続・スマトラの旅人 (マラッカ王国の夢)
1、旅立ち
海の彼方から近付いて来る小さな点は2つに分かれ、やがて船に姿を変えて浜に着岸した。
浜でにぎやかにおしゃべりをしながら待っていた子供たちや女たちが船に近づくと、一方の船から若い男が飛び降りた。
「善吉、今日はどうかね?」
女の1人が若い男に声を掛けた。善吉と呼ばれた男が答えた。
「大漁だぜ。」
ここは瀬戸内に浮かぶ小島。時代は室町時代の半ば。
女たちが籠を手に船の横に行き男たちが魚をその中に入れると、彼女たちは籠を頭の上に乗せて村の方へと歩き出した。空ではトンビが輪を描いて飛び、海の上ではカモメが隙あらばと狙っている。
村の広場に持ち込まれた魚は各戸に平等に配られる。小さな社会主義的な共同体と言ってもいい。この島では米は栽培できないので時々本土へ行って魚と交換するが、それ以外は野菜も含めほぼ自給自足だ。
男たちは畑を耕し漁に出るが、ある者たちは船で遠方に出かける。いわゆる和寇と呼ばれる男たちだ。
善吉の兄の善次も和寇で、父親も和寇だったが今は辞めて畑を耕している。通常、和寇に出るのは一家で1人だ。一度外に出ると無事に帰れるとは限らない危険な海で一家の男を全て一度に失う訳にはいかないからだ。大抵、長男は家を守り次男か三男が外に出る。
善吉は兄が外に出ているので、通常は出られない。小さいころから父に遠くの知らない国について聞かされて育った彼は、外の海に行ってみたくてしかたがなく以前から兄に頼んでいるが聞き入れてもらえない。
善次は25歳の次男で結婚して子供も設け隣の家に住んでいて、今は長い航海から帰って来て家でくつろいでいる。19歳になった善吉は三男で両親と長男の善一とその家族と暮らしている。
ある夜訪ねてきた善次は善吉に突然切り出した。
「お前、前から外へ行きたがってたけど行ってみるか?」
善吉は驚いて聞き返した。
「ええ?いいのか?」
「実は同じ船に乗っていた弥太郎が怪我をしちまってしばらく出られない。奴が出られない間の代わりだ。親父にも船長にも話して了解は取ってある。お前さえその気なら次の遠征に連れて行ってやる。どうだ?」
「行く、行く!ずっと前から行きたかったんだ。知ってるだろ?行かないわけがないぜ。」
「じゃあ、出発は四日後だ。準備をしとけ。」
「準備って?何をしたらいい?」
「まあ、食い物や水はこっちで用意するから。お前の服とか身の回りのもんだな。」
そう言うと善次は帰って行った。
その日から善吉は何も手に付かない状態で、心配している母親が何を言っても上の空だ。
四日後、両親と善一に見送られて善吉は兄善次と船長、もう一人の乗員と4人で島を後にした。いつも漁に使っている小舟と比べるとずい分と大きい。善吉の胸は不安と期待とが入り交じり何とも言えない高揚感に包まれていた。
兄が善吉の横まで来て言った。
「いいか。外海に出ると、瀬戸内の海とは比べ物にならない大きな波がくる。何が起きるか分からない。
しけにでも会ったら生きた心地はしねえ。怖がらすつもりは無いが覚悟だけはしておけよ。」
「ああ、分かったよ。」
「その時になって泣きっ面するんじゃねえぞ。」
関門海峡を抜け玄界灘に入ると船は大きく揺れ始めたが、やがて博多の港へ入った。初めて見る博多の町は島から出たことのない善吉にとっては別世界で驚きの連続であった。
大きな通りには店がどこまでも続き、行き交う人の多さに、海では酔わなかった善吉だが人並みに酔って目が回りそうになった。
「善次にい、オレちょっと休みたいよ。」
「なんだ。お前怖気づいたのか?まあ初めてだからしょうが無い。オレも初めて来たときは度肝を抜かれて歩けなくなっちまったもんだ。ちょっと休もう。あそこに団子屋がある。お前食ったことないだろう?うまいぞ。団子を食いながら休もう。」
出てきた団子は串に刺されていて、甘く今まで食べたことのないおいしさだった。
「兄い、うまいなこれ。こんなにうまいもんがあるなんて知らなかった。」
「そうだろ。まだまだ見たことも食ったことも無いもんがいっぱいあるぞ。
ここにしばらく居ていろいろ仕入れるからお前もいっしょに来て憶えろ。」
博多には2週間ほど滞在して、反物や焼き物などを仕入れ食料品も買い込んだ。
善吉はずっと善次といっしょに回り、見て触って聞いて何でも吸収しようとした。最後に近づいたある日、善次は善吉に言った。
「今日はお前が仕入れて見ろ。これがいいと思うもんを見つけて値段の交渉をするんだ。オレが見ててこればダメだと思ったら止めに入るから、それまでは好きなようにやってみろ。」
善吉の胸は高まった。善次に付いて回って見ていたと言ってもまだ全くの素人だが、兄がやってみろと言ってくれたのが嬉しかった。
焼き物に決め何軒かの焼き物屋を回り、ここと思う店でいろいろ見たがどれがいいのか分からなくなってきた。
「自分の目を信じろ。」
善次が傍で言ってくれ、それに勇気づけられた善吉は迷った挙句何点かの焼き物を選んだ。
次は値段交渉だ。たぶん若い自分は見くびられていると思い、店主が言った値段の三分の一の値段を言ってみた。
「お若いの、そりゃあ無茶を言うもんだ。あっしがそんなあこぎなことをするとお思いかい?あんた物の値段を知らないのかい?」
善吉は気後れを感じたが、何とか粘って半値近い値段になった時に手を打った。善次は最後まで止めには入らなかった。店を出た後、もう一度買った焼き物をよく見た後善次は言った。
「まあ、悪くない。値段もそんなもんだろう。初めてにしては上出来だ。」
善吉は飛び上がりそうな程の喜びを抑えて笑った。
博多の港を出た船は東シナ海へと進んだ。船は木の葉のように大きく揺れ何かを持たずにはとても立ってはいられない状態だったが幸いしけには会わずに一週間後、明は福州の港へ入港した。
福州の町は博多とは更に桁違いに賑わっていて、道行く人は勿論華人で話す言葉は喧嘩でもしているように騒々しい。時には華人とも全く異なる、どこか地の果てからでも来たような異様な姿をした男も見かける。
善次は少し明の言葉を話すがとても商売で使えるほどではなく、春児という若い男が通訳をしてくれた。年のころなら善吉を同じくらいか。何でも爺さんが日本から来て住み着いたらしい。
善次は博多で仕入れたものを売りさばき、新しく明の物を仕入れるのに忙しく歩き回り、喜吉と春児はいつもいっしょに付いて歩いた。
春児が聞いた。
「お前、見たことの無い顔だが初めてかい?」
「ああ、そうだよ。見るもんみんなが珍しくて楽しいよ。」
「そうかい?まだ見習いだな?まあ頑張りな。」
「ああ、そうだな。」
善吉は春児に明の言葉を教えてもらえないか頼んだら、快く引き受けてくれ毎日仕事の終わった後1時間ほど教えてくれるようになった。
「こっちの言葉には四声っていうのがある。これが一番大事なんだ。」
最初の1週間程はその四声と発音の練習ばかりやらされた。
「もっと、何か役に立ちそうな言葉とかもっと教えてくれよ。」
「いや、今はこれが一番大事なんだ。言葉は後からいくらでも覚えられる。」
一週間程すると善吉の喋る言葉はこちらの言葉らしく聞こえるようになった。それからは言葉の並べ方や単語などをどんどん教えられた。
町を歩いている時も見る物全て教えられた。すぐには覚えられないので常に紙と筆を持ち歩いて、漢字は春児に書いてもらい、読み方を聞いてそれをカナと四声は自分なりに分かるように書き込んだ。
善吉の言葉はみるみるうちに上達して、2週間も経ったころには善次よりはるかに上手になった。
「お前、そんなにここの言葉勉強して、ここに住み付くつもりか?」
と、善次は時々からかう。そんな気は無いが、せっかくのこの機会に出来るだけいろいろな事を学び、島に帰って次に出る時には「こいつがいないと困るな」と言われるようになりたい。
仕入れや手続きなどに手間取り福州には一カ月以上滞在することになり、善吉と春児はすっかり仲良くなった。春児は善吉より一つ年上だった。
「お前の爺さんが日本から来たころは苦労しただろうな?」
善吉は聞いた。
「ああ、そうだろうな。今でも俺たちはまだよそ者さ。華人でもないし、かと言って日本人でもない。いつもは店で働いて、時々こうして日本の船が来た時手伝ったりしてるけど、これからどうなるかって時々思うよ。」
「日本に帰りたいと思ったことは無いかい?」
「それは無いな。オレはもう日本人じゃないしな。それよりもっと遠くへ行ってみたいな。お前、天竺って聞いたことあるか?」
「ああ、お釈迦さんが生まれたところだろう?オレは仏さんの教えなんかあんまり知らねえし、興味もないから天竺のことなんか考えたことは無いけどなあ。」
「オレだってそうさ。ただ遠くの知らない所を見てみたいんだ。爺さんが日本からこっちに来た時みたいにな。」
「お前、爺さんの血を引いてるんだな。おれも生まれ育った島にずっといて、いつか船に乗って遠くへ行ってみたいとずっと思ってたんだ。今来られたのはたまたまなんだ。船に乗ってた1人が怪我してその代わりなんだ。だから島に帰ったらまた出て来られるかどうか分かんないんだよ。」
「そうなのか?じゃあ、このままここに住むってのはどうだい?」
「そういう訳にはいかないよ。母さんを悲しませるからな。」
そんな話をしながら天竺という言葉がするりと善吉の胸に入り込んで住み着いた。
2,襲撃
福州に到着してから一カ月少し経ったころ、ようやく出帆することになった。春児との別れは寂しいのもがあった。
「じゃあ、またいつか天竺で会おうぜ。」
善吉が言うと、春児は
「じゃあ、どっちが先に天竺に着くか競争だな。」
と笑って返した。
福州を出た船は大陸に沿って南へ向かい、チャンパを目指した。大陸が見えたり見えなくなったりを繰り返し何日も海の上を進んだ。
ある時は嵐に巻き込まれそうになり、明の南方の小さな港に避難した。
そろそろチャンパに近づいた頃、2隻の船に出くわした。船は商船ではないようで武人が多数乗っていて、一部の男は弓矢をこちらに向けている。
善吉が弓に矢を当て相手の方に向けると善次が怒鳴った。
「バカ、何してる。戦でも始める気か?」
善次が弓矢を善吉の手から取り上げようとした時、手が滑って矢が放たれた。放たれた矢は相手の船の方に力無く飛んで行きその手前で海に沈んだ。
だがそれで充分だった。次の瞬間、相手方から矢が何本も放たれ、舳先に居た二人に当たった。善次が善吉を船内に突き飛ばし
「お前はここに居ろ!」
と叫ぶと二人を助けようと舳先の方へ行った。敵の放った矢が善次の足に命中し、善次は転げ回った。善吉は何もできず船室の影で固まっていた。
時を移さず敵の船は近づいて来て、剣を携えた兵士が数名乗り込んで来た。1人が船室まで来て善吉の前に立った。
善吉はその男に向かって飛び掛かったが、次の瞬間何か硬いもので頭を殴られ気を失った。
それからどれくらい時間が経ったのだろうか?善吉が目を覚ますと暗い部屋に横たえられていた。
どうやら船の上のようだ。手は後ろ手に縛られ、足も縛られていて動けない。
更にそれからどれくらい時間が経過しただろうか?途中二度だけ食べ物を与えられ、水は時々与えられたがそれ以外は横たえられたままだ。
時々兵士が見回りに来る。恐怖が勝っているせいか不思議と空腹感は感じない。
もう何日経ったか分からなくなったころ、船は止まり少し揺れてどこかに着岸したようだ。
外から大勢の人の声が聞こえるが全く聞いたことのない言葉だ。
しばらくして1人の男が入って来て足の紐を解き、善吉を立たせると連れ出した。急に明るい外に出て目が眩んだ。
船から降ろされ30分くらい歩いた後、建物の中に入り廊下を行くと鍵の掛けられた部屋がいくつか並んでいて、その中の一つに入れられた。
中には既に3人の男が入っていて、その中の1人が声を掛けてきたが何を言っているのか分からない。日本語で答えると怪訝な顔をして黙ってしまった。
善吉は座り込んだ。部屋はすえたようなかび臭い臭いが充満していて息が詰まりそうだ。これからどうなるのだろう?殺されるのか?船に居た三人はどうなったのだろう。
善吉は先の見えない不安に飲み込まれた。ただ船の中よりましなのは食べ物と飲み物を日に二回与えられることだ。もちろん美味くはないが、まずい食べ物には慣れている。
二日ほど経ったある日、善吉は牢から連れ出されて土間に座らされた。1人の男が声を掛けてきた。日本語だ。
「お前たちが矢を射かけて来たそうだな?なぜそんなことをした?」
「射るつもりじゃあなかったんだ。ただちょっと手が滑って。そしたら行き成り山ほど矢を射られたんだ。みんなどうなっちまったんだろう?」
「そうか?船の乗っていた者たちはお前たちの方から攻撃したと言っているぞ。」
「だからそれは間違って1本の矢を射てしまったんだ。1本だけだ。それすら船には届かなかったんだ。聞いてくれ。」
「そうか。攻撃する気は無かったんだな?間違いないな?」
「間違いない。」
「分かった。幸いこちらには怪我人は出なかったことだし、少し罪を免じてもらえるように頼んでみよう。」
「あんたはいったい・・・?」
「それはどうでもいい。」
善吉は牢に戻され、翌日再び連れ出された。昨日の男も居た。
「私といっしょに来なさい。」
男は言うと歩き始めた。
「私はお前を奴隷として買った。もし逃げ出したら、それこそ命は無いぞ。」
オレは奴隷になったのか?善吉は目の前が暗くなるのを感じた。
「心配するな。奴隷と言っても形だけだ。お前が逃げ出したりしなければ何も心配することはない。」
「なんでおいらを助けてくれたんだ?あんたはいったい誰なんだ?」
「私も昔日本からやって来た。和寇の一味を捉えたという噂を聞いてやって来たんだ。」
「で、ここはどこですか?」
「ここはマラッカだ。」
建物の外にでるともう一人男が居て、二人の男は何か喋ったがこちらの言葉だろう、何も分からなかった。兎に角助けてもらえようだし、今は大人しくしているしかないだろう。
いずれ隙をみて逃げ出せるかもしれない。1人は前を歩き、迎えに来た男が斜め後ろを歩いた。
3~40分歩いただろうか?一軒の家の中に入って行くと、中から大勢の男と女が出てきた。
「まあ、座れ。」
1人の若い娘が日本語で尋ねた。
「大変だったでしょう?でもなんでそんな事したの?あんたワコウなの?」
「オレはワコウだ。でもさっきもこのおっさんに言ったけど、間違いで矢を一本射てしまっただけで、攻撃しようとした訳じゃないんだよ。」
「お父さんのことおっさんって言ったわね。」
「君は娘さんか。別に悪い意味で言ったんじゃない。オレたちがいつも使ってる言葉だ。
で、乗っていた3人はどうなったか知ってますか?」
と男に聞いた。
「いや、残ったのはお前1人だと聞いてる。誰が乗ってたんだ?」
「オレの兄貴がいっしょでした。」
そういうと、善吉は目を伏せた。オレのせいで兄貴も他の二人も死んだんだ。
オレが兄貴を殺したようなもんだ。善吉は自分のしたことの重大さを今改めて思った。
娘が話し掛けた
「お腹が空いてるでしょ。今母さんがご飯持ってくるわ。食べたら水浴びしなさい。」
持って来てもらった水を飲みご飯を食べた後、水浴びをして座ると急に眠くなってきてうつらうつらと舟を漕いだ。
「眠たいみたいね。離れで寝なさい。」
娘がそう言って離れまで連れて行ってくれ、善吉は中に入り横になると深い谷底に落ちるように眠りについた。
どれくらい眠ったのだろう?目が覚めると外は薄暗い。夕方になったのかと思ったがどうやら明け方のようだ。
ずい分と寝たものだ。しばらくすると日本語をしゃべる男が朝ごはんを持って現れた。
「随分と気持ちよさそうに寝てたな。よっぽど疲れたんやろ。」
「はい、牢の中では良く眠れなかったもんで。」
「まあ、まずは食べろ。」
食べながら喜吉は聞いた。
「おじさんは・・・おじさんでいいですか?」
「何でもええ。」
「おじさんはいつここに来たんですか?和寇ですか?」
「いや、和寇やない。シュリービジャヤに居たころマジャパヒトに攻撃されてここに逃げてきたんや。もうえらい前になるなあ。」
「シュリーヴィジャヤですか?オレ昔親父にシュリーヴィジャヤで日本人に会ったことがあるって話聞いたことあります。」
「え!!?・・・シュリーヴィジャヤでか?お前の親っさんはなんていう名前や?」
「オレの親父は政吉と言います。」
「え!!政吉・・・お前あの政吉さんの息子か?」
「はい、父さんを知ってるんですか?」
「おお知ってる、知ってる。
おーい、ライナ」
大きい声で呼んだが誰も来ないので男は出て行き、すぐに日本語を喋る娘と年配の女性といっしょに帰って来た。この女性がライナと呼ばれた女性か?
ライナは感極まったような目で喜吉を見ている。
「そういえば政吉さんに似てるな。」
と男が言った。
ライナが何か言った。
「似てるって。」
娘が訳した。
「政吉さんは無事に日本に帰れたんやなあ。」
「でオジサンは・・・」
善吉が言いかけると
「ヒロシや。ヒロシでええ。これはオレの嫁でライナ。こっちは娘でユシ。オレが日本語を忘れたくなくて喋りかけてたら喋れるようになってん。息子は全然やけどな。それでお前は政吉さんが日本に帰ってから生まれたんか?」
「はい、親父が帰ってしばらくしてから生まれたって聞いてます。」
「そうか、じゃあユシよりちょっと年上だな。」
「ヒロシさんは和寇じゃなかったらどうやってシュリーヴィジャヤまで来たんですか?」
「う~ん、それはまあいろんな船を乗り換えてな。」
ヒロシは答えた。
「じゃあ、ここから日本へ帰ることもできるんですか?」
「いや、ここに日本の船が来る事も無いし、日本へ行く船も無い。まあ、チャンパか福州まで行ったら、日本の船も来てるかも知れんけど、簡単やないで。
第一お前は奴隷や。かってにそんなことはでけへん。
で、お前和寇船に乗って長いのか?」
「いえ、実はこれが初めてなんです。」
「そうか、新米か。それでえらい目におおたな。」
「新米ですけど、商売は出来ます。明の言葉も喋れるし。」
「明の言葉喋れるの?ここには明の人が何人か居るわよ。私も知ってるから今度紹介してあげるわ。」
とユシが言った。
「いや・・・そんなに喋れるという程じゃあないよ。片言程度だよ。」
「でもここであなたと喋れるの、私とお父さんだけでしょ。明の言葉が喋れたらいろんな人と喋れるわよ。」
「うん、そうだね。」
明の人間なんか居ないだろうと大口を叩いたのを少し悔やんだ。とても喋れるという程じゃあないのだ。
ヒロシが言った。
「お前、商売できるって言ったな。オレもここで商売してるんや。オレの商売手伝うか?」
「ええ・・・はい。」
また大口を叩いてしまったと善吉は思った。だが、今はここで出来ることをするしかないと思い直した。
3,新たな日々
その日の夜、ヒロシは娘のユシと妻のライナともう1人の女性を連れてやって来た。
「これは、サリ。サリもいっしょにシュリーヴィジャヤから政吉さんの船に乗せてもろて、ここまで来たんや。それで、政吉さんは元気にしてるんか?」
「はい、もう遠くには出掛けないけど、毎日漁に出たり畑を耕したりしてます。
小さいころ親父からよくヒロシさんのことなんかも聞きました。シュリーヴィジャヤに居た時にどこかの国に攻められて、いっしょに逃げたって言ってました。」
「そうか、懐かしいなあ、あの時はどうなるんやろうって思たわ。政吉さんにまた会いたいけどなあ。」
その頃の事がヒロシの脳裏に最近の事のように蘇った。
政吉と別れた後しばらくして近くに小さな家を建て、ライナとその母、ライナの上の兄ウングルと下の兄アリエフ、貧民街で知り合ったサリと二人の子供たち、そしてヒロシの8人でいっしょに住み始めた。
生まれて初めて畑も耕したし、王宮や町を作るのにも駆り出された。
そして、ウングルの知り合いの商人に弟子入りして働かせてもらうようになったが、なんとか暮らせるようになるのもなかなかだった。
町や港が少しずつ整備され、マラッカ海峡を通る船が立ち寄るようになり商売も少しずつ軌道に乗り始めた。
ライナの母さんはここに来て1年ほどで亡くなり、ライナの兄、ウングルとアリエフはその後しばらくして結婚した。
マラッカに来てから三年程経ったころヒロシはライナと結婚した。
ウングルにも子供が生まれサリの子供たちも大きくなって家が手狭になったので、結婚を機にヒロシは隣に小さな家を建て、サリたちといっしょに住むようになった。
何年か過ぎると、地の利もあり多くの船が寄港するようになり町は栄えヒロシも商売を覚えてなんとか家族を養えるようになった。
栄えるようになったと言っても、まだまだ小さな国で常にマジャパヒトや遠くはタイのアユタヤ朝の脅威にさらされ続けた。
また、スマトラ島の北の端にあるパサイや天竺、アラブなどからも人がいっぱい来るようになりイスラムと呼ばれる新しい宗教を広め始めた。
しばらくして王もイスラム教に改宗し多くの民も改宗したが改宗しない人達も多く、ヒロシたちも改宗しなかったがそれで不都合なことはなかった。
他国の船がマラッカへ来るだけではなく、マラッカの船も各地を回り貿易をするようになった。
ヒロシは港の近くに店を持つようになりその裏に家も建て、子供も4人、男が二人と女が二人できた。元の家にはサリが息子夫婦に孫といっしょに住んでいる。
ヒロシは我に返り、ライナに話しかけた。
『懐かしいなあ、政吉さんにまた会いたいなあ。』
ライナが答えた。
『そうね。今思い出してもあの時はすごかったね。よく無事だったと思うわ』
『ああ、オレもここまで逃げて来たけど、どうやって生きていけるか分かれへんかったわ。もし、あの時、日本に帰ってたらどうなったんやろなあ?』
『善吉といっしょに来て、ここで再会したりしてね。』
『もうお前は誰かと結婚してるのんか?』
『そりゃあそうよ。いい人とね。』
『まあ、オレはここに残って良かったわ。ライナが残れって言うてくれたからなあ。』
『うそ、ヒロシが(オレ、ここに残るよ)って言ったんじゃない。』
『そんなこと言うたかなあ。まあ、ええわ。あの時は大変やったけど、なんかワクワクもしてたなあ。』
『そうね、あれからなにもかもが始まったんだものね。』
サリが口を挟んだ
『ほらほら、あんたたち。いつまで夢見てるみたいな顔して喋ってるの?
でも、本当だね。今から思えば夢の中に居たみたいだったね。』
善吉は彼等の話は全く分からなかったが、なんとなく暖かい気持ちになり野原に飛び交う鳥の声を聞くように聞いていた。
ユシには兄が1人と弟が1人、妹が1人いた。その中で妹のリニは日本語をほんの少し喋るがちゃんと会話になるのはユシ1人だった。
翌日から喜吉はヒロシに付いて商いの手伝いをするようになった。ユシの兄のルトフィーともうひとりサリの息子がヒロシといっしょに働いている。
仕事の指示はヒロシから受けるが、ヒロシがいつも居る分けではなくヒロシが居なくなると他の人とは全く言葉が通じない中、なかなか役には立てそうにない。
家に帰って食事を終えると寝るまでの短い時間、ユシにマレー語を教わり始めた。
一日に何回か、お経のような声が町中に響き渡る。
「あれ何?」
とユシに聞いた。
「あれは、コーラン。イスラム教のお経よ。ここはイスラムの国なの。仏教徒もたくさん居るけどね。」
コーランの声を聞くと、日本や明とは違って遠い異国に来た実感がする。イスラムの女の人は頭に布を被っていて、男も女も一日に何回かは聖地に向かってお祈りをする。
一カ月程過ぎるとマレー語も片言ではあるが喋るようになり、ヒロシが居なくても店の人から指示を受けられるようになって仕事も少しずつ覚えた。
毎日仕事に追われ、覚えることも山ほどあって忙しい日々を過ごした。
ユシともよく喋るようになった。
「善吉、日本に帰りたい?」
「そうだな。そりゃあ帰りたいと言ったら帰りたいけど・・・
でもオレが兄貴を殺したんだ。今更、どんな顔して帰れるんだ。もうみんなオレのことも死んだと思ってるさ。もう帰れないよ。」
「そんなことないわよ。兄いさんが死んだのはあなたせいじゃないわよ。」
「何も知らないくせに!!」
ユシは黙った。
「ごめん、大きな声出して。でもやっぱりオレのせいなんだ。
島のみんなはどうしてるんだろうな?」
「私も日本に行ってみたいなあ。でも無理よね。日本って、どんなとこ?」
「う~ん、そうだな。冬は寒い。海に出ると、凍えそうだよ。」
「寒いんだ。じゃあ、ここの方がいね。」
「ここは暑いよ。日本は冬は寒いけど、春や秋は気持ちいいよ。一年でいろいろ変わるんだ。
日本に居た時は親父の話なんか聞いてどこか遠くに行きたいなっていつも思ってたんだけどね。今こうして日本を遠く離れたところに居るのが何か信じられないよ。でもここで頑張らないとな。」
「そうよ、随分マレー語も上手になったし頑張ればここでやっていけるよ。父さんは日本からここに来て頑張ったの。」
「ヒロシさんはすごいよなあ。オレなんかまだまだだな。自信はないよ。」
「善吉なら大丈夫よ。」
月に一回ほど休みを貰えて、休みの日はたいていユシに連れられて町を散策したり、華人街に行ったりした。
初めて華人に会った時に喜吉の明の言葉があまり通じないことをユシに見破られてしまった。
それでも華人の食堂へ行くと、懐かしい福州の料理が味わえるのが楽しみになった。
港にはいろいろな町からの船が出入りする。遠くは明や天竺やセイロン、アラブからも船が来る。天竺からの人は顔つきが全く異なり、ひげを生やしたり頭に布を巻いたりしている。
ヒロシは学生時代、インドネシアの地理や歴史についても多くの書物を読んで知識を持っていた。
今では既に記憶が曖昧になった部分も多いが、残っている知識をこの時代の人間に教えてもいい範囲で善吉に教えた。また算術も教えた。
善吉が時々華人街へ行ったり店に来た華人と喋って明の言葉を覚えようとしているのをむしろ後押しした。
この時代、もうしばらくすると、明の鄭和による何十年にも及ぶ大遠征が始まる。
その遠征は何回にも渡って実施され、その範囲は東南アジアは勿論、インド、アラブ、遠くはアフリカ東海岸にまで及び、東南アジアに於ける明の影響力は格段に高まるだろう。
明の言葉を喋ることができることはこの先強みになるに違いない。
一年程過ぎたころ、ヒロシは善吉に尋ねた。
「善吉、日本に帰りたいんやないのか?
もうお前のこと、奴隷やなんて思てない。その気になったら船を乗り継いで、日本に帰れんことは無いとは思うで。」
「いや、もう帰りません」
「そうか。それやったらええねんけど。家族に会いたないんか?」
「そりゃあ、やっぱり会いたいけど、もう帰れません。それに今の生活は刺激があってやり甲斐があるんです。」
「そうか、分かった。お前がここで働いてくれて助かってるねん。」
善吉は忙しく働き、商いも覚えマレー語も問題なく喋れるようになった。
ヒロシと喋る時は日本語を使うが、ユシと喋る時はマレーを使う事の方が多くなった。特にだれか他の人がいる時はマレーを使う。
華人街にも通い華人たちとも話して、明の言葉も上達した。
ある日、ヒロシが善吉に言った。
「日本から船が来てるらしいぞ。」
「えっ?日本からですか?」
「ああ、琉球からだ。」
「琉球って日本と明の間にある小さな国ですよね?」
そうか、この時代琉球は日本ではないのか。ヒロシは当たり前のことを思い出した。
港へ行き琉球の船に居る人間に日本語で話しかけてみたが全く通じない。琉球人同士で喋っている言葉はマレー語や騒がしい明の言葉とは異なり日本語に似てはいるが別の言葉だ。
改めて琉球は日本とは別の国なのだと感じた。しかし、着ているものは日本の着物に似ていてどこか親近感を覚える。
彼等の一人はマレーを少し喋れて、ヒロシの店にもやって来た。
「私、日本から来たんですよ。」
とヒロシが言うと驚いた。
「へえ、私らも随分遠くから来たと思ってたけど、まだ上がいるんですね。ここで商売を?」
「ええ、もうここに住んで長いですわ。家族も居るしね。この善吉も、日本から来たんですよ。こいつはまだここに来て2年くらいやけどね。」
「そうですか。日本には帰らないんですか?」
と善吉に尋ねた。
「もう、ここが故郷って感じですね。日本は遠いし、ここが楽しいですよ。」
と善吉が答えた。
彼等は何回かヒロシの店にやって来たが、しばらくして港を出て行った。
そんなある日、ヒロシは善吉に話しかけた。
「お前、船に乗って出かけたくないか?」
「え?!出掛けるってどこにですか?」
「まあ、スマトラや、ジャワ、遠い時にはティモールやマカッサルなんかも行くこともある。船に乗っていろんな国や町に行って商売をするんや。お前も和寇やってたんやから、得意やろ。と言うか好きやろ。どうや?」
また船に乗っていろんな町に行けるのかと思うと心がときめいた。
「行きたいです。でもヒロシさんや、ルトフィーは行かないんですか?」
「オレはもう年やし。ここへ来た時はそれどころやなかったしな。」
「まだ若いじゃあないですか?オレの親父なんかヒロシさんの年のころはまだまだ海に出て遠くに行ってましたよ。」
「そうやな。オレが会うた時、政吉さんはちょうど今のオレくらいやったな。せやけどオレは長いこと店空けられへんわ。ルトフィーには何回か言うてんけど、あんまり行きたがれへんわ。
行きたないもんに無理に行かせてもしゃあないし、行きたいもんが行ったらええわな。やりたいことやって生きていったらええねん。」
「じゃあ、オレ行きます。いつ出発ですか?」
「いや、まだそんなすぐやない。まずは船長に会わすわ。お前も会うたことあると思うで。時々この店にも顔を出す奴や。」
数日後、善吉はヒロシに連れられて港へ船長に会いに行った。船長はサフリンといい前に会ったことのある人だった。
「善吉を連れて来たで。遠く日本から来たんや。オレといっしょや。
この人がサフリンや。もともと海の人でな。この船が家や。」
「海の人って海賊ですか?」
と善吉が言うとサフリンは笑って答えた。
「違う、違う。オレたちは魚を取りながら平和に暮らしてるんだ。シュリーヴィジャヤの人たちがこの町を作る時もいっしょに作ったんだ。仲間の中には丘に上がった奴もいるけど、オレはやっぱり船の上がいい。外から帰ってきてもこうやって船の上で暮らしてるんだ。」
オラン・スラットと呼ばれている水上生活者達だ。サフリンは続けた。
「ところで、お前ワコウだったらしいな。随分と乱暴なこともしたんだろうな?」
「してませんよ。オレたちは商人だから。
でも漁師もやってたし、海には慣れてます。」
「そうか、その方がいい。オレたちは戦をしに行くわけじゃあねえ。商いをしに行くんだ。ちょうどお前のような若い奴が欲しかったんだ。出発は3日後だ。行けるか?」
「はい、オレは大丈夫です。」
善吉はそう言いながらヒロシの顔を見た。
「ああ、行ってきたらええ。せやけど気ぃ付けるんやぞ。サフリンの言うことをよう聞いてな。それからええ物をどっさり仕入れて来るんや。」
善吉は家に戻っても落ち着かなかった。昔、善次に言われて初めて島を出た時のことを思い出した。
あの時の高揚感とそしてその後で起きた辛い思い出が同時に頭の中で走馬灯のようにグルグルと回った。
その夜、夕食が終わった後ユシに話し掛けた。
「オレ、サフリンさんの船に乗って出かけることになった。」
「えっ?いつ?どこまで行くの?」
「出発は三日後だ。どこまで行くかは聞いてないんだ。いつ帰って来るかもな。」
「そうなんだ。行っちゃうんだ。たぶん何カ月も帰って来ないよね?」
「たぶんな。でも帰ってくるから。」
「そう?でも日本には帰らなかったじゃない。」
「あれは・・・」
善吉は目を落とした。
「ごめん、余計なこと言っちゃた。」
「いや、いい。今度はそんなに危ないことはない。」
「本当?」
「たぶんな。」
「みんな行っちゃうのね。善吉は店で働いてるからもう行かないのかと思ったけど。」
「ヒロシさんに勧められたんだ。」
「お父さんが?そうなんだ。絶対元気で帰って来てよね。」
「ああ、約束する」
それから二日間、善吉は期待と不安の入り交じった気持ちで忙しくも落ち着かない日を送った。ヒロシから彼の地で売りさばく品々や銀貨を渡され、仕入れる物を教えられた。
「あとは自分の目で選んで買ってこい。せやけどたぶらかされるんやないぞ。まあ、サフリンが居るから心配は無いやろうけど。気張れよ。」
そして三日目の午後、ヒロシ、ルトフィー、ユシに見送られて船は港を後にした。
だんだん人影が小さくさり、やがて港も見えなくなった。
善吉は両親や兄に見送られて故郷の島を出た時のことを思い出して思わず涙ぐんでしまった。それを見てサフリンが言った。
「なんだ、お前泣いてるのか?あの娘が恋しいって泣いてるんじゃあねえだろうな?」
「そんなんじゃあ、ないよ。ちょっと昔を思い出して。」
「そうか。お前も昔、故郷を出て来たんだってな。何があったかは聞いてるぜ。オレたちは危ないことはしねえ。前にも言ったが商いをしに行くんだ。何があってもこっちからは先に手を出さねえ。闘って勝つよりどうやって戦わずにすむかを考えるのが一番安全なんだ。」
サフリンの言葉が善吉の胸に染みた。そして気持ちを切り替えた。
「これからどんなとこへ行くんですか?」
「まずは、パレンバンだな。その後はジャワのスラバヤだ。」
「パレンバンって、ヒロシさんやライナさんが居た町ですよね。危なくないんですか?」
「危なくはねえ。昔は戦をしてたが今は商いをしてる。あそこも華人が大勢居ていろいろあるみたいだがな。まあ、仲がいい訳じゃあないが、心配することはねえ。」
善吉にとっては久しぶりの船だ。毎日漁に出て海を庭のようにして育った善吉にとって海の上は故郷に居るような穏やかな気持ちにさせてくれる場所だ。
船には屋根と簡単な壁があるが、夜になると風が入って来て以外と寒い。
丸三日掛かってパレンバンに着いた。
一週間程滞在して、その間商売の合間を見て町中を散策した。
パレンバンはマラッカよりも人が多く賑わっていて華人も多く、商売している人の多くは華人だ。
何でも華人同志が互いに争っているとのことだったが、外目には分からない。
ヒロシたちと父の政吉が出会った町かと思うと感慨深いものがある。出発前に船の中の防寒用に布を何枚か買った。
パレンバンを出てしばらくすると船はスマトラを離れ、ジャワ島に沿って東へ進んだ。
「次はスラバヤだ。スラバヤは何でもサメとワニが闘った後にできた町らしいぜ、」
とサフリンが善吉に言った
「サメとワニですか?」
「ああ、最後に勝ったワニっていうのが先祖らしいな。サメっていうのは海から攻めてきた奴らだろうな。いろんなところから船が集まってきて賑わってる。香辛料なんかもいっぱいあるぜ。」
パレンバンからの航海は穏やかで、右手にジャワ島らしい島影が見え隠れしながらすすんだ。
パレンバンを出て7日程経った日の夕方、沢山の船がひしめいている港に入った。どうやらスラバヤらしい。
「さあ、スラバヤだ。積んできた物を売って仕入れるぞ。善吉、馴染みの店に連れてってやるよ。そこならまああこぎな事はしねえだろう。まあ、オレもいるしな。」
手配した荷車に品物を乗せ、一人を残して三人でサフリンが言っていた店に向かった。通りは人で溢れ、天竺からも来ているのかそれらしい人も見かける。
「言葉は通じるんですか?」
善吉がサフリンに聞いた。
「ああ、地元の人間の言葉は違うんだが、店の奴や港にいる連中は大抵マレー語を喋るから大丈夫だ。」
途中、香辛料を売っている店もあった。
「ヒロシさんが香辛料を買って来いって言ってたけど。」
「ああ、マラッカへ持って帰ったら高く売れる。だが、今回はこれからマルクへ行こうと思ってる。」
「マルク?」
「ああ、クローブやナツメグなんかはマルクで取れるからそこで買う方が安く買える。だから、ここじゃ香辛料は買わねえ方がいいぜ。」
話しているうちに目当ての店に着いた。店に入ると奥から店長らしい男が出てきた。
「サフリンさん、久しぶりじゃあないか。元気そうで。」
「ああ、まだまだくたばれねえよ。今日は若いのを1人連れてきた。ゼンキチっていうんだ。」
「ああ、そうかい。若いな。名前も変わってるが、顔つきも少し違うな。何処から来なすった?」
「ワからです。ワコウしてました。」
「おお。ワコウかい。そりゃ随分遠いところから来たんだな。それで、お仲間は居ねえのかい?」
「みんな途中で死にました。」
「そうかい、それは大変だったな。それにしてもマレー語はうまいじゃないか。」
「もうマラッカに来て2年になりますから。」
「そうか。せいぜい良い商売して帰りな。」
一週間程滞在した後、スラバヤの港を出た船はジャワ島に沿って更に東に進んだ。
「マルクに向かうのかい?」
善吉はサフリンに聞いた。
「ああ、まず東に向かってそれから北に向かう。」
「遠いんだろ?」
「そうだな。かなり遠いな。マラッカからここまでと同じくらいかな。実はオレも一回しか行ったことがないんだ。マルクで香辛料を買ってマラッカで売りゃあ高く売れるんだ。今はもっぱら、アラブ人やインド人の船が行って買い付けてくるが、オレたちも黙って見てるほうはねえってもんだい。」
善吉もヒロシに教わってある程度の知識は身に付けている。
丸一日程すると船はジャワ島を離れ、いくつかの島に沿って何日か進んだ。しばらくすると右に梶を切り島と島の海峡を進み大きな島の南側を進んだ。今までとは少し違う眺めで綺麗な島だ。
「ちょっと、ティモールのクパンに寄って、水と食料を補給する。」
とサフリンが言った。
ティモールという名は何か不思議に魅力的に聞こえる。
一日程で、クパンの港に着いた。パレンバンやスラバヤに比べると小さい町で、行き交う人は今までと少し違い肌がやや黒っぽく、髪の毛がちじれている人が多い。
水や食料を補給している間、善吉は何軒かの店を回りイカットと呼ばれる絣織りの布を何枚か買った。
近くのスンバ島という島から来る物が多いそうだ。ここの人たちの言葉は全く理解できないが、スラバヤと同様港ではマレーが通じる。
水と食料を確保すると船は港を離れ、ティモール島の北側を東へと向かい、しばらくして北へと方向を変えた。
「これからはしばらく島影から離れる。波も荒くなって船も揺れるが大丈夫か?」
「大丈夫だよ、ワから来た時も随分海は荒れたけどへっちゃらだったよ。」
「そうか、そうだな。」
波は高くなったが荒れるという程ではなく、4日ほど経ったある日前方に陸地が見えてきた。
「どうやら着いたみたいだ。マルクのどこかだろう。」
船を着けられそうな浜を見つけ、着岸して回りに居る人に聞いてみた。言葉は全く通じないが、
「アンボン、アンボン」
とサフリンが言うと住民はある方向を指さした。
アンボンというのはマルクにある大きな港町だ。
「どうやら少し東側に着いたみたいだな。島に沿って西に行って少し回り込めばアンボンに着くだろう。もうすぐだ。」
島を右手に見ながら行くとサフリンが言った通り、一日足らずでアンボンの港へ着いた。港には一隻の大型船が停泊していた。
「あれは、アラブかインドの船だな。」
とサフリンが言った。
「大丈夫ですか?争いにならないですか?」
「大丈夫だ。戦をしに来てるわけじゃあない。ただ、あいつらが全部買い占めてないかが心配だ。」
アンボンの港は入れ江の奥にあり、町はそれほど大きくないが静かな港だ。船はインドからのもののようで、善吉たちの船が入港するのと入れ替わる様に出て行った。
町の市場にはクローブやナツメグなどの香辛料が溢れていて、買い占められていないかというサフリンの心配は杞憂だった。
この港でもマレー語は公用語として使用されていて、善吉たちは香辛料を買えるだけ買った。
マルクに五日程滞在した後、船は出帆して帰路に付いた。今度は南下して大きな島が見えた後はそのまま西に向かった。
「ティモールには寄らないのかい?」
善吉は聞いてみた。
「ああ、寄らなくても大丈夫だろう。」
船は行く時は南側を通った大きな島の今度は北側を西に向かった。やはり綺麗な島だ。島に沿って二日程進んだ時雲行きが怪しくなってきた。
「こりゃ、嵐が来るぞ。」
サフリンが言った通り、しばらくすると風雨が激しくなり大しけになって来た。
入り江を見つけて、その奥の浜辺に付けて嵐が過ぎるのを待つことにした。
一晩明けた朝、風雨は治まったが海はまだ波が高く危険だったのでもう少し出発を見合わせることにし、その間に水と食料を探す為1人を残してサフリンとテグーと善吉の三人で島に入った。人の気配はない。
「何でも、この辺の島にゃあ、人間を食っちまうような大きなトカゲがいっぱいいるそうだぜ。」
サフリンが言った。
「でも、それは小さい島だって、ヒロシさんが言ってたぜ。ここは大きい島でしょ?」
「ああ、大きい島だ。なんでヒロシはそんなことまで知ってるんだ?」
「ヒロシさんは何でもよく知ってるんだよ。」
少し行くとヤシの木が何本か生えていた。
「あの実が取れたら食料も飲み物も一挙に手に入るんだがなあ。」
サフリンはそう言って上を見上げた。
「オレ、取ってきましょうか?」
テグーが言った。
「おまえ、あの木に登れるのか?」
「村でよく登ってました。でも丈夫な綱が要るなあ。」
テグーが船に戻って短い綱を持って来た。。
「これなら大丈夫だ。」
「大丈夫か?無理するんじゃあないぞ。あんなとこから落ちたらおっ死んじまうぞ。」
「大丈夫だよ。いつも登ってたから。」
テグーはそう言うと器用に綱を使ってスルスルと登って行き、ヤシの実を次々を落とした。
「危ない、離れていろ!」
サフリンにそう言われて善吉は離れ、10個以上のヤシの実が落とされた。
「これで、しばらく食い物と飲み物には困らねえ。」
ヤシの実をそこに残して、もう少し奥に入ると何本かのバナナを見つけた。食べられそうな房をいくつか叩き落とした。
とその時、何かが動く気配がした。
「んっ?何だ?動物か?まさかトカゲじゃあないだろうな?」
とサフリンが言った。
よく見ると下草の影に何かがうずくまっている。どうやらサルのようだ。
「オランウータンの子か?・・・いや~あれは人間だ。」
よく見ると、髪は長く真っ黒な顔をしているがたしかに人間が怯えた顔をしてこちらを見ている。周りに誰か居るのか耳をそばだてたが何も聞こえない。
「どうする?」
と善吉。
「どうするって、こんなにオレたちを怖がってるんだから、このまま置いて行こうぜ。」
とサフリンが言い、バナナを持って怖がらせないように静かにその場を後にした。
ヤシの実を残してきたところまで戻りいくつかを持ったが全部は持ちきれないので、いったん船に持って帰りもう一度取りに戻るとさっきの人間が少し離れて付いて来ている。
若いようだが男か女かよく分からない。少なくとも人間だ。
ヤシとバナナを全部積んでさあ出発という時になって大変なことが分かった。潮が引いて船底が浜に付いてしまって動かない。四人で押してもびくりともしない。
「お前、何してたんだ。」
サフリンがぼやいた。
「しょうがねえ。潮が上がるまで待つしかねえな。交代で見張りををしよう。危ない動物が来るかもしれねえし、どうやら人間も住んでるようだから用心しねえと。」
船から見るとすぐ近くにさっきのオランがうずくまってこっちを見ている。
「何してるんだ、あいつ。オレたちのことが怖いんじゃあないのか?何を怖がってる?」
しばらくすると回りから何かが動く気配がして来た。するとオランは急に怯え始めた。人の気配だ。
「どうやら、オレたちじゃあなく追われてるようだな。生贄にでもされるんじゃないのか?」
「どうしよう?」
「どうしようって、どうしようもねえ。今は何もせずじっと潮は上がるのを待つしかねえ。うっかりしたことしたら巻き込まれるぞ。」
人の気配は船とオランを囲んだまま、少しずつ近づいて来た。
「やばいんじゃないの?」
「兎に角中に入って、弓を準備しよう。」
人の気配はある程度近づいてきたが、こちらのことを警戒しているようでそれ以上近づかない。
何とか早く時間が過ぎてくれることを心で祈ったが、時間はなかなか進まず潮もなかなか満ちて来なかった。
張り詰めた時間が経過した後やがて潮が少しずつ満ち始めた。
潮がかなり満ちたころ善吉とテグーが浜に降り、船を押すとゆっくりと船は動き出した。どうやら出発できそうだ。
「あいつはどうする?」
と言ったテグーには答えず、善吉は走って行きオランの手を取って引っ張って来た。
「誰か、引き上げてくれ。」
オランを引き上げ自分たちも飛び乗ると船は少しずつ浜を離れ始めた。
突然矢が飛んできたので、善吉たちは中に入り弓矢で応戦した。男たちは浜辺まで追いかけてきたがそれ以上追いかけて来ず、船は岸を離れなんとか危機を脱出した。
「ああ、どうなるかと思ったぜ。」
サフリンが言った。
「それで、こいつをどうする気だ。善吉、お前が連れて来たんだぞ。なんとかしろ。」
何とかと言われても困るが、まず言葉が通じるか試したが予想通り全く通じない。よく見ると女のようだ。年は12~3歳だろうか。
「まあ、連れて帰るしかないな。」
善吉がそう言った。バナナを渡すとむさぼるように食べた。
「腹が減ってたんだな。」
善吉たちもヤシを割りバナナを食べた。
補充したヤシとバナナのおかげで食料にも水にも困ることなく、浜を出てから6日でスラバヤに着いた。
「こいつどうする?ここで売り払うか?」
と、サフリンが言う。
「いやいや、このままじゃ、無理じゃないか?それに可哀そうだよ。」
「そうだな。善吉、お前が連れて来たんだから最後まで面倒みろ。」
善吉は娘にマレー語を教えようとしたが娘は恐れて目を合わそうともせず、彼女の心を開かせることは出来なかった。
スラバヤと途中パレンバンで食料と水を補給して、マラッカに戻ったのは出発してから三カ月近く経ったころだった。
港に着くと、善吉は大きい荷物を船に残し娘を連れて店に戻った。懐かしい店を覗くと中にはヒロシが居た。善吉の顔を見るとヒロシは大きな声で言った。
「おお、善吉戻ったか。たくましくなったやないか。で、どうだった?」
「楽しかったです。いろいろ買って来ましたよ。スパイスもマルクで買って来ました。」
「マルクも行ったのか?」
そう言ったヒロシは娘を見て言った。
「で、こいつは誰や?」
「途中、嵐を避けて入った入り江で拾ってきたんです。どうも敵から逃げてるようだったんで。」
「そうか、それで言葉は通じるのか?」
「それが、全然。どうしようかと思ってるんです。」
「まあ、いい。兎に角入って飯を食え。それとも先に水浴びをするか?」
「水浴びします。その間、この娘、見といてもらえますか?」
そう言って、善吉は旅の汚れを流しに行った。ヒロシは娘の前に行った。
「そうか、拾われてきたんか。辛いなあ。まあ、オレも昔ライナに拾われたようなもんやから似たもん同士やなあ。これもなんかの縁やろう。」
ヒロシは娘に優しく言った。
その夜は善吉の帰りを祝う宴で盛り上がった。
「オレ、こいつにマレー語おしえようとしたんだけど、うまくできなかったんだ。誰か、教えてくれないかなあ。言葉が通じないとどうにもならねえよ。」
「この娘、いくつ?」
ライナが聞いた。
「さあ、12、3ってとこかなあ。」
善吉が言うと、ユシは妹のリニに言った。
「リニ、年も近いんだから、あんたが教えなさいよ。」
「わたし?いやよ。そういうの苦手なんだ。お姉ちゃんが教えたらいいじゃない。善吉にも上手に教えたんだから。」
とリニが答えた。
「えっ?私?う~ん。」
そう言いながらユシが回りを見回したがどうも引き受け手は居そうになかった。
「分かったわ、私が教えるわ。でも善吉、あんたが連れて来たんだから手伝ってよね。」
「分かった。でもまずはこいつの心を開かせないとなあ。それには女の方がいいよ。」
それから、ユシは毎日娘に付きっ切りでマレー語を教えた。最初は硬かった娘の表情も少しずつ和らいできて、時には笑う様になった。
一週間くらいして、みんながいるところで善吉がユシに聞いた。
「この娘はどう?」
「うん、少しずつ覚えてきたよ。時々笑う様にもなったし。あんたよりも上達は速いわよ。」
「そうか、それは良かった。それで、この娘の名前聞いた?」
「それが、言わないのよ。名前が無いわけじゃあないだろうし、忘れた訳でもないだろうけど。思い出したくないのかな?」
「じゃあ、オレたちで付けるか。どうだ?何かいい名はないかなあ?」
みんな首をひねっていると、ヒロシが口を開いた。
「ナナミっていうのはどうだ?」
ユシがすぐに言った。
「変な名前。」
「そうやな、ここでは変な名前やな。」
「日本でも変ですよ。」
善吉が言った。
そうだな、この時代じゃあどこででも変な名前だな。もとの時代の日本だと、ありふれているという程じゃないが、ヒロシの好きな名前だった。
ヒロシが昔好きだったマレーの海という言葉を彷彿とさせる。
そんなことを考えていると、ユシが言った。
「お父さんがいいと思うんなら、私はいいけど。」
ライナも言った。
「そうね、ヒロシがいいならいいわよ、善吉はどう?」
「オレもそれでいいよ。」
結局、だれも代案を出さなかったのでヒロシの考えだけで名前は決まった。ちょっと未来の日本風の名前にし過ぎたかな、とヒロシは思った。
ただ、もと居た世界との繋がりを何か残したいと、ふと思ったのだった。
「ナナミっていうのは、日本語で‘七海’って書くんや。」
そう言って、ヒロシは善吉に見せた。
「そうか、七つの海っていう意味なんですね。そう聞くといい名前だなあ。」
名前とは不思議なもので、最初はみんな変わった名前だと思っていても、意味が分かり慣れて来るとなんとなくいい名前に思えてくるものだ。
そうして、娘は本人の意思とは関係なくナナミと呼ばれるようになった。
ナナミが来たのは善吉の話からすると、たぶんこの後フローレス島と呼ばれるようになる島だろう。
ヒロシは大昔、パレンバンへ来る前の年にバリから船とバスを乗り継いでフローレス島を旅したことを思い出した。
もと居た時代のことである。フローレス島の手前のビマという町の安宿で働いていたフレーレスから来た青年たち、そしてフローレス島で出会った素朴だが陽気で親切な人達の顔が浮かんだ。
もう随分昔のことだ。20年以上前に封印したはずの昔の思い出が蘇った。そして、その思い出がナナミと重なった。
ナナミがマラッカに来て三カ月程が経ち、日常的な会話ならある程度できるようになりユシを手伝って家事もするようになった。
善吉が聞いてみた。
「それでお前、なんであんなに怖がってたんだ?何があったんだ?」
ナナミは黙ってうつむいた。
「言いたくないんだったら言わなくていいけど。」
ナナミが少しずつ話し始めた。
「私、隣の村から連れて来られたの。」
「そうなんだ。で、家族は?」
「お父さんと、お兄ちゃんはみんな殺された。お母さんとお姉ちゃんと私は連れてこられたの。でも日照りが続いて、私殺されるとこだったの。神さんのためだって」
「そうだったのか。よく逃げられたな。」
「お姉ちゃんが隙を見て逃がしてくれたの。でもあの後お姉ちゃんはどうなったのかなあ。」
ナナミは黙った。そばで聞いていたヒロシが言った。
「そうか、大変やったな。まあ、忘れろって言うのは無理やろうけどな。」
そしてもう一度ナナミの顔を見た。
「せやけど、ここに居るのはみんな、オレもライナも善吉もそれぞれいろんな目に遭うてきたんや。ナナミ、ここまで逃げて来られたんや。ここに居るみんなを家族や思て、これからの事考えたらええねん。」
ヒロシの言葉がナナミのこころを癒せたのかどうかは分からないが、ナナミは心なしか穏やかな顔をしてヒロシと善吉の顔を見た。
それから、善吉は時々サフリンの船に乗って出かけるようになった。ユシはライナの前で寂しそうに呟いた。
「やっぱり、善吉は海の男なんだわ。ここでじっとしていられなんだよ、きっと。」
「港に居る男ってみんなそんなもんよ。」
「でも、お父さんは結婚してからずっとここに居るんでしょ?」
「そうね。日本からパレンバンに来るまでは、随分長い旅をしてきたんだろうけど、あまり話たがらないの。マラッカに来てからはずっと、ここね。本当は行きたかったのかな?」
善吉が居なくなった後、ナナミはユシにすっかりなつき、リニとも仲良くなってよく遊ぶようになった。
言葉だけではなくここの習慣や町にも慣れて1人でも町を歩けるようになった。
月日が経ち、旅から帰って来た善吉はユシに言った。
「ナナミ、随分大きくなったな。」
「ちょっと、大人になったって感じね。」
「それに可愛くなったな。」
「そうねえ。」
「連れて帰って来た時はどこのジャングルから出て来たんだろうって感じだったけどなあ。オレ、あいつのこと妹たと思ってるだ。オレも親兄妹が居ないし、あいつも居ないから、家族が居ないもの同士兄妹になるってのもいいだろ。」
「家族が居ないって、私たちが居るじゃない。」
「そうだけど、でも兄妹じゃないだろ。」
「そうね。私、善吉の妹になりたいだなんて思ってないから。」
「オレもそんなこと思ってないよ。」
善吉はナナミに言った。
「ここにも慣れたようだな。みんな兄妹だとおもっていいよ。オレも遠いところから来て、もう親にも兄弟に会えない。だからお前のこと妹だと思ってる。オレのことも兄ちゃんって呼んでいいぜ。」
ナナミは少し口ごもったが、小さい声で
「お兄ちゃん」
と言った。善吉はなにか本当に妹ができたような気がした。
それから、善吉は暇があるとナナミを連れて町の中を歩いたり、華人街へ行って中華料理を食べたりした。あまりに善吉がナナミを可愛がるものだから、ユシが言った。
「最近私と居るより、あの娘と居る方が多いね」
「どういう意味だよ。あいつを連れて来た以上責任があるしな。前にも言っただろ。親兄妹が居ない者同士兄妹になったんだよ。」
3,再会
しばらくして、マラッカは明と朝貢貿易をするようになり、華人が多く移り住み華人の町もできた。
喜吉がマラッカに来てから四年程経ったある日、町中が大騒ぎをしている。
「どうしたんだ?」
喜吉は近くに居たユシに聞いた。
「何でも、大きな船が沢山港に来てるそうよ。明の船だって。」
ヒロシもやって来た。
「明の大船隊がやって来たで。ちょっと前までパレンバンに居たそうやが、ついに来たな。まあ、オレたちは明に朝貢してるから心配することはない。役人はもてなすのに、大変やろけどな。さあ、忙しなるで。」
町は急に騒々しくなった。華人が大勢道をあるくようになり、ヒロシの店にも大勢やって来た。
善吉は少し明の言葉が喋れるので、彼等が店に来た時は特に忙しくなる。
それからしばらくしたある日、1人の男が店の前に立ち店内をじっと見ている。善吉が顔を上げるとその男は大きな声を出した。
「善吉じゃないか。やっぱりそうだ。」
善吉はその男の顔を見た。
「春児か?春児じゃないか。なんでここに居る?」
「鄭和の船で来たんだ。」
「鄭和?」
「ああ、鄭和っていう偉い将軍が率いているんだ。それよりお前こそここで何してるんだ?善次さんたちは?」
「それが、まあ、いろんな事があったよ。」
善吉はあれからのことを話した。
「そうか、それは大変だったな。でもいい人に出会えて良かったじゃないか。ここでちゃんとやってるのか?」
「ああ、こっちの暮らしにも慣れたし、商いもだいぶ覚えた。ここには華人もいっぱいいて時々話すんだ。明の言葉もあの時よりもうまくなったぞ。」
「そうか、華人街は知ってる。今出られるか?出られるならあそこへ飯を食いに行かないか?」
「ああ、ヒロシさんに頼んでみる。」
店の奥に居たヒロシに事情を話して許しを貰い二人は華人街の食堂へ行った。
『やあ、大将。今日は福州で会った友達を連れて来たよ。』
と春次が言うと、大将は善吉の顔を見て言った。
『福州の友達って、善吉じゃあないか。どういうことだ?』
二人が福州で会って友達になったことを話した。
『そうかい、もう随分になるんだろう?』
春次は店主に答えた。
『ああ、懐かしいよ。まさかここで善吉に会えるとは夢にも思わなかったからびっくりだよ。』
そして善吉は春次に言った。
「それにしても鄭和の艦隊はすげえなあ。こんなに大きい船もたくさんの船も見たことがねえよ。いったい何しに来たんだ?」
「いろんな国と仲良くするためさ。」
「本当か?脅かしにきたんじゃねえのか?」
「そんなことはないよ。」
「まあ、マラッカは前から明に朝貢してるからいいんだけどさ。むしろこんな大艦隊が来たら他の国ももうマラッカに手を出せなくなるだろうな。
それで、一体どこまで行くんだ?」
「これから、天竺まで行く。」
「そうか、ついに天竺に行くのか。夢が叶ったじゃないか。競争はオレの負けだなあ。」
「お前もいっしょに行くか?」
「え?そんなことできるのか?」
「ああ、1人くらいならなんとでもなるさ。頼んでやるよ。お前少しは明の言葉も喋れるしな。どうだい?」
「そりゃあ、すごい話だな・・・
でもやっぱり出来ねえよ。ここの人に随分世話になってるし・・・」
「誰か、離れたくない娘がいるのか?」
「いやあ、そういう訳でもないかな。」
「きっと、面白いぞ。まあ、オレがそそのかしたら、その世話になった人に恨まれるかな?その娘にも。」
「だから、そんな娘はいないって。でもやっぱりヒロシさんには申し訳なさ過ぎるな。」
「そうか、まあそうだな。ここで会ったのも何かの縁かと思ったけど。お前にはお前の生活があるもんなあ。」
二人は料理に舌鼓を打ちながら懐かしい話や、ここでの事、これからのことなど話は尽きなかった。
食堂を出て店へ帰る途中、善吉は春次が言った天竺の話を思い出した。そんなことはできないとは分かっていても何か妙に心に残った。
その夜ユシが話し掛けて来た。
「友達が来たんだって?」
「ああ、福州で仲良くしてたんだ。」
「へえ、懐かしかったでしょう?」
「そりゃ、もう。いろんなこと話したよ。これから天竺に行くんだって。」
「天竺?あのひげを生やした人たちが住んでたところよね?」
「ああ、それにお釈迦さんが生まれたとこさ。」
「遠いんでしょう?」
「ああ、遠い。どんなとこなんだろうな?」
善吉が夢を見るように語るのを聞いて、ユシが言った。
「善吉、まさか行きたいって思ってるの?」
「いや、そんなことは出来ないよ。」
「もし、出来たら行きたいの?」
「え?いや分かんないなあ。」
それから春次は頻繁に店を訪れ善吉と話をしたり、たまには昼食を取りに中華街で出かけた。
ある日、ヒロシが声を掛けた。
「おまえ、よくあの男と話してるみたいやな。あいつはこれから天竺に行くんやろ?その話もよくしてるみたいやないか?お前もいっしょに行きたいのか?」
「いえ、そんなことは出来ないです。」
「出来ないことはないで。日本に帰るのも天竺に行くのも好きにしたらええ。で、その事はユシとはもう話したのか?」
「その事って、行くと決めた訳じゃあないし。」
「よう分かれへんけど、どうもあいつはお前のこと思ってるように思うけど、どうなんや?」
善吉は黙った。
「まあ、どっちにしても話はようしとけよ。」
それからしばらくして善吉はユシに切り出した。
「オレ、ひょっとしたら天竺に行くことになるかもしれないけどどう思う?」
「え?やっぱりそうなの?そんな気はしてたけど。どう思うって、私に聞かれても困るよ。自分で決めることでしょ。」
「うん、そうだけど。もしそうなったら待っていてくれる?」
「待つって何を?」
「オレが帰ってくるのをさ。」
「どれくらい掛かるの?随分と掛かるんでしょ?もう帰って来ないかもしれないし。」
「それはないよ。何年掛かっても、絶対帰って来るって。」
「そう。男の人ってみんなそうなんだ。どこかへ行っちゃうんだ。お父さんだって、理由は知らないけど日本に帰らなかったし。」
「それはお母さんと出会ったからだろ?」
「じゃあ、あんたはどうなの?」
「それは無いよ。絶対帰って来るって。」
「分かるもんですか。どっちにしても何年掛かるか分からないし、帰ってくるかどうかも分からないのに待ってるなんてできないわ。」
善吉は黙った。なんて自分勝手な事を言っているのだろう。
「そう・・・だな。むちゃを言ったな。忘れてくれ。」
「そうね。善吉も忘れて新しいところで好きに生きたらいいわ。それで父さんにはもう言ったの?」
「お父さんは好きにしたらいいって。でも本心じゃないんだろうな。」
「私のことはいいから、お父さんとはちゃんと話してね。」
その晩、ユシはよく眠れなかった。どうしてあんな憎まれ口を言ったのだろう?でも何年掛かるかもしれないし、帰ってこないかもしれないのに待つだけなんて自分には出来ないと思った。
ただ、善吉が気持ちを変えてここに残ってくれたらいいのにとやはり願わずにはいられなかった。
善吉も悩んだ。ユシのこと、ナナミのこと、ヒロシの思い。これで、天竺なんかに行ったらそれは人間じゃあないかな?そう自問してみたが、どうしようもない思いが心の中で燃え上がりそれらの事を灰にしてしまいそうだった。
翌日春次が来たので相談すると春次が言った。
「そりゃ、オレが福州を出た時だって、最初はみんな反対したけど、最後は認めてくれたよ。」
「誰か、いい人は居たのか?」
「いや、そんなんじゃないけど。両親も居たし兄弟も居たし、まあ友達も居たからなあ。」
「待ってるって言ったか?」
「そんなこと言わない。ただ見送ってくれたよ。
オレの場合、この船に乗るのは将来にためにもなるしな。お前の場合はちょっと違うよな。帰って来たとして元の生活に戻れるかどうか分からないしな。新しい道が開けることもあるだろうけど。まあ、最後は善吉、お前が自分で決めることだな。自分の人生は誰も教えてくれないし、責任を取ってもくれない。」
数日後、善吉はヒロシの前に座って頭を下げた。
「すみません、私を天竺へ行かせてください。こんなにお世話になりながらこんなことを言うなんて人の道に外れてるのよく分かってます。」
「そうか、まあ好きにしたらええ。それでユシとも話したんか?」
「はい。」
「で、何て?」
「もう忘れるって言いました。」
「まあ、あいつも気ぃ強いからなあ。そのことはええ。何年か後には帰ってくるんやろ?」
「はい、絶対帰ってきます。」
「ほんならその時はまた店手伝うてんか。」
「いいんですか?」
「ああ、ええ。いろんなもん見て、経験して、覚えて。それが商売の役に立つかもしれん。」
「ありがとうございます。きっと役に立てるよう勉強します。」
その後、善吉はナナミに言った。
「兄ちゃん、これから遠い国に行くことになった。いつ帰って来られるか分からないけど、絶対帰って来るからな。ユシやライナの言うことよく聞いて、いい子にしてるんだぞ。」
「どこに行っちゃうの?」
「天竺っていう遠い国だ。どうしても行きたいんだ。でもここにはナナミも居るし、みんなも居るから絶対帰ってくるよ。兄ちゃんのこと、忘れるなよ。」
「うん、絶対忘れないわ。帰ってきてね。」
その後、ヒロシとライナに言った。
「ナナミのこと、よろしく頼みます。」
「ああ、大丈夫や。もうオレたちの子やと思てる。オレも親兄妹おれへんし、会われへん。お前もそうやけどな。ナナミのことも他人事とは思われへんねん。安心せい。」
「ありがとうございます。」
それから2週間ほど後、善吉は出発することになった。ヒロシとライナ、それにルトフィーとナナミは見送ることになった。
「ユシはどうした?行かんのか?」
ヒロシが尋ねた。
「私はやめとく。どうせもう帰って来ないわ。」
「帰って来るて言うてたで。そんなこと言わんと行こうや。」
「いい。行ってきて。」
「そうか、ほんなら行くわ。」
4人で港に向かった。
「あいつ、本当にいいのかな?意地はってるだけじゃないの。」
とルトフィーが心配そうに言う。
「まあ、しゃあないやろ。」
「見送るって悲しいのよ。ヒロシだってあの時泣きそうな顔してたじゃない。」
とライナ。
「おいおい、いつの話してんねん。まあ、二人のことは二人に任せるしかないな。」
港に着くと船は少しずつ岸を離れ始めていた。
その中の一隻で春次と並んで立っていた善吉は何かを探しているようだった。
その善吉が探していた人影は港から少し離れた小高い場所から眺めていた。もう会うことも無いんだろうか?と思いつつ。
やがて善吉の乗った船も岸を離れ船団の中、遠ざかって行った。
ユシは思った。
やっぱり、海の男だったんだ。繋ぎ止めておこうと思っても無理なんだ。
私はここで生きていく。善吉は海で生きていく。この先どうなるかなんて誰にも分からない。
善吉の乗った船は遠ざかり、やがて海の上で点のようになりそして消えて行った。