第4話 怨恨
嶋宮に戻った大名児は、とりあえず皇太子草壁皇子の寝所へと向かった。
「おや、早かったね」
草壁がやさしく微笑みかける。嫌味だろうか。大名児は不機嫌そうに頭を垂れた。
「ああ、すまぬ。気を悪くしないでおくれ。深い意味はないのだよ」
はっ、とした顔で草壁は大名児の顔を覗き込んだ。
「私はどうも言葉選びが上手くないようだ。そのことでよく父天皇を怒らせてしまう」
目を伏せる草壁を、大名児はちらりと上目遣いで見た。笑顔は保っているものの、その表情はどこか頼りない。
「水主の叔母宮はご息災であったかな?」
「はい。氷高さまのことをたいそうお褒めでいらっしゃいました」
草壁は嬉しそうに「そうか」と頷いたが、それきり会話は続かなかった。
「おまえも今日は疲れたであろう。下がってよい」
沈黙に耐えられないのだろうか。生来明朗な性質ではない。それでももう少し会話を楽しめたなら、好意を寄せることができただろうに。
大名児の脳裏に大津皇子の無防備な笑顔が浮かぶ。比べてはいけないと知りつつも、この異母兄弟の性質があまりにも正反対過ぎて、どう対峙したらよいのかいつも途方に暮れている。
「今宵も抱いてはくださらぬのですか」
草壁の腕に激しくからみつく。彼を試してみた。ここで彼が情熱を解放してくれれば少しは気が晴れただろう。だが彼はそうはしなかった。ただ穏やかに、いつものように柔和な笑みを浮かべるだけだ。
「無理などしなくてよいのだよ」
「無理などしてはおりませぬ」
わざとだだをこねてみせる大名児に、草壁は笑みを浮かべたまま告げた。
「私の側女というのは形だけだ。母后には適当に取り繕っておくから、さように気を遣うな」
大名児は瞳を開いた。言葉選びは上手くなくとも、この皇子は他人の機微を敏感に察することができる。
「今宵はお側に置いていただきとうございます」
本心からの言葉だった。だがそれは情愛などというしおらしいものなんかではなく、ただ罪悪感から逃れたい一心の発露だ。
草壁はふっと力なく微笑み、帳台に横たわった。大名児も追って褥に潜り込んだ。彼に大名児を拒む勇気はない。力強くはないが温かい掌を細い肩にそっと乗せる。
「おまえは変わったね。初めて嶋宮に来たとき、おまえは死人のような顔をしていた」
感情を見せず、笑うこともなければ泣くことも怒ることもない。淡々と任務をこなし、ただ一日が過ぎゆくのを待っているだけ。
「なにも変わってはおりませぬ。私は元々血も通わぬ人間なのでございます」
「そうかな? 私には迷いはじめているように見えるがね」
ほんのわずかでも感情が見え隠れするようになって嬉しかった、ただそれだけだったのだが——。
「……」
大名児は草壁の襟をぎゅっと握りしめた。
「ああ、また怒らせてしまったみたいだ。許しておくれ」
いちいち謝ってくるのも苛立つ。気を遣っているのは草壁のほうではないか。
「おまえの気持ちはよくわかる。私も大津のことは嫌いではない」
草壁が大名児の額に唇を寄せる。その瞬間、彼女はばっ……と跳ね起きた。唇を震わせ草壁を見つめるその瞳は、怒りとも哀しみともつかない感情が迷走している。
「おわかりではありませぬ。皇太子さまに私の気持ちなどおわかりになるはずもございませぬ」
そう吐き捨てると帳台から滑り落ちるように離れ、御簾の外へと駆け出した。
「ああ、やはり怒らせてしまった。駄目だな、私は……」
その背中を追いかけるでもなく、草壁は憮然とうなだれた。大津だったら追いかけたのだろうか。そしてなりふりかまわず抱きしめ、激しく愛したのだろうか。
なぜ自分が先に生まれてしまったのだろう。なぜ大津の母親が先に死んでしまったのだろう。大津の母親は母后鸕野讃良の同母姉だ。彼女がまだ生きていて立后し、大津が自分よりも先に生まれていれば皇位継承者として穏便に彼が立太子できたに違いない。それならば母もあきらめ、大津を疎んじることもなかっただろう。大津も叔母鸕野讃良に反発せず、逆撫でするような態度はとらずにいたかもしれない。
——宿命とは残酷なものだな。
変えようのない宿命をただ呪い、ただただ翻弄されている。こんな自分が父のように立派な天皇になれるのだろうか。その父天皇は今、病に臥している。もし父天皇に万が一のことがあれば自分が登極することになるのだ。
——自信がない……
宿命は玉座を約束された者の心も迷わせる。やはり残酷なものらしい。
草壁はやさしい。やさしい笑みを絶やさず接してくれる。やさしくささやき、やさしく抱きしめ、やさしく口づけてもくれる。だが彼はいつも、その先には決して進もうとはしない。
大名児にはわかっていた。彼は争いの種を作りたくないのだ。正妃阿閇皇女は珂瑠皇子を産んでいる。もし自分が草壁の御子を産んでしまったら、その子が珂瑠と皇位を争うことになる可能性は否めない。采女の産んだ大友皇子(天智天皇の子)と皇太弟大海人皇子(天智の弟・後の天武天皇)が皇位を争った前例があるからだ。それが壬申の乱——国を二分した過去最大の内乱である。
草壁は戦いを好む男ではない。彼はやさしいのだから。
やさしい彼は大津にも遠慮している。ふたりの想いを知っていて、自らは一歩引いているのだ。
大名児は斑になった残雪を避け、庭に出た。勾の池に渡された橋の上で立ち止まる。池面に映る自分の顔は情けなく見苦しい。
「大名児を……」
突として字を呼ばれ、ぎくりとした。声の主が横に立つ。この声は聞き覚えがあった。池面に並ぶ顔も知っている。だが大名児はすぐに顔を上げることができなかった。池面に映った目を合わせ、声の主が続きを詠う。
「彼方野辺に刈る草の束の間も我れ忘れめや」
最後まで聴いたところで大名児は肩を震わせ笑い出した。
「これは人麻呂さまとも思えませぬな。あまり巧みな歌ではございませぬ」
「言うねぇ。でも口さがない物言いは慎んだほうがいい」
声の主、柿本人麻呂は人差し指を立てて口元に当てた。
「今のはね、皇太子さまの御歌さ」
愛嬌たっぷりに目配せをする。大名児は両手で口をふさぎ、真っ赤になってうつむいた。
「私はけっこう好きだけどなぁ。不器用だけど素直なお人柄がにじみ出ていると思わない?」
欄干にもたれる人麻呂は飄々と星を仰いだ。その横顔に大名児が問う。
「お帰りにならないのですか? 退出のお時間は過ぎておりますわよ」
「帰るさ。帰ろうとしたけどさ、泣いている女の子を見つけちゃったらほっとくわけにはいかないじゃない」
「泣いてなど……」
顔を背ける大名児の冷えた頬に指を伸ばし、人麻呂はそこに残る一筋の跡を拭った。
「すぐにわかる嘘をついてはいけないよ」
「随分とおやさしいのですね。誘っておられるのですか?」
「まさか。私には巻向に愛する妹背がいるからね」
人麻呂はにやりと口角を上げた。
「ただ、同じ嶋宮に仕える者として気になっただけさ」
大名児はふたたび池面を見た。放ち鳥たちは皆寝静まっているのか、動かない水面に映る人麻呂の表情がやけにはっきりとわかる。
「もう蘇我赤兄にこだわるのはやめたら?」
ぴくり……大名児の身体がわずかに動いた。
「孫の山辺皇女さままで憎むのは筋違いってもんだよ」
人麻呂が池面に映った大名児と目を合わせる。大名児は尖鋭な眼差しを池面の人麻呂から実物に移した。
「皇后さまも赤兄を憎んでおいでです。私は皇后さまと志を共にしておりますゆえ口出し無用に願います」
「本当にそう思う? 本当に皇后さまは赤兄を憎んでおられるのかなぁ」
「これは異なこと。皇后さま御自らそう仰せになられたのですから間違いはありませぬ」
大名児の祖父は蘇我倉山田石川麻呂だ。奇しくも皇后鸕野讃良も同じ祖父を持つ。石川麻呂は乙巳の変で中大兄皇子(後の天智天皇)に加担し、蘇我蝦夷・入鹿親子率いる蘇我本宗家を滅亡に追いやった。以来蘇我氏の嫡流は蘇我倉家が受け継ぎ、長男石川麻呂が朝廷の首班に立ったのだ。
「お祖父さまは中大兄さまの御為にすべてを捧げたというのに……」
しかし石川麻呂は、「中大兄暗殺を謀った」と弟の蘇我日向に讒言された。日向の讒言を信じた中大兄は石川麻呂に朝廷の兵を差し向ける。石川麻呂はついに氏寺山田寺にて妻・男子3人・女子1人とともに自害した。他方、幼い女子2人は死を免れた。そのうちのひとりが大名児の母親である。
後にそれが冤罪だと知った中大兄は大いに嘆き悲しみ、日向を筑紫の大宰帥に任命。表向きは栄転だが、人々は皆「隠流し」と噂したという。しかし、石川麻呂の長女遠智娘は悲しみ癒えることなく狂死。その彼女こそが鸕野讃良の生みの母親なのだ。
「お祖父さまの首を斬ったのは物部一族の塩という者。そのせいで遠智さまは生涯塩を口にすることなく身罷られたのです」
大名児の表情は、口にするのもおぞましいという嫌悪に歪んだ。人麻呂も眉間に皺を寄せる。
「夫である中大兄さまに父親を誅された遠智さまは不憫だと思うし、そんな母御をお側でご覧になっていた皇后さまのご無念も察するに余りある。それでも私にはどうしても解せないんだ」
「なにゆえですの?」
「だっておかしいと思わない? 讒言したのは日向であって、そのとき赤兄はなにもしていないんだよ」
「……!」
はっ、と大名児が息を呑む。
「だ、だからそれは、お祖父さまを見殺しにした弟の赤兄も同罪ということなのでは?」
「だったらもうひとりの弟の連子も同罪だよね。でも皇后さまは連子についてはなにも触れられない。どうしてかなぁ?」
人麻呂はひとしきり首を捻ったかと思うと、不意に何かを思い出したように顔を上げた。
「ねぇ、大津さまの母御も遠智さまの所生だよね」
「たしか大田皇女さま……」
「そう。その大田さまは皇后さまの同胞の姉宮だ。大田さまも赤兄を憎んでおられたのなら、なぜ大津さまは山辺さまを妃に望まれたんだろう?」
「それは、大田さまは大津さまが幼き頃に薨ってしまわれたから……」
幼い息子によもや恨み言を託すとは思えない。
「じゃあ、大伯皇女さまは? 大津さまの姉宮大伯さまなら亡き母宮からなにか聞いているかもしれない」
「大伯さまは今、伊勢の斎宮におられます。確かめようもございませんわ」
「そりゃそうだ」
人麻呂は天を仰ぎ、大名児は目を閉じて溜め息をついた。
「もうよしましょう、この話は。あなたに何と言われようが私の心は揺らぎませぬ」
「本当に山辺さまから大津さまを奪うつもり?」
大名児は口を真一文字にきつく結んだ。山辺にはまだ子がない。彼女より先に男子を産めば彼女を絶望の淵に突き落とすことができる。
「許せぬのですよ。赤兄の血を引く者がこの飛鳥でのうのうと暮らしているのが、私にはどうにも我慢ならぬのです」
「ならば次の標的は穂積皇子かい? 妹宮も狙うの?」
彼らの母親もまた赤兄の娘だ。
「言わずもがな、ですわ」
射干玉に染まった瞳を見て、人麻呂はもたれていた欄干から身を離した。
「わかったよ。もう何も言わない。そなたの好きにするがいい。そのかわりどうなっても知らないよ」
本当はもっと言いたそうな口ぶりだ。だが大名児はこれ以上彼と話す気にはなれなかった。これ以上話せば心をすべて丸裸にされてしまう。そんな恐怖に怯えていたのだ。
「わかっているとは思うけど、ひとつだけ言ってもいい?」
「どうぞ」
大名児はあきらめたように軽く吐息を漏らした。人麻呂が一呼吸おいて告げる。
「そなたは皇后さまを利用しているつもりだろうけど、利用されているのはそなたのほうだってこと……」
「百も承知です」
「だよね」
利用されるのを承知の上で鸕野讃良に近づいた。そのことを人麻呂は勘づいている。だからもうこれ以上彼とは話したくないのだ。
「じゃあね。風邪ひかないようにね」
星明りに照らされた背中を見送る。その軽やかな足取りは宮廷歌人の名に相応しく、どこまでも浮世離れしたものだった。
彼のように生きられたなら——。大名児はほんの少しだけ人麻呂に嫉妬した。
次回は第5話「改元の意味」です。
【一口メモ】
『日本書紀』には、父蘇我倉山田石川麻呂を夫中大兄皇子に誅され、父を斬首した物部塩を恨み生涯塩を口にせず狂死したのは「造媛」とありますが、鸕野讃良皇女の生母「遠智娘」と同一人物との説が有力です。




