第6話 山の雫に
仏道に帰依する数多の者を得度させた。諸王・諸臣は一丸となり観世音像造営に尽力した。観世音経二百巻を読ませ、百の菩薩像を置きもしたが、それでも天武天皇の病状はいっこうに平癒の兆しを見せなかった。
9月4日、御病平癒誓願のため、川原寺に諸王から諸臣までが皆集う。草壁皇太子の供として大名児ら宮人も帯同していた。
「このごろ会ってくれないんだな」
人目を盗み、大津皇子が大名児の耳元に口を寄せる。甘く艶めく吐息に溶けそうになる心をぐっと堪え、大名児は努めて冷静を装った。
「御病の折なれば」
何ごともなくやり過ごそうと思っていたのは本当だ。だが大津がそれを許さなかった。慣れた手つきで大名児の袖の中に小さな木簡を滑り込ませる。一連の動作を難なく済ませると、彼は何食わぬ顔で通り過ぎていった。
胸が熱い。じりじりと焼けつくような焦熱が瞬く間に全身へ広がってゆく。高鳴る胸を押さえきれず、大名児は伽藍の裏手に走った。呼吸を落ち着かせる間も惜しいくらいに袖から木簡を取り出す。
足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沾 山之四附二
瞼を閉じると眼裏に、びっしょりになって立ち尽くす大津の姿が鮮やかに浮かび上がった。山の雫に濡れるのも厭わず、自分を待ち続ける男に心動かされぬ女がどこにいようか。
大名児は嶋宮へ戻ると矢も楯もたまらず筆を取った。
吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山之四附二 成益物乎
その雫になりたい。あしひきの山の雫となって、あなたのすべてを覆いつくしたい……。
「渡してきてあげようか?」
心の臓が飛び出そうになる。恐る恐る振り返ると、柿本人麻呂が御簾の隙間から顔をのぞかせていた。聞き慣れた声が誰のものかもわからぬほどに無我夢中で歌を記していたことに気づく。
「い、いえ……あの……」
口ごもる大名児にかまわず人麻呂はずかずかと御簾内に踏み込んだ。彼女からふたつの木簡を奪い取り、それらに目を通す。
「ふーん、さすがだね。男は泣いて喜ぶだろう」
技巧もさることながら歌はいかに人の心を打つか、なのだと語る。恋に落ちた女心などはお見通しなのだろうが、責めるでもなく彼は片方の木簡を懐に仕舞った。もう一方を返しながら告げる。
「でも、しばらくは逢えないよ」
おそらく天武はもう長くない。崩御となれば殯がつづく。諸皇子は殯宮に籠りきりになり、ふたりの逢引きはまず不可能だ。
――このまま疎遠になってくれれば……
これが最後の相聞歌となることを願いながら、人麻呂は嶋宮を出ていった。
人麻呂の言葉通り、その晩、あの廃屋に大津がやってくることはなかった。
天武天皇の崩御はその5日後、9月9日のことだ。11日には南庭に殯宮が建てられ、発哀が行なわれた。24日も同じく南庭にて、皆が声を上げ哀惜の意を表した。
事態が動きはじめたのはその日であった。
「機は熟したかと存じます」
誰からともなく切り出された発言に呼応し、参集した者たち一同が大津皇子の顔を見た。その場にいたのは八口音橿・壱伎博徳・藤原意美麻呂・巨勢多益須・行心・礪杵道作ほか数名の帳内。
「殯の最中に事を荒立てたくはない」
大津が眉を顰める。だが、帳内の道作が食い下がった。
「即位の詔が下されてからでは遅うございます」
皇太子の草壁が天皇として認められ、その後に反旗を翻せば謀反人として断罪されてしまう。眉間に畝を作ったまま大津は熟考に熟考を重ねた。機は一度きり、失敗は許されないのだ。愚鈍な草壁ならば、今なら失脚させることが可能かもしれない。しかし草壁側には皇太后となった難敵鸕野讃良がいる。容易に事は運ばないだろう。
「おそれながら、」
大津の決断を待つ者たちの中から、ひとりの沙門が進み出た。新羅の僧行心だ。一同が注視する。彼は緊張の面持ちで告げた。
「高市さまが仲天皇として政を治められるとの噂がございます」
「なに? 異母兄上が仲天皇だと?」
聞き返しながら大津ははっとした顔で眼を見開いた。
――元号を朱鳥に改めたのはそういうことだったのか……
大津の身体に戦慄が走る。相手が英邁な異母兄高市皇子では勝ち目がない。深沈大度の鸕野讃良よりも謹厳実直な高市のほうがある意味厄介だ。
「高市さまならば大津さまを遇してくださるのでは?」
「甘い!」
低く響かせる大津の怒気に、その場にいた者は皆身を強張らせた。
皇女を母に持たない高市といえども、仲天皇ならば諸臣は納得するだろう。その隙に律令を整えられ、草壁が正統な皇位継承者と定められれば、もう自分に打つ手はない。ひとたび草壁に皇位が渡ってしまえば、冷遇されることは火を見るより明らかだ。いや、生き永らえられるならまだましである。しかし——。
一瞬、大津の脳裏に最悪の結末がよぎった。
「おまえたちは高市どのを侮っておる」
苛立つ大津の代わりに口を開いたのは、大津と刎頸の交わりを持つ川島皇子だった。
「大津、今からでも遅くはない。皇太后さまに臣下の礼を取り、皇太子に忠誠を……」
「黙れ!」
大津は先ほどよりも語気を強めて川島を睨みつけた。
「俺の骨法は臣下じゃない。玉座に就けなければ生まれてきた意味がないんだ。そうだな、行心?」
「はい。下位にあらばお命を全うすることはかないませぬ」
行心は言い切った。ほかの皆も一様に頷いた。ただ川島ひとりが歯ぎしりしたまま黙っている。
「川島、俺はそなたとは違う。俺の母宮は先天皇(天智天皇)の皇女だ。皇太后の姉宮なんだ。本来ならば俺が立太子するはずだったんだ」
「それがそなたの本心か」
「本心? 俺は正しき道の理を言ったまでだ」
ふたりの間に亀裂が走る。その亀裂を止めるべく川島は反論しようと口を開きかけたが、それより寸分先にほかの者たちが大津に追随した。
「まさに大津さまのおっしゃること、道理に適っておられます」
「げに、玉座は大津さまにこそ相応しくあられます」
川島は彼らの熱意に気圧され言葉を失った。こうなってしまっては一気に過熱した男たちを止めることは不可能だ。
川島は愕然と肩を落とし、そのさまを見守ることしかできなかった。
散会のあと、大津は川島に告げた。
「川島、俺を止めたければこの頸を刎ねろ」
「な……!」
「かまわんぞ。俺はそなたに殺されるなら悔いはない」
そう言って微笑む大津の顔は、いつもの親友のそれと微塵も変わらない。踵を返す大津の背中を川島が追う。
「どこへ行くんだ? 殯宮はそっちじゃないぞ」
「聞くなよ、そんなこと」
大津はわざとらしくにやにやしてみせた。殯の最中に女の元へ通うとは大胆不敵にもほどがある。いくら奔放な大津でも状況を弁えなければならないというのに、いったい何を考えているのだ。川島は慌てて大津の前に回った。
「石川郎女か? 皇太子の側女じゃないか。やめておけ。皇太后さまに知れたらただじゃ済まないんだぞ」
川原寺でふたりが接近した姿を目撃した者がいたらしい。鸕野讃良の耳に入るのにそう時間はかからないだろう。
「わかってる、そんなこと。だけど……」
会いたい。会いたくて会いたくてたまらない。父が崩じたばかりだというのに、寝ても覚めても四六時中大名児のことが頭にこびりついて離れないのだ。抑えきれないほどに膨れ上がったこの想い。ただの恋か、それとも不変の愛なのか。いずれにせよ大津自身、この気持ちをどう扱えばよいのかわからないでいる。
「そなた、石川郎女が何者なのかを知っていて逢瀬を重ねているのか?」
「ああ、もちろん知っているとも。大名児は俺の曾祖父蘇我倉山田石川麻呂の孫娘だ。だから山田郎女とも呼ばれている」
「父親は?」
「知らん」
「そなた、知らないのか?」
川島の口振りに、大津は驚きの瞳を向けた。
「そなたは知っているのか? 大名児の父親を」
突如、川島が口をつぐむ。大津は彼に詰め寄った。
「誰だ? 大名児の父親とは誰なんだ?」
「……」
「頼む、教えてくれ、川島。知りたいんだよ。大名児のことは全部、なんでも、彼女のすべてを知り尽くしたいんだ」
掴みかかられた腕の痛みから、大津の激しい情愛が伝わってくる。川島は大津の切実な瞳に負け、吐息とともにその名を告げた。
「石川郎女の父親は日下部表米だ」
「日下部表米?」
「そうだ。元の名は表米皇子。難波に坐した天皇の御子だ」
難波に皇居を置いた天皇とは孝徳天皇のことである。孝徳天皇は天智・天武兄弟の母斉明天皇の弟だ。
大津は大きく眼を見開いた。
「ということは有間皇子の弟か? いたのか、弟が」
川島はしっかりと頷いた。天武の命で携わった国史編纂の過程で知ったのだという。
孝徳天皇には3人の皇子がいた。長子の有間皇子とその異母弟2人。だが、弟皇子らの存在は削除を命じられたとのこと。もうひとりの皇子は仏門に入り、唐へ渡ったとか。幼い末弟表米は但馬国へ送られたらしい。彼は日下部氏に臣籍降下したがゆえ皇統から抹殺されたのだろうか。
「大名児の父親は有間皇子の弟……」
まだ解けぬ謎を頭の中で反芻しながら大津は顎に拳を当てた。
——有間皇子……有間皇子……
有間皇子は、大津や川島が生まれたときにはすでにこの世の人ではなかった。ただ彼の死に様については、後世の人々がこぞって歌に詠むほど知れ渡っている。それほど彼の死に様は衝撃的で、人々の記憶に深く刻まれ語り継がれたということだ。
不意に大津が天を仰いだ。その横顔は不思議にも靄が晴れたような表情だ。
「そういうことか」
ふっ……と笑い、大津はふたたび歩き出した。
「待て、大津」
「来るな。もう俺にかまうな。そなたまで命を危うくするぞ」
引き留めようとする川島を無理矢理留め置き、大津は南庭を出ていった。川島は茫然とその背中を見送った。心なしか薄い影にぎょっとする。大津はどこか晴れ晴れとした表情であったが、川島の心は靄がかかったまま。と、彼が浮かない顔で南庭を所在なくうろついていたときだ。
「皇子さま」
誰かが背後から呼び止めた。どきりと振り返る。そこにはにこにこと笑みを湛える柿本人麻呂が立っていた。
「少々確かめたきことがございます」
「確かめたきこと?」
怪訝な表情で見つめ返す川島を、人麻呂は人気のない木陰へと誘った。
次回は第7話「皇太后の罠」です。
【参考文献】
『萬葉集』鶴久・森山隆編(桜楓社)




