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第5話 改元の意味

 南の空に稲光が走った。雷鳴とともに雨雲が飛鳥の上空を覆いつくす。間を置かずに豪雨は襲いかかってきた。天武15年(686年)7月10日のことである。

 激しい雷雨が打ちつける中、()()(のさら)()皇后と草壁皇太子は天武天皇の寝所へ急いでいた。いよいよか、と覚悟を決める鸕野讃良の背後で草壁が青白い顔を震わせている。

 一旦は持ち直したかに見えた天武の病状がふたたび悪化したのは5月24日。6月に入ると禁中に悪臭が漂いはじめた。病魔は確実に天武の身体を蝕んでいたのだ。

 表情を歪めて袖で鼻を覆う草壁とは対照的に、鸕野讃良は眉ひとつ動かさずに御簾の中へと入ってゆく。彼女が几帳を払い上げると、御帳台の上で精気を失った天武の姿が目に飛び込んできた。

天皇(すめらみこと)!」

 さしもの鸕野讃良も流石にこれには激しく狼狽(うろた)えた。草壁は硬直したまま立ち尽くしている。

皇后(おおきさき)さま、ご案じ召されますな。お休みになられているだけです」

 御帳台の傍らにいたのは高市(たけち)皇子だった。

「そなた、いつからここに?」

「つい今しがた参じたばかりにございます。お目覚めになられるのをお待ち申し上げているところにございました」

「そなたも呼ばれたのか?」

「はい」

「天皇はなにか仰せになられたか?」

「いいえ。私が参内した折にはまだお休みでしたゆえ」

 矢継ぎ早の問いにも動じることなく、高市は淡々と答えた。慎み深い彼らしく余計なことは言わない。鸕野讃良に対しても衷情(ちゅうじょう)()(れき)する姿勢が見て取れる。だが、彼女は警戒を解こうとはしなかった。猜疑を秘めた(くろ)()で高市を見据えていることに変わりはない。

皇太子(ひつぎのみこ)さま、こちらへ」

 高市は自分の(はべ)っていた場所へと草壁を招いた。自分が下座へ移ることで皇位継承者は誰なのか、それを明確にさせる意思を伝えたようにも見える。それが鸕野讃良の警戒心を解く理由にはならないのだが、彼女の表情をわずかながら緩めさせるには十分だった。

「皇后」

 玉砂利を叩きつける雨音にかき消されそうな声が微かに聞こえた。3人の視線が一斉に御帳台へと注がれる。彼らの視線の先には瞼をゆっくりと上げる天武の顔があった。まずは鸕野讃良が声を発する。

「天皇、お目覚めでございますか。安堵いたしました」

「死んだと思ったか」

「滅相もない。天皇は必ずやご快癒あそばされます。数多の僧らに悔過(けか)させましたゆえ(とが)も消え去りましょう。大祓(おおはらえ)もおこない、調や徭役(みゆき)も減じ……」

「もうよい」

 鸕野讃良の言葉を遮り、天武は高市に視線を移した。

「これより(ちん)の申すことを心して聞け」

 驚きの眼を開いたのは鸕野讃良だけでなく、高市も同様だった。なにゆえ皇太子草壁を飛ばして自分に言葉を向けるのか。鸕野讃良の()(はい)に徹する眼光が身を(えぐ)る。だが高市はその痛みに耐え、(こうべ)を垂れた。それを見た天武がゆっくりと言葉を紡ぐ。

「高市皇子、そなたに()(くらい)を譲る。朕に代わり国を治めよ」

 言い終えると同時に稲妻が閃光を放ち、雷鳴が轟いた。地響きに草壁が身を縮こませる。高市は微動だにしない。雷鳴の残響の中、鸕野讃良が悲鳴にも似た声を発した。

「天皇! 何を仰せです。お気は確かですか?」

 敵は大津皇子だとばかり思いこんでいた。まさか真の敵がこんなに近くにいるとは疑いもしなかったのだ。

()(つぎ)皇子(みこ)は草壁と定められておりますぞ。草壁はもう(おさな)()ではありませぬ。すでに成人(ひととなり)(いた)しております。高市を天皇になどという思し召しは公卿(まえつきみ)が納得しますまい」

「草壁ならば納得すると申すか?」

「申し上げるまでもございませぬ。草壁は皇太子なのですから」

 ふっ……と鼻を鳴らし、天武はもうひとりの息子を見た。草壁の全身に緊張が走る。

「そなたはどうじゃ。(まつりごと)()り、公卿どもをひとつにすることができるか」

「わ、私は……」

 その先が出てこない。万が一ここで言葉選びに失敗してしまったら取り返しのつかないことになってしまう。

 草壁の動揺を知りながら天武は容赦なく続けた。

「いまだ近江の残党がくすぶり続けるこの飛鳥で、奴らを抑え込むことがそなたにできるか、と問うておる」

 父天皇の威圧に、草壁は完全に言葉を失った。小刻みに震える唇がその心情を饒舌に物語っている。

 ——自信がない……

 近江の残党を懐柔することなど自分には到底無理だ。できるはずがない。だが高市ならばできる。壬申の乱にて総指揮を執った高市を近江の残党は恐れているのだ。彼らを鎮められるのは高市しかいない。

 異母兄高市に御位を——草壁がそう言いかけたときだ。

「皇太子は私が支えます。私がともに政を治めます。ですから、どうか、どうか玉座はこの草壁に……」

 愛息の代わりに鸕野讃良が食い下がった。だが天武が決意を覆すことはなかった。

「ならぬ。高御座(たかみくら)に登るのは高市だ」

「高市の母は采女(うねめ)です。皇女を母に持たぬ皇子の即位をお認めになれば、ふたたび世が乱れますぞ」

 高市と同じく采女の母を持つ大友皇子を皇位に就けようとした所為で近江朝は滅びたのだ。(かい)(びゃく)以来連綿と受け継がれる血統を(けが)せば、天つ神国つ神の逆鱗に触れるは必定である。

「国を滅ぼされるおつもりですか」

 鸕野讃良の言い分は至極まっとうなものだった。だがいつも正論がまかり通るとは限らない。

「これは朕の言葉ぞ」

 天皇の言葉——即ち勅の前では皇后といえども無力と化すのだ。わなわなと震える鸕野讃良の拳を、天武の冷えた掌がやさしく包み込んだ。

「高市を支えてやってくれ。律令のこと、遷都のこと、まだまだ成さねばならぬことは山ほどある。この国にはそなたの力が必要だ。頼む、皇后よ」

 雨音はいつしか小さくなっていた。絞り出すようなしわがれ声もはっきりととらえることができる。

「朕の最期の頼みぞ」

 唇を噛みしめる妻を天武が切なる瞳で見つめた。彼女はまだ返す言葉を見つけられない。そのときだ。

「天皇、謹んで勅をお受けいたしとうございます」

 粛々と頭を下げたのは高市だった。

「高市……そなた……」

 色を成した鸕野讃良の眼差しが高市を射かける。一方で草壁は胸を撫で下ろしたようにも見えた。

「ただし、」

 続く言葉に張り詰めた空気が一変する。

「私は(なかつ)天皇(すめらみこと)として()(しるし)をお預かりするのみにございます」

 3人が息を呑んだのがわかった。この機を高市は逃さなかった。すかさず畳みかける。

「そして急ぎ(りょう)を整え、令を発した暁には皇太子さまに御位をお返しいたしとうございます」

 法令が整備されれば何人(なんぴと)たりとも勝手は許されない。社会秩序を守る律のほうも整備を急ぎたいが、これには今少し時間が欲しいところだ。まずは令を施行し、朝廷の安定を図ることを目指したい。朝廷が安定すれば、草壁でも政務を執ることができるだろう。極論、誰が天皇になっても政が回るようにすればよいということだ。

「うむ、よかろう」

 やはり高市に託してよかった。天皇の面子と皇后の矜持のいずれも尊重する形を取ってくれた。加えて己を律することもできる。謹厳実直な高市には、鸕野讃良も迂闊に手を出すことはできまい。自分の判断が間違っていなかったことに天武は心底安堵した。

「よいな、皇后」

 鸕野讃良の表情は複雑であったが、条件としては悪くないはずだ。

「はい」

 案の定、聡明な彼女はこの案を呑むことを選んだ。続く高市の提案も彼女の心を氷解させた。

「とりあえず今は、政の(ことごと)くは皇后さまと皇太子さまに(ゆだ)ねる、とするのがよろしいでしょう。私は陰にて全力でお支え申し上げます」

 黙って頷く鸕野讃良の代わりに、草壁が涙を流して高市の手を取った。

異母兄(あに)(うえ)、ありがとうございます。ありがとうございます」

 そのとき、ばたばたと采女がひどく慌てた様子で駆け付け、御簾の外で叫んだ。

「申し上げます! 民部省より火の手が上がっております!」

「なんじゃと⁉」

 聞けば落雷ではなく忍壁(おさかべ)皇子の(いかずちの)(おか)(のみや)にて失火があり、それが民部省に延焼したとのこと。

「急ぎ参る!」

 3人に一礼するやいなや、高市は颯爽と御簾の外へ駆け出していった。その勇ましき背中に天武は目を細め、草壁は憧憬を(いだ)いた。

 ただひとつ、鸕野讃良の表情は厳しさを崩さなかった。高市が仲天皇となったとしても、大津皇子の脅威が消えたわけではない。彼の人徳人望ではなく、存在そのものが脅威なのだ。

 このとき鸕野讃良の瞳だけは、あらゆる未来をじっと見据えていたのだった。




 15日、勅が下された。「天下之事、不問大小、悉啓于皇后及皇太子」と。

 20日には『朱鳥(あかみとり)』と元号を改め、皇居は飛鳥(あすか)(きよ)()(はら)(のみや)に定められた。これが御世代わりを意味するとは、このときまだ、親王以下公卿百官に至るまで誰ひとりとして知る由もなかった。

次回は第6話「山の雫に」です。

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