せになるために生まれてきたんだ」

 頷くかわりに、治まりかけた大名児の涙がふたたび零れた。大津の指が頬に触れる。

「大名児、愛している」

 彼は大名児の涙を拭いながら、唇を重ね合わせた。すべての破片があるべき場所(ところ)に戻り、完全なるひとつの形となった心を互いに噛みしめる。


 至福の波に揺蕩(たゆた)うこの時間(とき)は、しかし、長くは続かなかった。

次回は第8話「賜死」です。

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