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第2話 駆け引き

 廟堂(びょうどう)の長い回廊を数人の官人らが闊歩している。前を歩くのは藤原(ふじわらの)()()麻呂(まろ)()勢多(せのた)益須(やす)、その後ろに続くのは帳内(とねり)()()道作(のみちつくり)だ。

 彼らの姿を目にした官吏たちは一旦立ち止まり、道を譲る。天皇の寵愛する大津皇子の取り巻きに()()(つい)(しょう)しているのだろう。その中をひとり、素知らぬ顔で通り過ぎようとする者がいた。

「待て、不比等」

 呼び止めたのは藤原意美麻呂。藤原不比等とは同族の大舎人だ。

「はい? なんでございましょう、意美麻呂どの」

 涼しい顔で不比等が振り返る。そのふてぶてしい態度に意美麻呂はいきり立った。

「それが氏上(うじのかみ)に対する振る舞いか。挨拶ぐらいしたらどうだ」

「はて、これは異なことを申される。あなたが藤原の氏上でおられるのは、私が成人(ひととなり)(いた)すまでと聞いておりますが」

 藤原の氏を賜ったのは不比等の父鎌足だ。鎌足の従兄弟国足は中臣の氏のまま、本来ならその子意美麻呂も同じく中臣氏のままであった。だが、鎌足が没した時点で不比等はまだ年少であったため、不比等が成人するまでの間という約束で意美麻呂が藤原の氏上となっているにすぎない。

「まだ藤原を名乗っておられるのも心外なこと。それを目を瞑っておるのです。感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはないと存じますが」

「この……言わせておけば図に乗りおって!」

 意美麻呂は色を成して不比等の胸倉を掴んだ。巨勢多益須と礪杵道作が慌てて止めに入る。

「不比等、口が過ぎるぞ。我らを誰だと思っている」

 道作が不比等を睨みつけた。だが不比等はまったく意に介さない。

「誰? 誰……はて、誰でございましょうな? ううむ、強いて言うなれば……」

 襟首を直しながら不比等は言い放った。

「大津皇子さまの(やっこ)

「貴様! なんたる無礼な!」

 今度は道作が憤る番であった。多益須もこれには黙ってはいられない。

「不比等、聞き捨てならぬぞ。今や大津さまは天皇(すめらみこと)の寵をいただいておるお方。そのお方を(おとし)める物言い、もはやただでは済まされぬぞ」

「無礼はそちらであろう。我は皇太子(ひつぎのみこ)さまに仕える身なれば、大津さまの下僕に頭を下げる道理はない」

 不比等を取り囲んでいた3人はこぶしを握りしめた。

()(こころ)は大津さまにあるはずだ」

 意美麻呂が声を震わせる。この時代、皇太子の地位は極めて不安定なものであった。草壁皇子が立太子したとはいえ皇嗣を規定する(りょう)が存在しない以上、その地位が確約されたとは言えないのだ。

 そのこともあってか、凡庸な草壁よりも才気煥発な大津を天皇に、という声は日増しに強くなっている。天武天皇の耳に届くのも時間の問題だ。いや、もうすでに届いているかもしれない。天武が果たしてそれら諸臣の声を無視することができるだろうか。

 (さが)(さと)い不比等もそれは察知していた。だが、敗者側の人間として歴史の闇に埋もれてしまうところを、何の気まぐれか皇后鸕野(うの)(のさら)()に拾ってもらったのだ。不比等にここで生き抜くほかに選択肢はない。

「どうした、不比等。さきほどまでの威勢は何処へ行った?」

 意美麻呂がにやりと(わら)う。そうだ、このまま大津皇子側に付いていたほうが有利に決まっている。皇后よりも天皇の権威のほうが圧倒的に上なのだ。天皇が愛息大津を皇嗣に定めれば皇后とて引かざるを得まい。勅命は絶対なのだ。そうすれば草壁が廃太子となると同時に皇后も廃される。不比等も失脚、そして藤原氏の嫡流は我がものに……。

「たしかに大津さまの骨法は人臣の相にあらず」

 回廊に高らかに響き渡る声が、4人の動きを止めた。声の主が続ける。

「と、誰ぞが言っていたとかいないとか」

 4人の視線はひとりの男に向けられていた。

「人麻呂……」

 不比等がその名を口にする。男の名は柿本人麻呂。皇后お気に入りの歌人であり、不比等と同じく皇太子付きの舎人だ。

「そのようなことを大きな声で言うものではない」

 不比等が慌てて人麻呂に詰め寄る。だが、

「私は別に良いのですよ、どなたが皇太子になられても」

 くすくすと笑う人麻呂は屈託ない。まるで(まつりごと)とは無縁な世界の住人でもあるかのようだ。

「ただ……」

「ただ?」

皇后(おおきさき)さまがお耳に入れられたらいかがされるかと思いましてね」

 不比等がごくりと息を呑む。振り返ると3人の表情は不比等以上に蒼褪めていた。それこそ先ほどまでの威勢はどこへやらだ。意美麻呂などは、天皇の意向ならばいかに苦楽を共にした皇后といえども逆らうことはできまいと考えていたにもかかわらず、である。それほどまでに皇后鸕野讃良の存在は臣下らの潜在意識に畏怖を植え付けていたのだ。

方々(かたがた)、皇后さまって先天皇(さきのすめらみこと)(天智天皇)にそっくりだと思いません? お顔とか、話され方とか、ほら、ご気性も」

 3人がさらに震え上がる。人麻呂は彼らを一瞥し、不比等の背中を押した。

「皇后さまがお召しだよ。さぁ行こう」

 かつっ……と沓音を鳴らしながら、わざと大きな独り言を発する。

「そうそう、その誰ぞ、こうも言ってたなぁ。久しく下位に在るは身を(まっと)うせざらん、ってね」

 それが何を意味するのか、彼らなら言わずともわかるだろう。人麻呂は多くは語らずに笑顔だけ浮かべていた。




「さぁて、やつら、どう出るかな。見ものだね」

 にこにこと回廊を歩く人麻呂の後を不比等がついてゆく。

「人麻呂、誰ぞが言っていたというのは?」

行心(こうじん)新羅(しらぎ)沙門(ほうし)だよ。やつは(うら)を得意としているからね」

 卜筮(ぼくぜい)の結果、大津皇子の面相は「人臣の相にあらず」、つまり「天子の相」であると出たそうだ。

「そんなこと、どこで知ったんだ?」

 足早に歩みを進める人麻呂の背中を、不比等が必死に追いかける。

「私は歌詠みだからね。歌を詠めと言われれば何処へでも馳せ参じるのさ。そう、例えば……」

「例えば?」

「川島さまの宮とか」

 不比等ははっと目を見開いた。川島皇子は天智天皇の第二皇子だ。母の身分は低かったが温厚な人柄と忠実な働きぶりを認められ、天武の第四皇子忍壁(おさかべ)とともに国史編纂という大事業を任されている。

「川島さまといえば大津さまと親交厚いお方ではないか」

「みたいだね。まさに刎頸(ふんけい)の友という感じだよ」

 互いに(くび)()ねても悔いはない、それほど信頼し合っている。その感覚が不比等には理解しがたいものだった。

「くだらん。友情などというものは実にくだらんものだ」

 駆け引き、裏切り、騙し合い……。近江朝の重臣藤原鎌足の息子として群臣が政争に明け暮れるさまを間近で見ていた不比等にとって、友情ほど信用ならないものはない。

「わかっておあげ。あのお方も必死なのさ。不比等ならわかるだろ?」

 人麻呂は不意に足を止め、不比等を見た。不比等も立ち止まり、人麻呂に視線を返す。

「ああ、そうとも、必死だ。近江の残党は皆この飛鳥で生きるために必死にならざるを得ないのだ」

 近江朝の再起を果たすべく虎視眈々と機を窺っている者、不比等のように官人としての道を模索する者。近江の残党は千差万別だ。

「武力で権力を奪おうなどという輩は愚の極みだ。これからの御世(みよ)は頭を使ってこそ(まつりごと)を操ることができるということを思い知らせてやる」

 不比等の一意な眼差しを見つめたかと思うと、人麻呂はおもむろに回廊を外れ、玉砂利に足を乗せた。見上げた空に千鳥が連なり渡ってゆく。

「思い出すねぇ、夕波に千鳥が()く淡い海を」

 歌人らしい横顔でぽつりとつぶやく。

「だから不比等は大人しい草壁さまにお仕えしているんだ……」

 不比等は(いにしえ)の忌まわしい記憶を払拭するかのように本音を吐露した。

「いたしかたあるまい。我ら官人は仕える相手を選べないのだから」

「本当にそう思う?」

 人麻呂が振り返る。不比等は怪訝に眉を(ひそ)めるばかりだ。

「意味がわかりかねるが」

「しらばっくれちゃって。本当は選んでいるんじゃないのかい?」

 人麻呂の笑顔は邪気がない。邪気がない分無遠慮に心淵へと踏み込んでくる。

「そなたが選んだのは草壁さまじゃない」

「わかっているなら言わせないでくれ」

 不比等がうつむく。人麻呂は声を上げて笑った。

「ごめんごめん。そうだね。ちょっと意地悪だったかな。お詫びに私が選んだお方を教えてあげよう」

「人麻呂が選んだお方?」

 不比等は顔を上げ、彼を刮目した。

「そう、私が選んだお方はね、」

高市(たけち)皇子さまであろう」

 人麻呂が言う前に不比等が被せる。だが人麻呂は「惜しい!」と首を横に振った。違うのか、と意外そうな顔を不比等が向ける。

「まさか皇后さま……?」

「それは不比等だろ」

 図星に一瞬、うっ、と詰まる。ならば、ほかに誰がいるというのか。高市皇子が惜しいと言われても、頭を捻るがとんと思いつかない。不比等は観念してその答えを促した。

「教えてくれ。そなたの選んだお方とは?」

 人麻呂はにっこり微笑んだ。

(なが)()(のおおきみ)さま」

 長屋王は高市皇子の長男だ。このときまだ幼少であったその(みこ)の名を、不比等は一生胸に刻むことになる。

次回は第3話「雪化粧」です。

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