2─34・Guardian
始まりは今はもう思い出せない。
長くずっと独りでいて、独りっきりじゃなかった頃など忘れてしまった。
そしてそんな時代があったとも彼女には思えなかった、
気付いたらそこにいた。たった独りで震えていた。
ずっとずっと小さな頃から、独りぼっちではなかった時など記憶になかった。
独りで何もかもを学んで、生きるすべを得て生きてきたのだ。
そこは夜眠る時に灯りがなかった。
真っ暗な闇の中でも側には誰もいなかっ
た。
敵意を向けてくるだけの他者がいるだけの世界だった。
夜に怯えて、闇に震えて、一人だった自分に近付いてくる他人に背をむけようとして──でも完全に背を向ける事も彼女には出来なかった。
なぜなら、一人には慣れていたはずの彼女でも、自分が孤独なんだと知ってからの夜は長く感じられたから。
自分の存在が夜の闇の中へと溶けるような感覚は、体が傷付く事なんかよりもずっと怖くなってしまったから。
全身が血にまみれる事は我慢出来ても、孤独にまみれる事だけは我慢出来なくなってしまったのだ。
体の感覚がなくなって。
聴覚も視覚も狂って。
自分という存在そのものが希薄になって。
そんな独りぼっちという闇に溶ける感覚は、自分を殺すものだという事を知ってしまったのだから。
吹き荒れる砂塵は世界を曇らせていた。
長らくアスファルトの下にあり、土中深くに埋もれて、わずかに水気を持っていたはずの赤土が、乾いた砂のごとき軽やかさで噴き上がって世界を舞い狂う。
一見すると辺りの景観は赤土が舞っているだけのように見えるだろう。
既存種から見れば──いや、例え変種であっても純正種でなければ、その辺りだけが普通ならばあり得ない超局所的な突風に見舞われたかのように見えたはずだ。
その領域をくまなく舞い散る銀色の欠片達──銀鈴の『死骸達』の姿が目に映る事は決してない。
様々な色を含んだ白銀色の世界。
その世界の支配者自身が壊し尽くした『万色繚乱の白銀世界』は、マスターの同族の目にしか映らない。
その中心で、支配する世界を狂わせた皇は高らかに吼哮を上げる。
白銀の髪を振り乱し。
血走ったかのように僅かに赤く染まった紺碧の瞳を見開いて。
小さな突起でしかなかった銀色の証が鋭く尖り、その存在感を増した頭を大きく仰け反らせながら、天を貫くかのような産声を上げる。
そして彼女は、自らの領域にある唯一の異物……自分以外のマスターを見やり、白銀色の世界は自らの中にある朱色の世界へと意識を向けた。
皇たる少女はその瞳をより大きく見開き、普段の茫洋とした緩やかな印象の瞳とは似ても似つかない視線──刺し貫くかのごとき『刺線』とも言い代えられるほどの鋭い視線を向ける。
そして自分が壊した世界に彼女は命じた。
狂わせ、壊し尽くした白銀世界に、狂って壊れ尽くしかけた支配者として命じた。
自分以外の世界を持つ者を殺し尽くす為に命じようとした。
「はい、お嬢、そこまでっ。そこまででストップっ!」
「いやぁ、遅れちゃってホントゴメンなさぁ〜い。お嬢、大丈夫だったぁ?」
そんな白銀に──より拒絶の理を狂わせようとしている彼女に、二つの見知った影が気軽に近づいていかなければ、彼女は完全に狂化した世界を回していただろう。
白銀の皇として堕ちた朱色の皇と相対していただろう。
周辺にある全てを壊し尽くして、その代償に『堕ちた朱色』を『壊れた白銀色』で塗り潰す道を選んでいた。
その二人がいなければ、この辺り一帯には彼女にとって『大切なもの』はなかったのだから。
「ヌエ?シュテン?なんで──」
二人は人外の戦場と化した場を、全く意にも介した様子もなく、スズカの側に近寄っていた。
完全に戦闘モードに入っていた朱色と白銀に、あっさりと近付いてみせた。
完全に狂いきるところまでいっていなかった少女は、そんな二人からかけられた言葉にゆっくりと『狂化』から戻っていく。
二人の存在にシヴァ以上に驚いてみせながら……しきりに首を傾げながらも、強く深くしていった世界を霧散させる。
壊れた白銀世界が自分と同じ分だけ全てを壊そうとする衝動を、ギリギリまで追い込んでいた理性でなんとか食い止める。
「いやね、お嬢に頼まれて『提督』や学園の『委員共』の抑えを受け持ってたんだけどさ。学園は相変わらず静かなモンだし、水賊にゃ三班の副官が向かったみたいなんだよ。だから西側は『ネームレス』の一番にお任せして、俺らはお嬢のお手伝いに来たってワケ」
──ほら、今みたいにお嬢って平然とムチャするしさ。
そう笑いながら言う二人の内やや大柄な男は、活動的な黒いタンクトップと締まった体に似合った青いジャージ、濃い灰色の髪が映えるその頭にはタオル地のバンドを巻いている。
その頭を軽く掻いてみせながら、彼は呆然としたまま首を傾げているスズカに気安く近付いていくと、ニカッと気持ちよく笑ってみせる。
「でも間に合って良かったよぉ〜。シュテンのカス野郎がチンタラしてなきゃ、もっと早く来れたんだけどねぇ〜。
……ったく、使えねぇ×××野郎だよ、ホント」
もう片方の細身の女は、ひらひらのレースが着いた白いブラウスと、ひらひらした薄い生地を持ついわゆるゴスロリ調の黒いドレスを纏っていた。
そのほんわかとした、どこまでも穏やかな笑みはとても柔らなモノで、フワフワに巻かれた金糸のごとき髪が、精巧な造りのフランス人形を思い浮かべさせる。
その笑みを浮かべたままで、はてなマークを盛大に浮かべていたスズカに抱きつき、自分より先に声をかけた男に抉るようなローキックを放つ。
しかも爪先を真っ直ぐに突き立てるように、足首のスナップを見事に効かせたトゥーキックで。
「いってぇだろうがっ、こんの二重人格女っ!大体な、お前が『風呂入りたいから廃都寄れ』ってワガママを言わなきゃもっと早く来れたんだよっ!」
「相変わらずシュテンの×××野郎は、細かい事をグダグダ言って、責任を女になすりつけるクソしみったれた男ですねぇ〜。どうせ『アレ』の後始末も女任せなんですよぉ〜、こいつみたいなヤツに限ってぇ〜。まぁ、どうせ一生童貞ですからぁ、関係ないですけどぉ〜」
「だからなんで童貞押しなんだよっ!」
そんな事を言いながら、すねを抱える──それでもスズカを気遣うかのように背後に庇いながら──男と、乱れたスズカの髪を、愛おしそうに撫でる女は真っ直ぐに睨み合い……二人揃ってシヴァへと視線を向ける。
底冷えするような深い青と、猛る獣を思わせる金の二対の瞳を。
今までのじゃれ合いじみた時に見せた視線とは違い、射るような……刺し殺すかのような殺気をのせた強い視線を。
「……ウチの可愛い可愛いお嬢を、あんまりイジメないでやってくんないかなぁ。
……いくらお嬢の元先輩さんでもぶっ殺すぞ」
「こんの腐れ×××野郎がっ。テメェのイカ臭ぇ手で、ウチの可愛い可愛い可愛い可愛いお嬢に触れんなよ。その粗末で小汚ねぇ×××と一緒に、その狂っちまった頭を綺麗に斬り落としてやろうか、あぁ!?」
「……いや……いやいや、殺る気マンマンなのは結構だし、気持ちは分かる。見た目を裏切りまくって口が悪ぃのも毎度のこった。でもよ、ここは一旦退いた方が良くねぇ?」
底冷えのする青の瞳の光以外はにっこりと笑みを浮かべたままで、伏せ字にしなければ聞くに耐えない言葉を吐くヌエに、同じく怒っていたハズのシュテンが腰を引きながら、思わず小さな溜め息を漏らす。
見るからに血の気の多そうな野性味のある顔立ちのシュテンよりも、温和な笑顔のヌエの方が前に立っている辺りが普通ならば違和感を醸し出すはずだ。
しかし、それがこの二人の場合には不思議と不自然には見えない。
それはヌエの言葉遣いによるモノだけではなく、彼女自身が穏やかな笑みのままで、剣呑過ぎる殺気をバラまいている事が要因と言えた。
「腰が砕けたってんなら一人で引っ込めよ、アンダードッグ(負け犬)。一人遊びが好きなマス野郎の手なんざ借りるまでもねぇ。私一人で東海の害獣は駆除してやるよ」
「いや、俺に当たんなよ。俺もムカついてんだからさ。でもお嬢も結構疲れてるみたいだから、休ませてやった方がよくねぇ?」
物騒な殺気を放つヌエと、疲れたように肩を落とすシュテン。
二人はあわあわと二人を見渡すスズカを挟んで、しばし睨み合い……ヌエの方がふてくされたように視線を逸らした。
「…………ちっ、かもしれませんねぇ〜。アホでもたまにはいい事言うじゃないですかぁ〜」
そしてそんな事を言って、彼女は軽く肩をすくめてみせる。
なんの気負いもなく、少しだけむくれるかのように唇を尖らせながら、小さな舌打ちと共に僅かに下がる事で、不満と了解を示したのだ。
そのやり取りをしている最中も、二人はシヴァが迂闊に攻撃を仕掛けられないだけの圧力を放っており、一種異様な空気が辺りを漂っている。
ヌエは尖り突き刺さるような敵意を剥き出しにし、シュテンは重くのしかかるような気配を前面に向けているのだ。
シヴァを牽制しうるだけのそれは、並みの人間には決して持ち得ないモノだ。
「この僕から逃げられるとでも思っているのかな、かな?」
そう言ってはみせたが、その視線や雰囲気からは隙一つ見当たらない。シヴァはその口元に相変わらずの歪んだ笑みを刻んでいたものの、彼の狂人を持ってしてもこの二人に迂闊に間を詰める事を躊躇わせた。
躊躇わせるだけの何か、脅威になりえるだけの確固たる何かがこの二人からは感じられたのだ。
「えぇ〜、そんなの余裕ですよぉ〜?余裕過ぎですねぇ〜。わたしたちぃ、これでも他の皇に付いてた有象無象共とは違ってぇ〜、『たった二人っきりで、白銀のガードをしてきた』んですからぁ〜」
「誰が関東から白銀を冠したお嬢を逃がしたと思ってんだ?灰色が抜けて、警戒しまくってた向こうの皇共に比べりゃ、一人ぼっちのアンタをやり過ごす程度ワケねぇよ」
そう二人揃ってヘラヘラと笑うも、共にその内から滲む敵意を隠さない。
「しつこく追っかけてくる山吹色(ストーカー野郎)や、その手下の雑魚共にぃ〜、横からちょっかいかけてくる中部のバケモン野郎、身の程知らずの盗賊達を〜、お嬢と退けてわたしたちってばこっちまできたんですよぉ〜?」
黒鉄第七班の誇る『夜狩』と『牙桜』は、狂人を前にしても一歩も退く様子はなく、スズカの前に立ちふさがり、揃ってその手をかざしてみせた。
ヌエはその身を銀鈴の敵を砕く剣の先端として。
シュテンはその身を銀鈴を守る為の大楯として。
その姿は、東海の狂人を前にして、なおその身を誇るかのように真っ直ぐと立ちはだかる。
「つまりぃ……大物ぶってあんま余裕かましてんじゃねぇぞ、ダーキーヘッド(イカレ頭)。お嬢にムチャさせたてめぇは、次の機会に殺す。体に千個穴開けて、その穴全部に指ぃ突っ込んで、グチャグチャに中を掻き回して狂うほどに逝かせてやる……って事ですぅ」
「たった三人きりの一軍、たった三人だけの軍勢。今のアンタは、関東軍の一角だった軍勢と、一人っきりで向かい合ってんだよ」
その言葉を最後に、一番前面に立ちその手をかざした少女の殺気は空間を走り抜ける。そしてにっこり笑ったまま柔らかく立てた親指を地面に向けて振り下ろした。
そのすぐ後ろに立つシュテンは、立てた親指で自らの首をサッと掻っきるジェスチャーと共に、唾を吐き捨ててみせる。
「……あいつを抑えろ」
そのシュテンの言葉に大地が揺れる。
「あのクソッタレを喰らっちまいな」
続いて言った柔和な笑顔のままのヌエの言葉に、大気が激しく振動する。
赤土にまみれた幾本もの触手が伸びて大地に亀裂を作り、ヌエから飛び立った小さな黒点は空間一帯を支配する。
触手は『木』。黒点は『虫』。
木々の生えていない場所には有り得ない──二人の皇により、歪に耕された大地には見合わない巨大な幹は、ほどなくシヴァを間断なく囲い込んでいく。
そして地球上で群れを成す生物としては最も強大なる種族の一、子供の手の平ほどもある蜂の王『オオスズメバチ』の兵団が、シヴァを女王の敵対者として覆い尽くす。
最初小さく細い触手だった幹は、ゆっくりと……しかし常識からすれば目を見張るほどの勢いでその身を太くし、蠢く羽音は膨大なる群れでもって、その音源であっという間に増してシヴァを囲い込んだ。
「逃げやしねぇよ。ちっとこの場は借りとくだけさ。
仮にも皇ならこれぐらいは切り抜けられんだろ。
イカレたその頭で精々覚えとけ。
こっから先の地はてめぇにとっての鬼門なんだって事をな。今の俺ら二人に狙われたら、いかなアンタでも無傷じゃ済まないぜ?」
「アンタはわたしらが殺す。お嬢が手を下すまでもねぇ。わたしら二人で充分だ。
少しだけそいつらと遊んでから追いかけてきな、マッド野郎。綺麗に駆除してやるからよ。
……ほら、ウスノロ、とっととお嬢を背負えよ、気が利かねぇ童貞野郎だな」
「わぁってるよ、イテッ、蹴んな」
そしてシヴァをその場に置いたまま、二人は気楽な歩調で背を向ける。
『壊れかけ』から戻ってきた反動からか、いまだに混乱しているらしいスズカに二人揃って優しく手を貸しながら。
「おい、コラ、童貞。改まって言うまでもねぇだろうが、変なトコ触ったらその汚ねぇのねじ切るからなっ」
「お嬢の前で下品な事言うな」
「確かにシュテンの×××野郎の首は、下品な代物ですぅ〜」
「ねじ切るって首かよっ。普通に死ぬわっ!」
異形の線と点の群れに包まれる純正型を視界から外して、シュテンは軽く首を傾げたままのスズカを肩に担ぎ上げる。
ヌエはそんなシュテンに腰の入った蹴りを入れて、いつも通り過ぎるやり取りを交わしながら後退していく。
極小の点の群れと極太の線に囲まれ蠢く塊をその場に残して。
「もぉ〜、お嬢が本気でブチ切れたらわたしたちじゃ止められないんだからねぇ〜!『向こうに行っちゃった』お嬢は本気で怖いしぃ〜」
「……うぅ、でも」
「デモもストもないよ、ホント。いや、勘弁して、マジで。ブチ切れモードのお嬢を前にしたら、ヌエのヤツはびびって腰引けちまうんだ。つまり俺ばっかりが苦労する羽目になるんだからさ──」
「テメェも似たようなモンだろうが、この××××野郎。向こうから逃げる最中に、あのクソ陰険山吹野郎が追っかけてきた時、ブチ切れお嬢にブルってヘタってただろっ?!」
「お前よかはマシだよ!さっさと一人だけ逃げやがったクセに!あん時俺を蹴り転がして一人だけ隠れてたのを、まさか忘れたとは言わせねぇぞっ!お前に蹴り飛ばされた直後に、思いっきり顔の間近を妖刀が掠めていったんだっ。普通にヘタるわっ!」
「……あの、落ち着いて──」
「とにかくお嬢はブチ切れ禁止だからぁ〜!『あれ』は、可愛くないしぃ〜」
「絶対、お嬢はブチ切れ禁止ねっ!次辺り平気で死にそうだからっ!俺がっ」
主従なのか、兄妹なのか分からないやり取りを交わしながら。
抱えられたスズカに、二人っきりの同僚がコンコンと言い聞かせながら。
ここでスズカターンは終わりじゃないですよ?
シヴァがどうするのかも載せますし、ここからがスズカターンのメインとも言えます。
ネタばれ覚悟で言うなら、彼女のバトルパートはもう終わりですけど。