2─29・大事なものは残されている
「さて、さっさと帰るわよっ!」
眠る前までは散々色々と考えを巡らせていたはずなのに、目が覚めた瞬間にはカーリアンの頭の中からそんな考えなど綺麗に消え去っていた。
──もう廃都に帰ってもいいんだ。
起きた瞬間にそんな事が頭に浮かんだ以上、彼女のテンションは否が応でも上がってしまう。
もう待たなくてもいい……そんな事などより、今は『帰れる』事の方が彼女には嬉しかったのだ。
現在、廃都と呼ばれる街は未曾有の混乱の中にある。
そこで今も苦労している仲間達。
彼女が出生地である東海地方から共にいる少女は、きっと文句を垂れ流しながら……あるいは雑事を押し付けた男に呪いの言葉を吐きながらも、手を抜けないその性格から人一倍頑張って裏方や雑事をこなしているだろう。
水鏡と呼ばれる女性は、きっと見境なしの同僚に苦労をかけられながらも、仲間達の……そして居場所を守る楯となるべく、いつも通りのたおやかな笑みを浮かべたままその身を張っているだろう。
副官の男は、いつもと変わらない笑みを浮かべたまま、自分がすべき事を最も効率的なやり方でこなしている事だろう。
──そして一人、誰も知らない混沌へと立ち向かっている男。
黒鉄の創始者たる純正型の男が造り上げた、『変種の皇をも殺せる武器』を破壊すべく一人地下へと入っていった彼。
他の仲間達がその存在に狂わされないように、その間違った存在を望んでしまわないように、他班の誰にも知られる事なく一人過去に立ち向かっている仲間。
(また無茶してるんだろうな、あいつ)
しっかりと胸に抱いて寝た、その男の愛銃にして呪縛が包まれたお手製ガンベルトの表面を軽く撫でるだけで、カーリアンは思わずほっこりとしてしまいそうになる。
その柔らかな表情と穏やかな心情は、無茶をしていても『彼は大丈夫』という予感が彼女にはあったからだ。
今の彼は──自分や二班の面々まで新たに仲間として抱えた彼は、以前よりももっと安易に死ねなくなったはずだから。
全てを知っても付いてきてくれる仲間達をほったらかしにして、あの変にお節介な男が自分だけ楽になれるはずがないのだから。
そんな仲間達の事を思えば、彼女の気持ちは朝起きてすぐの状態であっても逸りそうになってしまう。
「朝からあなたは元気ね?ウチは低血圧だから、もう少しテンションを下げて欲しいのだけど」
「さっさと起きて支度して!時間になったら一回橋の下を見に行って、そのまま神杜まで帰るんだから」
「えらく張り切ってるのね。朝はゆったりとした時間を過ごしたいものだけど……あなたの言う通りにするわ」
もちろん今の旅の連れである『レッドコード』の事は忘れていない。
彼女を連れて帰ると決めたからには、当然その責を全うする覚悟がある。
つまり、『彼女が仲間達に害をなす存在だったのなら、自分の手で始末をつける』という覚悟が今もあるという事だ。
しかし、それはいついかなる時でも牙を剥くべく心掛けておく、という事と同義ではない。
『レッドコードだから……自分の勘がそう告げているから、彼女とは戦う羽目にだろう』
そう決めつけてかかるのは、カーリアンがミヤビから学んだ一番大事な黒鉄としての心得……『いつも笑っている為の心得』から反するのだ。
──彼女があたしの決めた一線を越えた時、その時までは笑っていよう。
朝目覚めた瞬間にそう決めただけで、彼女は彼女らしさを取り戻していた。
特に夢を見ていたワケではないのに、何故かモヤモヤしていたものが目覚めた瞬間には消えていたのだ。
──いつでもどんな時であっても、むやみやたらと牙を剥いたりなんかしなければきっと笑う事も出来る……か。
あたしが『紅』という牙を剥く時は、あたしが譲らないと決めた一線を踏み越えようとする相手がいる時だけ。結局はそれだけの事なんだよね。
そんな単純な考えを改めて刻みつけただけで、カーリアンは自分らしさを取り戻せた。
昔のいつでもどんな時でも『敵』を探し、誰にでも強大な『紅』の牙を剥いて威嚇してみせた『死にたがり』から離れられたのだ。
師の鉄拳でもって刻み付けられた記憶。
笑顔でもって示された道。
涙でもって教えられた暖かさ。
それは今でもカーリアンを助けてくれている。
朝焼けの空が目蓋を焼いた。
僅かに活気が感じられる朝市の声が耳朶に響き、カーリアンは軽く目を細めた。
「ん〜〜」
「今日は何故か昨日よりも機嫌が良さそうね?」
気持ち良さそうに伸びをする彼女に、隣で出立の準備をしている黒い外套を羽織った女が思わず訝しげな声をかける。
「そう?」
「えぇ。昨日はやたらピリピリしていたから、夜眠る前も少し緊張していたのだけど」
「寝込みを攻撃する真似なんてしないわよ」
「そこまでは考えていないわ。あなたはそんなタイプには見えないもの」
「ふん」
確かにカーリアンは感情が表に出るタイプで、裏工作や闇討ち、不意打ちに向いているタイプではない。
それは彼女自身も自覚している。
しかし、それを読み切ったかのようなエリカの台詞には思わず鼻を鳴らしてしまった。
「ただ、朝起きたら『やっぱり連れて行かない』とか言い出したりしないかと不安にはなったけれどね」
「それこそないわよ。あなたが本当に仲間になりそうなんだったら放っておくのは薄情ってものだし、本当の意味で仲間になれそうにないんだったら、なおさらあたしが目を離すワケにはいかないでしょ?」
──仲間になれるのならばその手助けはするべきだ。しかし、仲間になれないのならば、なおのこと目は離せない。仲間になれないのに味方に入り込もうとする相手は、きっと単純な敵よりも厄介な相手だから。
カーリアンがそう言外に言っている事を悟り、エリカはなおさらおかしそうに笑う。
「……ふふっ、そうね。全くもってその通りだわ。昨日も思ったのだけれど、あなたはやっぱり彼女に似てるわね」
「彼女?」
「昔の知り合いよ。もういないわ」
「そっ」
そんな簡潔極まるカーリアンの返答にも笑みは増していき、最後には声を上げてエリカは笑いだした。
目には薄く涙が滲んでいる辺り、かなり本気でツボに入った様子で、笑われているカーリアンの方は思わず首を傾げてしまう。
しかし、意味も分からないまま笑われているという状況に、さすがに面白くなかったカーリアンはムッと顔をしかめるが、それよりも早くにエリカが口を挟んだ。
「あぁ、気を悪くしないでね?あなたのようなタイプ、ウチは好きなのよ?」
「笑いながら言われても信用出来ないわよ」
ムッツリとして見せてはいても、そこに敵意じみたものがない事は分かっていたのだろう。エリカは憚る事なく笑みに顔を崩して続けた。
「他人の過去には無闇に触れない。仲間に及ぶ危機は見逃さない。あなたはシャクナゲや彼女みたいな典型的な『黒鉄』ね。
今はもう少なくなったと思っていたのだけど……」
「黒鉄はなくならない」
エリカが言う『彼女』。
それが誰なのか、カーリアンには分かった。
シャクナゲと共に典型的な『黒鉄』として挙げられる存在。
それは『カーリアンになる前の自分』──『死にたがり』とまで呼ばれた真っ赤に濡れた過去には全く触れもせず、気安く近寄ってきた少し年上の少女。
戦場では誰よりも勇猛果敢な剣使いでありながら、他人の抱える闇にはあっけらかんとした態度でもって接してきた彼女。
その抱えた闇ゆえに間違った方向に歩き出そうとした時にのみ、全力でぶつかってきた『錬血』と呼ばれた最初の黒鉄の一人。
それを悟った瞬間、カーリアンの口からは言葉が漏れていた。
「人がいなくなっても記憶は残る。意思は残る。想いも残る。
確かにあんたがいた時に比べたら、強い力を持つ黒鉄は大勢いなくなったかもしれないよ。でもさ、今の黒鉄が昔よりも弱くなった、なんて考えないでね?」
「……」
「まだシャクがいる。あたしもいる。スズカもスイレンもいるし、今は仲違いしてはいるけどナナシやオリヒメもいる。
そしてみんなに残された意志も、託された想いもちゃんとこの胸に刻まれてる」
そう語るカーリアンの表情に硬さはない。強い口調でもない。
それだけに揺るぎがない。
脅しをかけるようでもなく、誇る風でもない言葉は、ただ事実を思ったままに告げるそれだ。
それに呑まれるかのように、エリカは笑みを収めた。
「さっ、朝市でも覗きに行こ。何か手に入ったら、不味い簡易食料食べなくても済むしさ」
「……そうね」
──そんなに持ち合わせもないんだけど。
あっさりといつもの調子に戻り、そんなことをぼやきながら背を向けるカーリアンに、エリカも続けて立ち上がりながらその口元をキュッと噤む。
まるで先ほどのカーリアンの言葉をしっかりと噛みしめるかのように。
「その通りだわ。昔の顔なじみ達がいなくなったからって、腑抜けた連中ばかりが残されているほど甘いワケがなかったわね。
ミヤもアカツキもそんなに甘い人間だったのなら……弱い人間だったのなら、ウチは『アレ』を諦めて黒鉄を抜けたりなんかしていないもの」
その瞳は暗く深い色を宿して。
蒼白に近い色の寝起きの顔には、どこか寂しさを宿して。
「でも、今更諦めるなんてもう出来ない。
例えあの街にあなた達の意志が残されていても──ずっと憧れて、後を追っていたウチには、もう『アレ』しかないのだから」
そして、閃光を名乗る女は先に出たカーリアンの後を追って廃屋を後にした。
もはや『来るはずのない諜報員』を待つ彼女を……自分でも意外なほどに気に入ってしまった昔馴染みによく似た彼女を、一体どうするべきか考えを巡らせながら。
来週もちゃんと更新します。
今回よりは長いです。