人間の女と人間の男
リオンは黒いローブの女を見上げて、立ち尽くしていた。
後で隣にいる騎士から聞いたのだが、口を開けて瞬きをしないリオンを見て、魔法で魂を取られたのかと思って焦ったそうだ。
リオンは腰まで川の水に浸かっている。黒いローブの女は、ただでさえ長身なのに水面に立っている。リオンは天を仰ぐように見上げていた。
不意に剣をしまう音がした。その音でリオンは我に返った。隣にいる騎士の男が、両手を上げて言った。
「この通りだ。何も聞かない。見なかったし、誰にも言わない。」
「それでいいだろう?魔女さん。」
騎士の男は、あらゆる抵抗が無意味だと悟っている。腕に仕込んだ暗器も、逃げるための時間稼ぎにすらならない。ならば、命乞いしかない。騎士の男は、そう思っている。魔女と言われた女は、騎士の男の方に向くと、自分は魔女ではないと言った。名前があると。彼女は「ルナヴェール」と名乗り、男の名を聞いた。
男は「オルグ・ロナ・ゼナス」と名乗った。名前と生まれた土地。そして国の名。”ゼナスの国。ロナ村のオルグ”という意味らしい。彼はリオンを見ると、皮肉たっぷりに言った。
「ゼナスなんて国は知らないだろう。小さいからな。」
「これでも同盟国なんだぜ。一緒に平和を分かち合うな。」
リオンは、確かに「ゼナス」という国は知らなかった。同時に、同盟により、神の下で平和に暮らすことを多くの国々で宣言しておきながら、その国の一つを知らなかった自分を恥じた。そして、小国であっても同盟国として騎士を派遣していることに感謝した。リオンはオルグに向って頭を下げた
「申し訳ない。ゼナスの騎士殿。私は自分を恥じている。」
「国王にお会いして謝罪したい。」
オルグは、そんなリオンの態度に驚いた。高位であろう綺麗な僧兵の女は、恥をかいたと怒るだろうとと思っていたからだ。そして、命の危機が迫っているであろう場面で頭を下げる。恐らくは、心底、実直で誠実な女だろうと思った。ある意味、それが災いして島流しになったのであろうとも思った。
場に似つかわしくないやり取りを見ていたルナヴェールは、二人を無視して河原まで歩いた。水面に足が着いているのだろう。進むたびに水面に波紋が広がる。
「いいのか?仲間は灰になってはいないか?」
ルナヴェールが歩きながら言うと、リオンはハッとして弾かれたように走り始めた。エイラは生きているだろうかと水をかき分け川から上がると、野営地まで走り出した。オルグは魔女がリオンを追わないのを見て、彼女と一緒に水場を後にしようとした。その時、ルナヴェールから声をかけられた。
「人間の男。お前のいた人間の群れに、石の付いた棒を持った連中が居なかったか?」
「居たなら石を持ってこい。人には用はない。」
オルグは頷くと走り出した。「なんで俺なんだ」と思いながら。
リオンは野営地に着いた。辺り一面が焼け野原になっている。荷物は殆どが燃え、所々でくすぶっている。見渡すと、炭になった人や馬だったであろう物が転がっている。リオンは、改めて空飛ぶ蛇のような化け物の吐く炎に恐怖した。ここに居たら、自分が炭になっていただろう。
誰も生きてはいないと思いながら、炭になった遺体に祈りを捧げていると、向こうの森だった場所から人が歩いて来る。一人だったのが、増えてゆく。最後には二十人程となった。駆け寄ると火傷や足を追っている者だらけだった。その中に足を引きずりながら歩くエイラが居た。
「リオン!無事だったのかい!」
二人は抱きしめ合った。エイラは声をあげて泣いた。リオンが落ち着かせると、エイラを座らせて足を診てやった。どうやら折れている様だ。エイラたちは、化け物が空で留まろうと翼を羽ばたかせた風に煽られ、森に吹き飛ばされたそうだ。森の奥は岩の突き出た急斜面で、炎が届かなかったそうだ。大半はエイラのように岩にぶつかって傷を負った者ばかりだそうだ。それでも、熱気に焼かれた者が居る。
リオンはエイラの足に添え木をしてやると、隣にいて欲しいと縋るエイラをなだめて、比較的軽傷の者を集めて斜面に取り残された者の救出に向かった。肩を貸したり、起き上がれない者は焼け残った荷物からロープを取り出し、引き上げてやった。十名程度を救出したが、出血がひどい者や殴打して内臓に傷を負った者は、介抱の甲斐なく命が尽きてしまった。
負傷者の手当てをしているうちに日が落ちた。辺りは闇に包まれ、痛みに耐えかねている者の呻き声と、遠くから聞こえる狼の遠吠え、野鳥の鳴き声が不気味に入り混じる。みんな、希望を失い項垂れている。助けは来ることは分かっている。後続の部隊が一日遅れで進んでいる。明日には、ここに到着するだろう。しかし、皆、あの化け物前に、生きる希望を失っている。自らの存在価値を否定される存在。その禍々しい存在の前に成す術がなかった。救うのが神なら、踏みつぶすのが今日の化け物だ。
リオンは、そのような感情に負けないようにと、負傷者に神の加護の言葉をかけて回った。自分が疑問に思っている神の存在だが、人の心に住んで支えになるのであれば、何でもいいと思った。見回りを終えると火の番をしていたエイラの隣に座った。彼女も、あの存在に打ちひしがれ精気が無い。リオンが抱きよせようとした時、彼女は言った。
「ナギルナが送り込んだ化け物だ。」
リオンは、はじめは何を言っているのか分からなかった。気付くと周りの者も同調して、ナギルナと言う言葉を口にし始めた。リオンには理解できなかった。あのような化け物を使役する国などあるはずもない。しかし、ナギルナという言葉の伝播は留まらない。
ナギルナ憎し。ナギルナ討つべし。
皆の憎しみの感情が膨らんでゆく。そして、リオンが最も恐怖したのは、それが「神の名の下に」と言う事だった。信仰心が正体が分からない物への憎悪をナギルナに向けさせている。
静かに膨れ上がっていく憎悪に恐怖して、リオンは川辺に足早に逃げるように向かった。
リオンは川辺に着くと顔を洗い水を飲んだ。月を映した清廉な川の水は心を落ち着かせ、恐ろしさに早鐘を打っていた胸は落ち着いてきた。
信じていた神と言う存在が、憎しみを膨らませている。
リオンは座り込むと、かつての自分も、この場に居合わせたなら、そう思ったのだろうかと思った。
リオンは立ち上がると、石を拾い上げて水面に映る月へ投げつけた。月は砕け散ると、ゆらゆらと幾つかの小さな月になり、ゆっくりと集ま始めるとまた一つの月になった。
気が晴れないままのリオンが、もう寝てしまおうと野営地へ足を向けようとした時、川辺に人影を見つけた。それは、暗闇にあっても光を吸い込むように暗いローブを身にまとった、今朝の魔女だった。
大きな石に腰かけ、手には怪しく光る石を持っている。その腕は陶器のように白く、月の光を吸い込んでいた。リオンは息を呑んだ。その美しく、黒い影を握りつぶしておきながら、幾百人に降り注いだ災いに、超然として存在している。それは、祖父のレイセンの言っていた”神”以前の”大いなる存在”を感じさせる。
リオンは言葉を交わしたくなって、ローブの女に近づいてゆく。静かに歩こうとするが、河原の砂利が音をたて、踏んだ小枝が音をたてて折れる。それでもローブの女はリオンを見向きもしない。まるで、そこに何も存在しないかのように。
ようやくリオンはローブの女の傍らに立った。リオンはローブの女の存在に畏怖し、自分が何故、彼女の隣に立ったのか。そして、何をしたかったのか忘れてしまった。何も言葉を発することなく立っていると、ローブからうかがえる体の形から右腕が無いように見えた。話すことのないリオンは右腕の事をローブの女に聞いた。
「右腕の事です。無いですよね。魔女としては大変ではありませんか?」
リオンの言葉はたどたどしく、何とも言えない内容に恥ずかしく思った。自分が初めて会う人に、こう言われたらきっと不機嫌になるだろうと。そう思っていると、ローブの女は深いため息をついた。
「私は魔女ではない。ルナヴェールと言う。お前の名はなんだ。」
リオンが名乗ると、ようやくルナヴェールがリオンの方を向いた。
「人間の女。右腕をちぎってやろう。人間として大変だろな。」
意味が分からなくなってきた。名前を聞かれたのに「人間の女」と呼ばれた。多分、世の人の半分は「人間の女」と呼ばれる。しかし、右腕の事は失言だった。表情は変わらないが怒っているのが、ありありと感じられる。だが、リオンは言い返した。
「右腕の事を聞いたのは申し訳ありませんでした。」
「しかし、人の名前を聞いたのに、その呼び方は失礼です。魔女殿。」
リオンは生来の気の強さが災いして、思わずルナヴェールを更に怒らせるような事を言ってしまった。リオンは右手がちぎられるのを覚悟した。しかし、ルナヴェールは気にすることなく、手に持っていた石をリオンに見せて言った。
「この石。見覚えは無いか。お前の国の人間が作っているはずだ。」
あの子供の僧侶が持っていた杖の頭に付いていたものだった。ルナヴェールは一緒にいた騎士に探させたと言った。
「分かりませんが、国の中央に同じような杖。錫杖を持った者が居ます。」
「杖と錫杖の関係は分かりませんが、その石も錫杖も、そして、それを持つ者を知る者は少ないと思います。」
そう言うと、ルナヴェールは手に持った石に息を吹きかけた。すると、石は光を纏った粉になり消えていった。その光る粉が消えてゆく様は、あの夜にみた光の柱の最後に似ていた。リオンの驚きをよそにルナヴェールは質問をした。
「お前はあの国の中央に近い場所にいたのか。」
「ならば、帰って錫杖の事について調べてこい。」
「礼として国を取ってきてやる。好きな国の名を言え。」
ルナヴェールは立ち上がって、リオンと初めて会った時のように彼女を見下ろして言った。リオンは黒い黒い影を握りつぶした光景を思い出した。言えば本当に国を取って来るかもしれない。しかし、興味はないし、言う事を聞くわけにはいかない。負傷者の面倒を見なければならないし、リオンは祖父の弟子であるザルカスに会わねばならない。リオンは祖父と、その弟子の事についてルナヴェールに話した。
「貴方には協力できません。」
「祖父の弟子と会う必要があります。私は隊の負傷者を後続に引き継いだ後、彼の地へ向かいます。」
「そして、彼の地で何が起こっているのか、この目で確かめます。」
ルナヴェールはリオンの瞳を見つめた。
嘘のない真直ぐな瞳。強い意志。そして、優しさ。
あの子に似ている。いや。私があの子を求めているから、そう見えるのか。
ルナヴェールは深いため息をつくと、リオンに取引しようと言った。それは、道中の安全と引き換えに、弟子のザルカスと話をさせて欲しいという事だった。リオンは少し考えて言った。
「道中、幾日かかかります。その間、貴方について、色々聞いていいですか?」
「勿論、右腕の事は聞きません。」
ルナヴェールは、また溜め息をつくと了承した。そして、振り向いて言った。
「喜べ人間の男。仲間が出来たぞ。」
リオンがルナヴェールの向いた方を覗き込むと、岩陰にふてくされて座っているオルグが居た。リオンはオルグには選択肢がなかったのであろうと哀れに思った。




