第1話 淡い海
第一章「十市皇女の悲憤」
湖が嫌いだった。
水面に跳ね返される陽光が、この眼を射し潰してしまうのではないかという不安。美しいなどとは一度たりとも思ったことがない。
南の彼方には、海というものが存在するらしい。それには果てなどなく、塩っ辛い水がどこからともなく寄せてきては、また、どこへともなく帰ってゆくという。そしてすぐにやってきてはすぐに帰る。休むことなく、永遠にその繰り返し。永遠に。
「姉さま。ほら、見て。こんなに長く編めたよ」
異母弟の高市皇子が、蓮華で編んだ花飾りを高々と掲げて見せた。見上げたその先の太陽が眩しい。だが、湖面に反射する陽光のような不安感はない。
この湖の波は、海とやらでもないくせに、絶えず寄せては返している。果てもあるくせに、その全貌を明らかにしてくれない。なにをそれほどもったいぶっているのか。だから、湖の向こうにある東国の脅威を余計に増長させるのだ。
「今度は髪飾りを作ってあげる」
弟とはいえ、ひとつしか違わない。だが、少年はその齢よりもはるかに幼く、無邪気だ。それでも、好意を寄せるにはなんの理由も要らなかった。
高市皇子はやさしい。虫も殺せぬであろう。そんな他愛のないことを考えていると、高市が不意に腕を伸ばしてきた。どきりとした。ただ、肩に止まった虫を掴もうとしただけなのに。
くすくすと十市皇女は笑い出した。なんだか急に可笑しさが込み上げてきたのだ。わけもわからずいきなり笑い出した異母姉を見て、高市はふくれっ面だ。それがまたなんとも愛しい。
——ほらね、やっぱり。
やっぱり、高市は虫を殺せない。掴もうとしたのではない。はじめから追い払うだけのつもりだったのだ。高市はやさしいのだから。
「今度、額田さまに歌を習おうかな」
異母姉に笑われてばつが悪いのか、高市は慌てて話題を変えた。額田王は十市の母親だ。誰もが知る、今を時めく宮廷歌人でもある。だから、時に十市も歌を期待される。中には強要しようとする者さえいる。歌など詠めと言われて詠めるものではない。しかし、母は難なく詠んでしまうものだから、その娘である十市にも歌才があるのではとないかと思われているのだ。他人というのは勝手なものである。すべて自分の都合のいいように解釈する。
この湖もそうだ。誰が名付けたか、人はそこを淡海と呼ぶ。湖と呼ぶにはあまりに大きく、かといって海のように果てがないわけでもない。だから勝手に淡い海としたのか。
淡海の畔に、天智天皇が都を遷したのは667年3月のこと。近江大津京である。寧楽山を越えた大掛かりな遷都は多くの資材を費やし、人民をいたずらに疲弊させるだけであった。反感を買うはもちろん、誹謗の的ともなりえた。天智が勝ち目のない戦に手を出したせいだ。滅亡同然の百済に援軍を向け、敗戦を余儀なくされた。敵軍新羅の背後に控える大国唐から逃れるため、飛鳥を棄て、近江へとやってきた。それから1年以上が経った今も、この遷都は人々の心に禍根を残したままである。
十市も未だこの地に慣れない。生まれ育った飛鳥の古京のほうが、此処よりも好きだった。花がより美しく映えるのは、飛鳥の山々が放つ群青であって、湖を揺らぐ淡い紺碧ではない。
「なにを詠いたいの?」
「内緒さ」
高市の瞳の奥が悪戯っぽく光った。内緒の代わりに、十市にも歌を強要しない。詠いたくなったら詠えばいい、詠いたくなければ詠わなければいい。ただそれだけのことだ。
十市は思った。いつか、この人のためだけに詠おう、と。
十市は、この晩の出来事を知らない。
この晩、1本の長槍が天皇の御前に突き立てられた。八尺ほどもあろうかという長槍が、雅やかな宴席を一瞬にして修羅場に変じさせたのだ。
「おのれ……大海人、血迷うたか!」
怒髪天を貫くほどの形相で天皇天智が勢いよく立ち上がる。群臣は震え上がった。それでも皇太弟大海人皇子は一歩も引かない。或いは雷のように突如降りかかった戦慄が壮年の肉体を凍りつかせたか。
「お待ちくださいませ!」
内臣中臣鎌足の悲鳴ともつかない叫喚に、兄弟は我に返った。
発端は去る5月5日、蒲生野薬猟の後に行なわれた宴でのことだった。その場で交わされた大海人と額田王との相聞歌が、どうにも天智には気に入らなかったらしい。それもそのはず、額田は天智の妃なのだ。
野守は見ずや——。
蒲生野で額田に袖を振る大海人。その姿を野守に見られはしないかとやきもきする想いを、額田は歌に込めたのだという。
「野守とは朕のことか」
臣下同士の他愛ない噂話。だが、それを一番聞いてはならない相手の耳に届いてしまった。
「答えよ、大海人。朕に隠れてこそこそと逢い引きし、朕を陰で嘲笑っていたのであろう」
大海人は兄を見据えた。口をきつく閉じている。答える道理はないとでも言いたげだ。その高邁な態度がいちいち癇に障るのだろう。天智はさらに挑発する。
「女を盗られた腹いせか」
やはり口を閉じたまま大海人は兄から眼を逸らさずにいる。確かに、額田は自分の妃だった。娘も一人産ませている。それを兄が奪ったのだ。兄が憎かった。そのときは——。
「いいえ」
ようやく大海人が重い口を開いた。兄を捉えて逸らさぬ眸は憎しみなのか。
「では、なんだと申すのか」
天智の形相は変わらない。肩で大きく息をするさまが、彼の憤怒を象徴していた。大海人がまたも押し黙る。
自分でもわからなかった。いったいどうして兄の眼前に長槍を突き刺してしまったのか。愛妻を盗られた恨みだろうか。いや違う。大海人は四十路に近づいている。恋愛感情で理性を失うほど暗愚な男ではない。仮にも天皇の片腕皇太弟として政に携わる大海人が、たかが女ひとりのために自らの命を危険にさらすような真似をするわけがないのだ。ならば、いったい何故……。
「朕を殺そうとしたのではないのか」
天智の声色は殺意に満ちた。それを腹心鎌足がいち早く察知する。
「天皇! しばし、しばしお待ちあれ!」
これほどまでに狼狽する鎌足を、かつて誰も見たことはなかった。泰然自若、何があっても動じずに対処してきた彼は、天智の最強の懐刀である。その鎌足がこうまで取り乱しているのだ。血を見ずには終わらない。その場にいた誰もが腹を決めねばならなかった、そのときだ。
「君待つと我が恋ひをれば我が屋戸の簾動かし秋の風吹く……。まぁ、天皇、まだこのようなところにおいであそばされたのですか?」
殺伐とした宴に華麗なる芳声を撒き散らせながら現れたのは、今は天智の妃額田王。当代随一の女流歌人だ。齢を感じさせない妖婉なその身のこなしは、一同の関心を瞬時に奪った。
「天皇のお渡りを今か今かとお待ち申し上げておりますものを」
どよめく臣下らを尻目に、額田は大胆にも御前へと近づいてゆく。額田の出現によって誰よりも安堵したのは鎌足であろう。彼は天智のほうを向き直した。
「天皇。いつぞや、春山万花の艶と秋山千葉の彩の、どちらが優れているかと問われたことがあらせられましたな」
ぎろりと目線だけを向けながらも、天智は寵臣鎌足の言うことには一応聞く耳を保っていたようだ。それも相まって鎌足の口調は、先程までとは変わって穏やかになっていた。
「いかがです。折角額田さまがいらしたのですから、この場で判じていただくというのは」
同時に、天智の表情が和らいだ一瞬を額田は見逃さなかった。
「よろしゅうございます。この額田めが詠い申し上げましょう」
額田の言葉に天智はゆっくりと腰を下ろした。大海人も静かに席に戻る。宴は水を打ったように静まり返った。
次回は第2話「歌姫の娘」です。
【用語解説】
◎皇太弟
『日本書紀』では大海人皇子のことを「皇弟」「大皇弟」などと表記してありますが、地の文ではわかりやすいように「皇太弟」としています。
※台詞はこの限りではありません。