もう少しだけ
ヴェルシダは光の渦の中、竜が消え去っていくのを眺めていた。竜の姿が徐々に光にのまれ、竜を覆った黒い影が、その存在を消されまいと、必死に耐えるように悶えている。竜が昇華したと言うべきなら、影は駆逐されるように対極に見えた。その影も、もうすぐ消える。
セフィルも同じように眺めている。竜が消え入ると彼は剣を掲げ、竜への哀悼の意を表した。
「竜殺し」
彼が欲した名であったが、竜への感謝と弔いの念しかない。自分を高めてくれた存在。それを討って手にいれた名は、今では空虚な言葉でしかなかった。
ヴェルシダが振り返ると、マリエルが空を見ていた。彼女の足元は光に満ちている。ヴェルシダは彼女の顔つきが違うように見えた。いつもの朴訥として、幼さを感じさせる少女。それが、まるで、全てを知る者ように知的で高潔な存在に見えた。その姿は、ヴェルシダに声をかけるのを躊躇させるのに十分だった。
ヴェルシダはマリエルの視線の先を追った。見上げた先に人が見える。空に漂うルナヴェールだ。マリエルとルナヴェールは、お互いに睨み合っているかのようだ。
「ルナヴェール!そこで何やってるんだ!さっさと私達をここから引き上げろ!」
ヴェルシダが、相変わらずの毒を含んだ言い方でルナヴェールを呼ぶと、ルナヴェールは緩やかに竜の巣に舞い降りた。セフィルもヴェルシダの声で気付いてルナヴェールに歩み寄る。しかし、ヴェルシダもセフィルも異常に気付いた。いつもだったら、走り寄ってくるはずのマリエルが、その場から動かない。ルナヴェールもヴェルシダ達が居ないかのように、マリエルを見ているだけだった。
竜の巣は、その光を減じて月明りのようになったが、マリエルの足元の光は衰えることが無い。向かい合うルナヴェールは竜の巣の光の中で、その白磁のような肌を青白く浮き上がらさせ、不安な夜の月のように佇んでいる。ヴェルシダもセフィルも、二人の間に入ることも、声をかける事も出来なかった。
暫しの沈黙の後、ルナヴェールがマリエルに歩み寄る。二人の距離が、徐々に縮まっていく。ルナヴェールがマリエルの前で立ち止まる。マリエルは表情を変えることなくルナヴェールを見つめている。ルナヴェールは右手を差し出すと、ゆっくりとマリエルの頬に手を当てると、ヴェルシダが今までに聞いたこと無い言葉を口にした。
「お願いします。」
ヴェルシダは息を呑んだ。ルナヴェールが人に頼みごとを。懇願してるとも思える口調に。
ルナヴェールは続けた。
「まだ、一時。この子を私の下に置いてください。」
「全てが成れば、お返しします。対価は望みのままに。」
そう言うと、マリエルはゆっくりとルナヴェールの手に自らの手を添えた。マリエルはルナヴェールの目を見ている。心なしか、ルナヴェールは怯えているかのように見える。マリエルは、ルナヴェールの掌に顔を埋める事も、添えた手でルナヴェールを感じる事もしない。慈しみや安堵も感じられない。むしろ、無慈悲な神のように見える。
マリエルは頬に添えられたルナヴェールの手に握りつぶすかのように力を入れた。彼女の手が骨が砕かれる音を発したかと思うと、徐々にマリエルの手の中で砂になり、マリエルの足元に落ち行く。ルナヴェールもマリエルも表情を変えない。そのまま、見つめ合いながらもなおルナヴェールの手は砂になってゆく。腕を登るように砂に替え、右腕が消えた。
ヴェルシダもセフィルも、声が出なかった。そして、動けないでいた。何が起こっているのかは分からないが、ルナヴェールの右腕が砂になり消えたのは確かだった。マリエルが糸の切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちるのを見て、ようやく気を取り戻した。二人はマリエルに駆け寄ると彼女を抱きかかえた。マリエルは深く呼吸をしながら、うっすらと目を開けて虚空を見ている。ヴェルシダがマリエルの名を呼んで頬を叩くと、息はそのままに目を閉じてしまった。
「マリエルは大丈夫だ。そのまま寝かせてやれ。」
「それより、ここを塞ぐ。私のしでかした事の後始末だ。」
ルナヴェールがそう言うと、ヴェルシダの腕を左腕で掴んだ。
「お前に風の力を送る。ここから遠くに飛べ。」
「場所はお前に任せる。思うところへ飛べ。私は後からついて行く。」
そう言うと、ヴェルシダの中にこれまで感じた事のない感覚が入り込んできた。これまで、力でねじ伏せて使役した風の力が、優しく軽く、体の隅々へと行きわたる。それは、自らが風になった様だった。
ルナヴェールが風で飛ぶときは、こんな感覚で飛んでいたのか。
ヴェルシダはルナヴェールとの格の違いを見せつけられてしまった様に思えた。しかし、同時に高まる風の力はこの場に留まる事を許せなくなるほどに膨らんでゆく。
「セフィル!時間がない!一緒に飛ぶぞ!」
ヴェルシダはセフィルにマリエルを預けると、自らが風になる感覚の中で、一番早く、一番強く思い描くことが出来る場所を頭の中で念じた。そして、風になり、竜の巣から飛び上がった。
ヴェルシダが飛び立つと、ルナヴェールの腕だった砂が光を放って舞い上がった。彼女がその身に蓄えていた力が光となり解き放たれた。それは地に落ちる前に消え、砂となって地表に落ちた。
ルナヴェールの身をいつも包んでいた黒猫が、彼女から離れて本来の獣の姿になった。その表情は親を気遣う子供の様だった。
「右腕だけで済んでよかったよ。」
獣が右肩の傷口をゆっくりと舐める。
「大丈夫。大丈夫。血は流れちゃいるが、ゆっくり過ぎて流れ落ちはしないさ。」
「痛みなんか、とうの昔に切ってしまった。」
獣はルナヴェールに甘えるように体を押し付ける。ルナヴェールは残った左腕で優しく獣を撫でたやった。
「さて、ここを消し去るか。私の力の”貯金”として取っておいたが。」
「悪さする者が居ると分かった。人間に管理させていたが、星は”もう返せ”だとさ。」
言い終わると、獣はまた黒猫に戻ると、彼女を優しく包み込んだ。
ルナヴェールは左手をかざすと、ゆっくりと目を閉じた。すると、それまで緩やかに光を放っていた竜の巣が、また光を放ち始めた。その光はルナヴェールを中心に渦を巻いて行く。その渦の速さが増すたびに大地に穿たれた竜の巣が地表にせり上がってゆく。それは、静かだった。まるで水面から両手で水をすくいあげるかのようだった。
竜の巣の底が地表と合わさると、光の渦は光の柱となり、天を貫くように夜空に昇り上がった。やがて光の柱はゆっくりと砂のように夜空に舞い散り、辺りを昼間のように照らしながら消えてゆく。後には暗闇と森に囲まれた岩場が残された。かつて、竜の巣の底だった岩場だ。その中心にルナヴェールが居た。
ルナヴェールの左腕には、所々に亀裂が生じていた。彼女はそれを、まだ少し光の粉が舞う夜空にかざしながら、まるで他人の物のように眺めながら言った。
「ああ。一本だと不自由だ。」




