2─35・Master─Master
「あ〜ぁ、逃げられちったよ。くっそぉ〜、フラストレーション溜まるなぁ、もぉ。……虫ケラなんかいくら殺しても収まんないよ」
辺りに転がる虫の死骸を踏みにじり、引きちぎり、引き裂いた蔦のようなモノ──巨大な木の根を蹴り飛ばすと、シヴァは顔にかかった薄い色の髪をかきあげた。
「後輩ちゃん達は……もう結構離れちゃったみたいだね。引いたって事は足留めだったのかな?
まだ僕の足留めをするつもりなら、光都辺りで追い付けるだろうけど」
──さて、どうしよっか。
そう小さく呟いて空を見上げる。
彼に襲いかかってきた、数百もの数を誇る最強の軍隊にして群体たる昆虫は、すでに空を飛ぶ機能も毒の剣も失い、拘束しようと迫ってきた蠢く大樹の足は、単なるウッドチップと化していた。
それに対してシヴァは、その体に傷一つついていない。ぼろ切れと化したシャツと、クラッシュジーンズにしても鉤裂きの付き過ぎたジーンズをはいたその身体には、傷一つ見当たらない。
「あの二人って『支配系』かな、かな。僕やひーくんの『世界』ほどじゃないけど、支配系の能力ってだけで激レアじゃんか。あぁ、ちっと手下に欲しいかもぉ〜。
あのガード二人はさて……どっちかは『同族』だったりするのかな、かな?どっちも『同族』だったりしたら面白いんだけど」
体中の汗腺から血液を霧状の弾丸にして飛来する小さな虫を撃墜し、惨劇の刃で根を切り裂いた後であっても……異形の軍勢を相手にした直後であっても、シヴァは心底つまらなそうな無表情で曇天の空を見上げた。
怯まず迫る最強の虫兵と、唸りをあげて宙を走る異形の大樹の圧力は、どちらも自然界では有り得ない凶悪さではあったが、それでもやはり先ほどまで相対していた『ご馳走』に比べれば味気がなさすぎた。
「でもいかに同族さんであっても、皇同士の遊び場にたかだかガードごときが口を挟むのは……ちょっといただけないよね」
そう嘆息を漏らすと、先ほどまで敵対していた少女が去っていったであろう方角に向かって軽く頭を振ってみせた。
「……あの子が東北の始祖か。なるほど、さすがは始祖、ひーくんやゆーちゃんと同格なだけはある」
そう言ってほぅ、と小さく丸い息を吐くと、軽く鳥肌立った腕をその異形の手のひらでさする。
何度も何度も……皮膚が赤く染まり、腫れ上がるほどにこする。
そして小さく顔を僅かに伏せると、唇を僅かに歪めて隠しきれない笑みを刻んだ。泣いているかのような歪さで作った笑みを歪めたのだ。
「最初はひーくんに甘やかされて。
『ゆーちゃんの代わり』に大事にされすぎて。
産まれ持った牙を抜かれちゃったのかと思ったけど……あの姿はまさしく銀髪の鬼、銀髪鬼だ。
──人間離れした綺麗さだった」
歯を僅かに鳴らし。
目を大きく見開き。
そして自身の身を抱えるようにしていた腕を体が軋むほどに広げ、空に向けてその身を大きく仰け反らせて、堪えきれない狂笑を口の端から漏らした。
「銀髪の彼女……あの『先にいた』彼女を見てみたかったなぁ、あぁ、見たかった。まったく、この欲求不満をどうしてくれるんだよ。
僕の中じゃ、僕の中じゃあ、すでに後輩ちゃんで遊ぶ心積もりが出来てたのにさぁ!
ハッ……ヒャハハハハッ!!」
そこまで狂笑混じりに文句を漏らし終えると、その体から血の散弾をバラまいていく。
霧のように細かく、しかし暴悪な力を振りまいていく。
すでに朱色と白銀の力でメチャクチャに、グチャグチャになった大地を、極小の血の欠片でさらに耕していったのだ。
単なる衝動で。
溢れ返る狂笑と共に。
「さてさて。どうしようか?どうしよっかな?あはっ、嬉しい誤算があり過ぎて頭が回んないよっ!これでひーくんとも遊べるなんて、考えるだけで頭がこれ以上どうにかなっちゃいそうだっ!」
彼は思考を巡らせてゆく。回らない頭を、理性というタガが壊れてしまった思考を回していく。
自らの身体に引っかかった形になっている、すでにシャツの原型を留めていないぼろ切れを鬱陶しげ引き裂いて、その頭を実際ぐるぐると巡らせ、首を回してみせる。
このまま関西に遊びにいくべきか、それとも中部や北陸を先に回して、つまらないハズだった関西をメインに当てるべきかを。
シヴァの中での今回の遠征は、『坂上がいなくなってつまらなくなってしまった関西を、今後北陸や中部に遊びに行く時の為の前準備として落としておく』という意味合いでしかなかった。
いずれ北陸の長尾や中部の新羅と遊ぶ際に、関西という皇無き地を持っておいた方がひょっとしたら面白くなるかもしれない、という考えでしかなかったのだ。
そして東海で利権を漁る連中に、勢力が広がる旨味を与えておけば、北陸の長尾や中部の新羅と遊ぶ際に、より大きな遊びへとなり易くなるだろうと考えたし、新たなおもちゃの狩り場として……マンハント(人狩り)の対象として、見知らぬ土地の人間も面白いかもしれない、と思っただけでしかない。
でも──
「あぁ、ダメだ、ダメダメだ。頭が回らないな。乾く、渇くよ。喉が乾く。世界が渇く。
銀色の髪を散らしたい。
赤い血を浴びたい。
磔にかけて、縛りあげて、ぐちゃぐちゃになるまで泣かせたい」
面白くなりそうだったのに。
これからだったのに。
関東を抜けて以来──皇三人に追われたあの時以来、久々に命がけで遊べそうだったのに。
そう思えば、より『乾き』が増した気がしてしまう。
『飢え』が狂おしくなってしまう。
東海という地方では、地域一帯の支配を終えるまでついに味わえなかったほどの興奮が──東海軍ではナンバー2である『ファースト』を相手に回した時でも感じなかったほどの高ぶりが、身体の奥底でくすぶったまま消えてはくれない。
燃え上がった炎が心を燃やし尽くし、銀髪の少女の姿が頭に焼き付いて離れないのだ。
「……ダメダメだね。ダメダメだ。
とりあえずカエラに言って、『銀髪のオモチャ』でも調達させようかな、かな。
例えダミーでも、今は銀髪の女の子でなきゃ満たされそうにないや。考えるのはそれからでもいいよね。この『乾き』を満たしてからでさ」
そう言って、白銀の皇とそのガード二人に攻撃された後でも、結局は傷一つ負わないのままで『堕ちた朱色』は踵を返した。
別にこの場を去った三人に恐れを抱いたから背を向けたワケではなく。
純正型の中でも、皇種と呼ばれた少女とその側近二人を相手に、状況の不利を悟ったワケでもない。
ましてや疲労により戦闘をさけたワケでもなければ、後ろに控えたままの手下達が心配になったという事でも決してない。
マスターシヴァは……そう呼ばれる彼は、そんな事を気にするような性格ではないのだ。
「また来るよ、後輩ちゃん。
次は絶対に遊びに行くよ?ひーくん」
そして──
朱色の皇の進行は、たった一つの都市を落とす事なく。
しかし彼の皇にとってはそれ以上の成果を得て。
現在の朱色の狩り場にして『おもちゃ箱』へと帰っていく。
美味しいものは最後に食べる主義たる彼は、たったそれだけを考えて──関西の地にご馳走を残す事にして、ただそれだけで満足してとりあえず帰る事にしたのだ。
「さぁて、一旦帰ろっかぁ」
のんびりと歩いて帰ってくるなり、ただそれだけを楽しげに言って、シヴァは銀髪の少女の奇襲を受けても無事だった車の後部座席に身を預けた。
そんな彼に特に何かを問う事もなく、カエラはただ首肯を返して、連れてきた東海の軍勢に指示を出していく。
ぼろ切れになった服にも、相変わらず傷一つついていない体にも、その他人の都合を考えていない物言いにも、彼女は特に何かを返したりはしない。
それはマスターシヴァという存在がそんな人物だと知っていたからでもあったが、彼がもう帰るという以上、関西に根城を持つ連中と戦うには戦力が足りないという打算もあった。
彼が帰るという以上、例え一人でもこの少年は帰ってしまうだろう。仲間──同じ地方の人間がいくらやられようとまったく気にも止めないに違いない。
それ以前に『帰る』という言葉に従わない者がいれば、彼はあっさりと殺意を向けて、その後でもう一度『帰ろう』と宣言してみせるだろう。
それこそ全員が帰るに賛成するまで。
マスターシヴァとカエラ二人になっても、彼は全く気にすまい。
その意味でも、連れてきた東海の軍勢全てより、『マスター』一人の方がずっと強いというのは問題だろう。
それこそが彼の意志が軍勢の意志を覆す理由の最たるものだ。
いかに勢力が力を込めた政策でも、彼の気分が乗らなければ実行されない。
彼が戦いたくなれば戦端は開かれない。
今みたいに侵攻作戦の途中──というより、むしろ始まってもいないうちに、中止になるぐらいは普通にあり得る事なのだ。
「何も聞かないんだね、ね?やっぱりカエラは賢いなぁ。
その賢いカエラにさ、頼みがあるんだよね」
「なんでしょう?」
一応形としてはそう問い返してみせたが、カエラにはマスターの言う『頼み』について想像が付いた。
このマスターが『頼み』という言葉を持ち出す時は一つしかない。
「銀髪のおもちゃが欲しいんだ。女の子で銀髪なら作り物でもいい。ナチュラルな銀髪じゃなくてもいいんだ。
小柄で……そうだな、色白なら誰でもいい」
「……大層気に入られたみたいですね?」
今までになく上機嫌なマスター。
その様子こそがカエラには頭が痛い。
余りにも上機嫌過ぎて、その機嫌がハイに振り切れないかと考えてしまう。
その考えがあながち的外れでない辺りがどうしようもない。
「うん?何か問題でもあるかい?」
「問題ありません。帰りつけば『玩具のストック』がありますので、我らが都につくまでお待ちいただけますか?」
「うん、いいよぉ。でも、我慢してんだからぁ、あんまりつまんない作り物はやめてよ?
他に八つ当たりとかされたくないだろ?」
玩具のストック──。
その玩具とは、すなわち『マスターシヴァ』の狂気を向ける対象。
つまり彼の破壊衝動と殺人衝動を向ける為の『血と肉と痛覚と悲鳴を上げる為の声を持った人間』。
罪人を始め、別地方から流れてきた食うに困った難民……そんな理由をでっち上げられた、『マスターシヴァが気に入りそう』という理由で集められた『玩具のストック』。
そんな中から、マスターの要望に従って玩具を出す事も、『マスターシヴァによる東海軍への被害』を減らす為には必要な事だった。
「ふふっ、本当にこの世界は面白いよね、ね。こんなに愉快な気持ちになったのは久しぶりだよ。
事実は小説よりも奇なり。そして世界は『世界』よりも奇なり、だよ、ほんと」
「さようにございますか。今現在南下を続けている北陸の連中はいかがいたしますか?」
「ははっ、心配しなくても、今南下してる長尾じゃ関西は落とせないよ、カエラ。あいつは一回、ひーくんにボロ負けして這々の体で逃げ帰った事があるらしいからね」
「長尾が、ですか?」
長尾まりあ。
支配面積で言えば、マスターシヴァや中部地方の皇、新羅よりもずっと広い地方を掌握している女帝。
そんな女が、ボロボロに敗れ、這々の体で逃げ帰った相手がいるなど、カエラには信じられなかった。
なにしろ長尾まりあは、相性的にはそう良くない相手であるマスターシヴァを相手に回しても、そうひけを取らなかった純正型なのだ。関東軍の皇を除けば、間違いなく最強の女性であろう。
「そうさ。長尾は強いよ。あいつは化け物で……本物の怪物だ。僕と新羅、そして長尾は今じゃ三竦みみたいになっているけど、それはだてじゃない。
でもね、そんな状況でいられるのは……長尾が化け物だと思えるのは、関東の皇達が大人しくしているからさ。
本物の怪物は関東にいるんだ。本物の皇種は始まりの地であるあの地獄で、最初に皇と呼ばれた三人だけだよ」
──長尾はそれをよく知ってるはずさ。
自分より化け物で、自分より最悪な世界をあいつも見たはずだからね。
そして何より。
そう簡単には驚いたりはしないカエラを驚かせたのは、『関西にいると噂だった新皇』、『あやふやな噂でしかなかった生ける伝説』が──『ひーくん』というシヴァらしい微妙な呼び名の新皇が、今現在の関西にいると自らのマスターが確信しているらしい事だ。
マスターシヴァのお気に入りとなり、壊れた彼を上機嫌にさせたほどの銀髪の少女以外に──恐らくは仕留めなかったのであろう化け物少女以外に、そんな規格外がいると断言するような口調こそが戦慄を走らせた。
「彼をもし倒せる存在が『同じ新皇達』以外にいるとしたら……それはこの僕だけだ。同じ『新皇』に目されかけたマスターシヴァだけだ。長尾じゃ無理だ。新羅でも無理だ。あいつらは変に冷静で頭が回るからね。
彼が持つ世界の異常さを知って、怖さをもよく知っていて、それでも恐怖を感じない……感じる感覚がないこの僕にしかひーくんは殺せない」
「………」
「きっとカエラでも、ひーくんのあの『殲滅世界』を見たらびっくりするよ?そしてまともな人間なら、『新皇達』を敵に回した瞬間に絶対に生きる事を諦める。そんな世界を持ってるからこそ新皇なんだからね」
その言葉を最後に、上機嫌そのもので鼻歌を歌いながらその目蓋を閉じる。
この少年が『鼻歌』を歌うという事自体めったにある事ではない。玩具で『遊んで』いる時も、どこか乾いた瞳をしているような無感情さが滲み出ている少年だ。
ここまで上機嫌なところなど、長らく側にいるカエラをもってしても今まで何度も見た事はない。
自分の語った言葉がいかに大きな事なのか、そんな事は一切考えていないのだろう。
──マスターが勝てるというならば、きっと勝てるのだろう。『勝ってしまう』のだろう。
しかし、その情報は秘密にしておかなければならないな。
もし外に漏れたりすれば、マスターシヴァに支配される東海地方で暴動が起きてしまうだろう。絶望に飼い慣らされる事に慣れた人々が、『関西にいるマスターシヴァよりはマシかもしれない皇』という、儚い希望に縋り自滅してしまう。
その結果がいかに分かりきった事なのか、愚かな連中にはきっと分からないのだろうからな。
そんなシヴァを見ながら、カエラは一人考えを巡らせる。
東海軍の参謀長にして、マスターシヴァの補佐官。
狂人の知恵袋にして、狂人による被害を調整するバランサー。
そんな役割を課せられた『サード』たる彼女にとって、それこそが仕事なのだから。
そして現状を見た上で、東海の人間にとって最善で、マスターシヴァにとっても望むであろう策を打つのだ。
「ならば我らは北上いたしますか?長尾が他の誰かにやられては、また不機嫌になられるでしょう?」
「ふん、カエラは相変わらず正直だなぁ。そんなとこも嫌いじゃないけどね。
でも今は行かないよ」
「それは何故でしょうか?」
てっきり『そうだね、それがいいね』と返されるものだと思っていただけに、その返事は彼女にとって予想外だった。
なにしろ関西の坂上が倒されたとの情報が回ってきた時、マスターシヴァはかなり荒れたのだ。
『僕が殺すつもりだったのに出遅れちゃったじゃんか!』
そう言って、今まで安易に関西へと攻め込む事をなんとか自重させてきた側近達数人を、あっさりとミンチにしてみせて暴れ回ったのだ。
だからこその策だったのに、マスターシヴァの返答は予測から外れていた。
「ふん、ひーくんと後輩ちゃんを相手にあの長尾がどこまでやれるのかちょっと興味があってさ。何より今のひーくんがどこまであの『殲滅世界』を扱えるのか、それも見てみなきゃ食い損ねが出る可能性がある。皇は全部僕が食うつもりなんだから、状況はしっかり把握しとかないとね」
「しばらくは動かない、と?」
「二回も言わせるなよ、カエラらしくもないなぁ。飢えは我慢するさ。ご馳走の前だからね、その我慢が辛ければ辛いほど、ご馳走の味が増すってもんだ。そうだろ?」
──だから今日は食い溜めだ。
いい玩具を期待してるよ?
それを最後にひらひらと手を振ってみせると、シヴァはそっぽを向いた。
その態度が『これ以上話すつもりはない』という事であると分かり、カエラは小さく黙礼を返して背を向ける。
変種の皇を全て食らう。
それが単なる大言壮語でも、自意識過剰な自分を過大評価した言葉でもない事は、他ならぬカエラが一番わかっていた。
マスターシヴァと呼ばれる少年にとっては至極真面目で、どこまでも本気なのだ。
そしてそれはカエラにとっても望むところである。
狂人と呼ばれる彼を制御して、なんとか理解して、そして全ての皇達を殺し尽くす事。
それは自分の知識や能力に自信があるものとしては、挑みがいのある課題だ。
ペイ(対価)として自分の命をかける事になっても、それを成せたとしたなら構わないと思えるぐらいの難解な問題だ。
なにしろ遠くを見通せ、遠くに言葉を運ぶ以外には、なんの能力もない自分が、『国一つを壊した国崩しの変種』を殺せるのだ。
これほどやりがいのある事など他には有り得ないとすら思う。
だからこそサードたるカエラからすれば、マスターシヴァの危険性などその異常な能力に比べればなんとも思わない。
彼女は彼女自身が見いだした難問に全てを賭けているのだから。
──最初の新皇、か。
望むところだ。いずれは関東に攻め入り、他の新皇も討つつもりだったのだからな。
私の愛しい狂気が皇を全て食らう過程で、その身も食らってやろう。
そして。
サード率いる東海軍。マスターシヴァが加わった東海軍。
ただ二つの思惑に……二人の狂人に支配された子羊の軍は帰っていく。
犠牲だけを出し、その対価を手にする事もなく。
いずれまたこの地に戻ってくる事を誓って。
シヴァはしばらくお休み。
第三部でも出ますが、長尾のが先かな?
次の話でスズカターンは終わりです。
次の話がメインな感じですが、バトルはナシ。
次回『Mama……』