第1話 大名児(おおなこ)
ここから第二章「大津皇子の抵抗」に入ります。
尚、本章の主要人物系図は後書きに掲載しています。
簾の隙間から見える黒雲は、たしかにこちらへ迫っていた。
「雨が気になるか?」
湿った匂いに鼻をひくつかせ、大津皇子が訊いた。内衣を羽織るでもなく、一糸まとわぬ姿で褥に寝そべっている。
「降り出す前に磐余へお帰りになられたほうがよろしいかと」
その身を案じる言葉とは裏腹に、声色には感情がこもっていない。大津はくすくすと笑い出した。
「心にもないことを」
褥に戻ってきた大名児の細い肩を抱き、引き倒す。
「おまえこそ嶋宮に戻らなくていいのか?」
「心にもないことを」
互いに見つめ合い、笑った。この一瞬が大名児は好きだった。人目を忍び、窃かにこの廃屋で逢瀬を重ねるようになってから幾らも月日を経ていない。なのに、砕け散った破片がひとつづつ原型を戻してゆくように、ぴたりと重なり合う感覚にとらわれるのはなぜだろう。
「大名児、愛している」
こころだろうか。それともからだだろうか。
ときに訊いてみたい衝動に駆られることもある。だが怖くて訊けない。その答えが自分の意図と一致していたとしたら平静ではいられなくなってしまう。
「今宵はもう、よしましょう」
何度愛し合ったところで答えはない。いや、答えを知ってはいけないのだ。
程良く筋肉の乗った腕を解き、裳に手を伸ばす。その白い手首を大津は離しはしなかった。
「次はいつ会える?」
「お望みとあらばいつでも」
大津は大名児の手首を握ったままゆっくりと起き上がった。
「皇太子には知られていないのか?」
「ええ、いっこうに」
大名児はにっこりと微笑んだ。彼女は皇太子草壁皇子の側女だ。皇太子の愛妾を寝取ったとなれば、如何に今上天皇天武の愛息大津といえどもただでは済まされない。
「皇后は?」
「ご案じ召されますな。お気づきならば今頃あなたさまも私もこうしてはおりますまい」
ゆるく握ったこぶしを口元に当て、大名児がふふふと笑う。それを見て大津も頬を緩めた。草壁がいくら暗愚でも、さすがに皇后鸕野讃良が気づかないはずはない。それでも今のところ鸕野讃良には露顕していないようだ。しかしそれも時間の問題かもしれない。
「もしも皇后に事顕われたなら、おまえ、どうする?」
「どうもいたしませぬ。そのときはそのとき、にございます」
あははは!と大津は声を上げて笑った。まさに我が意を得たり、そんなふうである。
「どうやら俺とおまえは、元はひとつであったみたいだな」
脛裳を穿きながら、きりりと顔を引き締める。
「俺は皇后なんかに屈しない」
うなじに貼りつく乱れたおくれ毛、遠望する明眸。凛々しい横顔は思わず魅入ってしまうほどだ。
着替えを済ませた大津は簾を上げ、先に廃屋を出た。三輪山の背後の空がうっすらと明るみを帯びている。日の出までには出仕しなくてはならない。彼は颯爽と駒にまたがった。
「お気を付けてお帰りあそばせ」
見送る大名児にこくりと頷く。西から迫る黒雲を見ながら駒を進めると、2、3歩踏み出したところで大津は駒の足を止めた。
「大名児」
「はい?」
「おまえはいったい何者なのだ?」
振り返った大津の真顔に、大名児は吹き出しそうになった。
「なにを今さら。私はあなたさまと同じ蘇我の血を引く者ですわ」
大名児という名は字。公には石川郎女とも山田郎女とも呼ばれていた。その呼び名が示す通り、彼女の母は蘇我倉山田石川麻呂の娘だ。大津の祖母遠智娘の妹でもある。つまり大名児は、大津の母とは従姉妹にあたる。そこまで近しい血縁だというのに、大津は彼女のことをそれ以上何も知らない。
「父親を訊いているのだ」
「父ですか? さぁ……、私が生まれたときにはもうこの世にはおりませなんだゆえ」
どこぞの皇子のご落胤やもしれぬ、と大名児は茶化した。
「そのようなこと、なぜお訊きになるのです?」
「知りたいんだ、おまえのことはなんでも、すべて」
苛立ちを隠し、大津は朝露に濡れた袖を翻した。ひとつ残らず破片がはまったとしても、未知の顔があるという焦りが愛を燃え上がらせる。
その胸内を見透かしているのだろうか。笑みを崩さず、大名児は朝靄の中に消えゆくその背中をじっと見つめていた。
豪放磊落——。人々は皆、大津皇子をそう評していた。逞しく立派な体躯、堂々たる立ち居振る舞い、自由奔放、明朗快活。そのすべてが見る者の心をたちまち虜にする。武にも芸にも学問にも秀で、詩賦の興隆はこの皇子から始まったともいう。貴賤の別なく人に接する彼は人気も高い。天智・天武両天皇に愛された、まさに非の打ち所のない皇子だ。
しかしそれが暗に比べられているように感じられ、心中を波立たせる者もいる。
「ご寵愛が過ぎやしませんか」
諸臣の前では深沈大度を崩さない鸕野讃良も、人払いを済ませた御舎では感情を顕わにした。それがこと愛息草壁皇子に関わるとなればなおさらだ。
「大津のみを遇しているわけでない。日嗣には草壁を選んでやったではないか」
憤る皇后の前で天武天皇は悠然と杯を傾けた。その態度がさらに彼女を苛立たせる。
——選んでやった? やったってなに?
草壁皇子は皇后たる自分の所生だ。皇族の母を持つ皇子の中では第一皇子である。長幼の序を弁えていれば、日嗣が誰なのかは考えるまでもない。
天武は酒杯をぐいと飲み干し、妻を見た。彼女の憤懣の原因はわかっている。皇太子である草壁を差し置いて、先に大津を朝政に参画させたことが気に入らないのだろう。
「能有る者は重用に値する。この飛鳥に戻ってきたときから決めていたことだ。そなたも志を同じくしてくれたではないか」
政権を皇族らで担う皇親政治は専制的であり、ともすれば独裁になりかねない。それであるがゆえ、諸臣の不興を招かないためにも身分の差に関係なく有能な官吏を登用することは肝要であった。
「令の制定も急がねばならぬ。そのためには才学に富む大津の力は大いに役立つことであろう」
唐に倣った律令の整備は天武の治世において、新都造営と並び喫緊且つ最重要課題だ。存在の不確かな天智朝の近江令とは違う、後世に連綿と受け継がれてゆくような律令を制定しなければならないのである。
「ならば、藤原不比等の登用もお考えあそばされませね」
「藤原……?」
天武の眉がぴくりと動いた。じろりと皇后を睨む。
「あれはならぬ」
「なにゆえにございます?」
天武とは対照的に鸕野讃良の眉は微動だにしない。表情は微塵も変えないが、心のどこかで嘲笑っているようにも見える。
「言わせる気か」
「天皇のお言葉を賜りとうございます」
鸕野讃良は不敵に微笑んだ。天武が唇を噛む。
——そなたがその気ならば申してやろう。
天武は杯を置き、ゆらりと立ち上がった。妻を見据える。彼女も一切怯まず、夫の瞳を見つめた。
「あの者は近江の残党だ」
かっ……と鸕野讃良の眼が見開かれた次の瞬間だ。彼女は高らかな笑い声を禁中に響かせた。
「おほほほ! ならばなにゆえ山辺皇女を大津の妃にお認めあそばされたのですか?」
夫が愛してやまない皇子の正妃に、なぜ、天智天皇の皇女山辺を据えたのか。
「私は反対申し上げたはずですよ。なぜならば、山辺の祖父は蘇我赤兄ですもの」
蘇我赤兄もまた、不比等の父藤原鎌足と同じく近江朝の重臣だ。しかも赤兄は壬申の乱敗戦後、子孫共々流罪になっている。近江朝重臣の末裔を近江の残党として排除してゆくのなら、当然孫の山辺皇女もこの飛鳥で冷遇されて然るべきである。
「山辺は蘇我の血を引く皇女だ。そなたの母御もともに蘇我の媛ではないか」
蘇我氏が後宮に娘を入れ、蘇我の血を引く皇子皇女が皇位に就くようになってから一世紀半近く経つ。もはやそのことに誰も疑問を持たず、今では不文律と化していた。
「天皇家の血を蘇我の血で固めることになぜ異を唱える?」
「蘇我の血? 何をもって蘇我の血と呼ばれますのか」
まるで赤兄など蘇我の一族ではないかのような口ぶりだ。じり……と一歩、鸕野讃良が天武に歩みを寄せる。
「あなたが忘れても、私は忘れませぬ。あの赤兄という男の所業、断じて許しはいたしませぬ」
大津への盲愛が天武の判断を鈍らせたか。愛息の欲するままに彼の所望する皇女を妃に与えた。その天武の決断を鸕野讃良が見逃すはずはない。
「あのような汚らわしい血など、一滴たりとも天皇家に注がせはいたしませぬ」
その瞳は父天智天皇をも彷彿とさせる凄みを放っている。或いはそれ以上。
鸕野讃良は天武の胸元に手を伸ばした。天武がわずかに身体を強張らせる。鸕野讃良はかまわず天武の胸襟に手を当て、静かな声で告げた。
「藤原不比等は皇太子の舎人として仕えさせます。よろしいですわね」
不比等は漢文にも律令にも精通している。皇太子の側近としてはうってつけだ。天武が即位して間もなく詔された大舎人出仕制度により、不比等は下級役人として再出発の機を与えられた。才能如何で適材適所の登用が可能となったこの制度、鸕野讃良は詔を逆手に取ったとも言える。
「好きにするがよい」
天武はそれだけ告げると、穏やかな笑みを浮かべる皇后を残し、ほかの妃のもとへと渡っていった。




