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第3話 雪化粧

 一晩降り続いた雪が、飛鳥一面を覆った。きらきらと陽の光を反射する雪の庭を、(おお)()()は眩し気に見つめている。

皇女(ひめみこ)さま、ご覧あそばせ。雪の重みに耐えかねて松の枝が折れそうになっております」

 大名児は水主皇女(もいとりのひめみこ)を振り返った。だが、水主はおっとりと微笑むばかり。御簾内から出てこようとはしない。大名児はあきらめて御簾の内に入った。

天皇(すめらみこと)のお加減はいかがかの」

 水主が雪を愛でようとしないのは、9月に発病した天武天皇を慮ってのことだった。

「ご案じ召されますな。天皇のご快癒を願い、招魂(みたまふり)をいたしましたゆえ必ずやご回復に向かわれましょう」

 招魂は魂の遊離を防ぎ、身体の中に(とど)める祈祷の儀式だ。僧都はもとより、公卿百官に至るまで祈らせているという。

 水主の表情が曇り出したので、大名児はさりげなく話題を変えた。

皇后(おおきさき)さまよりお(ことづけ)がございます」

「なんと?」

「はい、()(たか)さまがお訪ねをお待ちとの仰せにございます。天皇がお倒れになられてからあまり騒いではいけないということで、お寂しい思いをされているご様子にて」

 この日大名児は、皇后鸕野讃良の使者として水主の宮を訪れていた。氷高皇女は草壁皇太子の第一皇女。鸕野讃良の愛孫でもある彼女は水主に懐いているらしい。

 水主は天智天皇の皇女の中では最年少。大名児とは年がさほど違わない。異母姉鸕野讃良とは異なり物腰はゆったりと柔らかく、口調ものんびりしているから幼子を安心させるのだろうか。

「氷高……あれはげに美しいひめみこじゃ。あれほどの美しい幼子を私はいまだ知らぬ」

「私もでございます。まこと氷高さまはお美しゅうございますな」

 (こうべ)を垂れる大名児を見て水主は手招きをした。大名児がそっと膝を進める。

「もそっと(ちこ)う」

 言われるがまま今ひとたび膝を近づける。だが水主はもっとこちらへ来いと言う。これ以上近づいたら顔が触れしてしまう……というところで水主はそっと団扇を寄せた。

「実は(あね)(うえ)、氷高に玉座を渡したいようなのじゃ」

 思わず声を上げてしまいそうになるのを大名児は必死でこらえた。大きく開いた口を袖で隠す。だが大きく見開く眼までは隠せない。口元を袖で覆ったままやっとのことで言葉を発する。

「お(たわむ)れを」

「ならばよいがの」

 水主は口元を団扇で隠した。垣間見せる目は笑っているともそうでないとも見分けがつかない。

 皇女が皇位に就くためにはまず皇后にならなければならない。皇嗣が定まらないまま天皇が崩御すれば、皇后が(なかつ)天皇(すめらみこと)として登極しなければならないからだ。しかし現時点で皇嗣は氷高の父草壁皇太子である。

阿閇(あへ)さまは皇子(みこ)さまをお産みまいらせております。皇后さまが氷高さまを玉座になどと(おぼ)し召すはずはございませぬ」

 草壁の正妃阿閇皇女が氷高の同母弟珂瑠皇子(かるのみこ)を産んだ時点で、草壁の跡を継ぐのはこの皇子をおいてほかにはない。だが——。

 ——氷高さまのお相手次第では氷高さまが玉座に就かれることもなくはない……

 大名児の脳裏にふとそんな考えがよぎった。草壁皇太子は病弱だ。彼に万が一のことがあったとき、その代わりとなる皇子が登極したとして、その正后ならば即位する可能性は十分にあり得る。

 ——草壁さまの代わりとなる皇子?

 大名児ははっと息を呑んだ。それは大津皇子に相違あるまい。

石川郎女(いしかわのいらつめ)

 水主の穏やかな声に我を取り戻す。

「はっ、申し訳ございませぬ。私としたことが出過ぎたことを」

「よい。私もつまらぬことを申した。忘れてくれ」

 大名児は顔を赤らめた。自分は何と浅はかな考えを抱いてしまったのだろうか。大津には正妃がいる。山辺皇女だ。彼女も蘇我の媛を母に持つ皇女である。だが阿閇所生の氷高のほうが格上だ。なにしろ阿閇の母は蘇我倉山田石川麻呂の娘。阿閇は同じ祖父の血を引く鸕野讃良の信頼置ける異母妹なのだ。その阿閇を母に持つ氷高が将来大津の正妃になれば、自分の本懐は遂げられるではないか。

「石川郎女、おまえは歌が得意であったな」

 顔を上げると水主の笑顔がそこにあった。ふたたび我に返る。

「得意というほどでは……」

数多(あまた)殿(との)()より歌を贈られるそうではないか。その返し歌が優れていると聞いた」

「そのようなことは……」

「私にも歌を教えてはくれぬかの?」

「私などよりも(ぬか)()(のおおきみ)さまがよろしゅうございましょう」

「額田どのには断られた。歌はもう詠まぬ、とな」

 その心情は計り知れないが、かつての宮廷を一世風靡した歌姫に、歌はもう詠まないと言わせるのは余程のことがあってだろう。

「ならば柿本人麻呂さまではいかがでしょう」

 水主は小さく息をついた。どうやら大名児は教えてくれる気がないらしい。想い人以外のために詠める歌などないということか。

「そうじゃな。そのうちに」

 微笑んだその顔に(かげ)りが見える。大名児は床に両手をそろえた。

「こちらは居心地がよくてつい長居をしてしまいました。そろそろお(いとま)申し上げます」

 立ち上がり、御簾に向かう。その背中に水主は語りかけた。

「気をつけよ」

「はい、雪道に足を取られぬよう気をつけます」

「そうではない」

 水主も腰を上げた。大名児の手が御簾を上げる前に、その行く手を立ち塞ぐ。

「危ういのじゃ、おまえは」

 おまえは何を考えているのだ——水主の瞳が問いかけているのが大名児にははっきりとわかった。

 なんのために鸕野讃良に近づき、草壁の愛妾となったのか。たとえ蘇我の出自だとしても、同じく蘇我腹の皇女が正妃にいるかぎり日の目を見ることはない。皇位争いに巻き込まれて排除されるか、捨て駒にされるかのどちらかだ。

「姉后はおまえの太刀打ちできるお方ではない」

「お気遣い、もったいのうございます」

 わかっているとでも言うように頭を下げ、大名児は視線を落としたまま御簾を出ていった。その背中は寂しくも気高くもない。ぶれずにただ一点を見つめているだけだ。

 漠然とした危うさを感じ取ってはいたものの、落とした視線の先にあるものを水主が知ることはできなかった。




 沈みかけた夕陽が雪化粧を施した三輪山を赤々と照らしている。遠くに(いま)すのに、大神(おおみわ)の神杉の一本一本が光を放っているかのようだ。

「三輪さまはどのようなお姿も美しいの」

 大名児が目的地に今少しで到着しようというそのとき、背後からひとりの男が姿を現した。駒から降り、ゆっくりと大名児に顔を見せる。

「これは安麻呂さま。お久しゅうございます」

 男は大伴安麻呂だった。天武13年(684年)に制定された『八色(やくさ)(かばね)』にて大伴氏は(むらじ)から宿禰(すくね)に改姓されていた。()(ひと)朝臣(あそん)に次ぐ称号である。

「幼き頃、そなたの父君と三輪さまに登ろうとして亡き天皇(すめらみこと)にお叱りを受けたことがある」

 三輪山は山そのものがご神体だ。禁足地であるそこへ足を踏み入れようとしたのだから大目玉を喰らうに決まっている。

「ほほほ、初耳ですわ」

 大名児は声も高らかに笑った。安麻呂は得意げに続ける。

「それはそうだ。誰も知らぬ話だからな」

「ええ、ええ、そうでしょうとも。そのころ(みやこ)難波(なにわ)にあったのですからね。難波から三輪さままで幼子の足でいかほどかかりますことやら」

 ぐぬぅ……と安麻呂が顔をしかめる。大名児は彼をじろりと睨んだ。

「すぐにわかる嘘をおつきになるものではありませぬよ」

「ともにいろいろやらかしたのは本当だ」

 安麻呂は幼少の頃、大名児の父親の近習であったらしい。年の近い彼らが仲良くなるのに時間はかからなかった。

「教えてやろうか?」

 大名児は首を横に振った。記憶にない父のことなど知ったところでなんの感慨もない。

「そうか」

 残念そうではあったが、安麻呂はそれ以上深入りしてはこなかった。

「間もなく日が暮れる。(くら)き道は危ないゆえ、嶋宮(しまのみや)まで送ってゆこう」

「いえ、私は……」

 大名児は、今度は掌を向けて横に振った。

「遠慮せずともよい。さあ、参ろう」

 安麻呂は半ば強引に大名児の抱き上げると、ひょいと彼女を駒に乗せた。彼に抗うこともできず、大名児を乗せたまま駒が歩みを進めてゆく。

 いや、抗おうと思えばできたかもしれない。それをなぜしなかったのだろうか。

「迷っていたのであろう」

 間もなく奥山を抜けようというとき、駒を引きながら安麻呂は大名児を見上げた。彼女の心を見透かしたように笑っている。だが嫌な感じではない。それどころか慈悲深い眼差しが彼女の凍てついた心を抱きしめている。

 言葉に詰まる大名児に、彼はさらなる言葉をかけた。

磐余(いわれ)のお方に逢うのはもうやめよ。迷っているうちはまだ引き返せる。まだ間に合う」

「余計なお世話ですわ」

 三輪山の反対側へ振り向いたのは無意識か。意図せずしてその瞳に映ったのは畝傍山(うねびやま)の向こうにそびえる二上山(ふたかみやま)()(だけ)()(だけ)の間に沈む夕日が瞳を射す。大名児は思わず目をぎゅっと閉じた。その残像が瞼の裏にくっきりと残っている。顔を(たてがみ)に向けながらそっと瞼を上げると、眼の端に安麻呂の顔が飛び込んできた。

「大津さまの正妃は山辺さまだ。そなたの入り込む隙はない」

 言われずともわかっている。大名児は口惜し気に唇を噛みしめた。安麻呂は構わず続ける。

「そんなことより……」

「そんなことより?」

「わしの妻にならぬか?」

「は?」

 なにを唐突に言い出すかと思えば、妻になれなどと()れ事にもほどがある。大名児は呆れたように虚空を仰いだ。だが安麻呂は簡単にはあきらめない。

「宮仕えをやめてわしのところへ来い。悪いようにはせぬ」

「お子さま方はいかが思われましょう?」

 安麻呂には大名児と年の近い息子がふたりいる。妻は()()(のおみ)()()の娘であったが、近江朝の重臣だった比等は壬申の乱後に流罪、子孫も皆配流されていた。一方、安麻呂は兄()(ゆき)とともに大海人皇子側に(くみ)し、功を上げたため子らは助かり、天武朝で優遇されたのだ。しかし妻は表舞台から姿を消している。

「かまわぬ。そなたは蘇我の者。誰に(はばか)ることがあろうか」

 安麻呂は意に介さなかった。だが彼は父と親交があったはずだ。親子ほども年の違う相手を背の君として慕うのはさすがに想像できない。

「私を妻になさりたくば、気の利いた歌のひとつでもお詠みくださいませ」

 そっぽを向く大名児を、安麻呂は苦笑いしながらも愛おしげに見つめた。

「よし、その言葉、忘れるでないぞ」

 わははは、と豪快に笑う。その本気ともつかぬ瞳を、大名児は複雑な思いで見つめ返した。しばし見つめ合う。かと思うと、ふっと溜め息をつき、まっすぐ前を向いた。安麻呂も笑顔のまま前を見る。

 その後は言葉を交わすことなく、ふたりは嶋宮へと向かった。

次回は第4話「怨恨」です。


【用語解説】

◎三輪さま

奈良県桜井市にある三輪山。大和國一之宮大神おおみわ神社の御神体でもある。昔は禁足地であり、現在も登拝には厳しい規制がある。

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