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2─22・ファム・ファタル






「さてさて、これはちょっとばかり困りましたね」


 波に揺れる小舟の舳先に立ち、小さな苦笑混じりにそう言うと彼は軽く肩をすくめてみせた。

 見渡すばかりに広がる海原のど真ん中で、言葉ほどには困った風もなく自らの細い顎に手を当てると、アオイは目の前を仰ぎ見た。


「どうしたものか、といっても方法なんて一つしかないんですけど。厄介ですねぇ」


 目の前にある異形……不可思議な現象に軽く小首を傾げる様は、どこまでもいつも通りの飄々としたものであり、その言葉とは裏腹に困った様子は見受けられない。


「『提督』の力が、これほどまでに巨大なものだとは……少々彼女を見くびっていましたかね?いやいや、全く大したものです」


 彼は小さな漁船に乗り込み、自ら舵を取って『瀬戸内水賊衆』の本拠地がある瀬戸内海の小島へと向かっていた。その島まですぐ近くの位置まで船を進めており、あと数十分もあれば到着する場所まで来ていたのだ。

 そこで船を止めざるを得ない事態に直面し、僅かでも時間を取られるという意味では、確かにアオイは困っていた。

 正直な話、時間は何物にも代え難い。僅かであっても面倒事は避けたいというのが本音だ。


「やれやれ。せっかく私一人で来たというのに、まさか問答無用で警戒されるとはね」


 戦力となる仲間は一人も連れてこなかったのは、下手に警戒される事を恐れての事だ。無駄な問答をしない為だ。

 その為だけに船頭紛いの真似まで自分でこなして、アオイはここまで来たのである。

 それなのにこうまであからさまに、そしてどこまでも問答無用で警戒されてしまっては、慣れない舵取りまでした甲斐がない。


「本当にやれやれです。まぁ、骨折り損のくたびれ儲けには、ここ数年で随分慣れさせて頂きましたけどね」


 そう嘆息混じりに独白を漏らして。

 目の前にそびえ立つ『海水で出来た巨人』に向けて、気安く肩をすくめてみせた。



 瀬戸内水賊衆・頭目である提督を名乗る少女が、関西では珍しい純正型である事は知っていた。

 その能力が『固定』の理によるもの……中でも彼女にとっては身近なものである『海水の固形化』だという情報も知っていた。

 それでもいきなり目の前の水面が隆起すればさすがに面食らった。その上、仰ぎ見なければならないレベルの『巨人』を作り上げる事が出来るほどだとは聞いていない。彼が目を通した情報や、聞いていた話とは違っていたのだ。


「さて、どうしましょうか?案内役として出てきて頂いたのなら嬉しいのですが……やはり違うんでしょうね」


 派手に隆起し、大きく盛り上がったくせに、全く動きを見せない海水はどこまでも異常だった。

 目の前で津波が固定されたかのような違和感。向こうが濁りながらも透けて見える辺りが現実感を綺麗に壊していた。

 それらから、この巨人そのものが……巨人を形造っている空間そのものが、『提督の世界』なのだろうと推測する。

 純正型としての世界。

 海水の固定という理を持つ、提督の呼び名を持った少女だけの異界。

 それに目を凝らしてみせてから、大仰な嘆息を漏らしてみせた。


「やっぱり『世界』は見えない、か。その理が及ぼした『結果』しか見てとれない。世界という異界には少し興味があったんですけどね。少々残念です」


 どのような世界でもって、こんな不可思議な現象を起こしたのか。そして純正型が持つ世界とはどのようなものなのか。

 興味が全くないと言えば嘘になる。

 しかし、アオイの場合はカクリとは違い、好奇心などといったものはサラサラない。今の言葉も単なる今まで得た情報の確認の為に過ぎず、これまた言葉ほどには残念そうな響きも感じられない。

 改めて確認を取れた事に小さく頷いて見せていたほどだ。

 むしろ目前にいる異物を前にして、どこまでも平常通り過ぎるきらいすらあった。


「案内役でもない。かといって単なる示威武力でもなさそうだ。今は何も動きはないにしても、この先へ進もうとしても大人しくしていてくれるかと言えば……期待はできないんでしょうね」


 ──むしろそんな安易で甘い期待は持つべきじゃない。

 そう自らを戒めながらも、彼は船の向かう先を変換させない。

 『変換』させる必要がない。

 むしろ面倒そうに巨人を見やりながら、船室の入り口に掛けたままにしておいたナップサックから覗く鎖へと手を伸ばした。


「こういったやり口は好みじゃないんですが、時間が余りにもないものでしてね。

 ここまで問答無用な対応をされると逆にありがたい。無駄な時間を全く取らなくて済みます」


 そして鎖を象る輪の内の一つに指を射し入れると、それを軸に鎖とその先に付いた棒状のモノ……鞘に入ったままの小剣を鎖ごとクルクルと回してみせる。

 そしていつも通りの穏やかな笑みを浮かべ、この場では明らかに場違いな柔らかい声音で宣告する。


「力ずくで押し通ります。

 ──久々に踊ろうか、私だけの『運命のひと(ファム・ファタル)』」


 その宣告と共に。名前を呼ばわると同時に。アオイの意志が伝わった瞬間に。

 クルクルと取り回されている鎖に結ばれた二対の小剣が……その身を覆っていた鞘が、まるで手に取って刃を抜いていくかのようにゆっくりと抜かれていく。



 ──『付与』の世界を持った純正型。

 黒鉄の創始者にして、あり得ない物質を想像し、創造する異端のアイテムクリエイター。

 『暁』のコードと同じ呼び名しか知られていない男が残した、四つ目の異物にして遺物。

 ファム・ファタルの銘で呼ばれるそれは、まるで見せ付けるかのように、鎖に通されたアオイの指を支点にゆるやかな弧を描く。

 光を飲み込むかのような鈍色の刃と黒い鎖は、どこか不気味な空気を放ち、今は不機嫌そうに小さく振動していた

 刃が抜かれた鞘は羽毛のごとく柔らかく船の上に落ち──アオイは薄く笑みを浮かべる。


「やり過ぎないように……出来たらいいんですけど、『彼女』は寝起きに不躾な敵意を向けられて大層ご機嫌が悪いみたいです」


 苦笑混じりにそう言ってから船縁に足をかけると、アオイは鎖から垂らした小剣の片方を海面へと向ける。もう一方は、アオイにしなだれかかるかのようにその鎖を腕に絡め、先端の小剣は二の腕にぶら下がった。

 その様は小剣自身が意志を持ち、アオイに甘えているかのようにすら見えなくもない。


 そしてアオイは無造作に海へと降り立ってみせる。まるでそこに堅い地面があるかのように、唸る波も沈むはずの海面も気にした素振りはない。

 降り立った海面も、そんなアオイの考えに従ったかのようにしっかりと彼の足を受け止める。

 先に海面に付いていた片方の小剣は沈む事なく突き刺さり──そこを中心に、周囲一帯の海水を『氷』へと変えていた。

 真っ直ぐに海面に浮かび、立ちはだかる巨人を覆う氷原へと変換させていたのだ。


「望みのままに……『変換』せよ、私のファム・ファタル」


 温暖な瀬戸内に浮かぶ異常な流氷は、やがて巨人を覆う表面にすら迫り、その動きをゆっくりと、しかし確実に縛っていく。

 その表面が凍る事はない。同じ海水で出来ていながらも、その表面を境に提督が支配する領域内だ。

 しかし、辺りを氷で閉ざされてしまっては動けなくなる事に変わりはない。いかに巨人がもがこうが、津波のごとき巨躯で力を振るおうが、それはアオイからすれば無駄な足掻きにも満たない。


「放っていっても構わないんだけど……そうだね、そうしようか」


 それを巨人のリーチ外から見やりながら、アオイは腕に絡みついた方の小剣に語りかけ、にっこりと笑いながら頷いてみせる。


「やっぱり君は賢いよ。そして私の考え方をよく知ってくれている。

 障害はやっぱり綺麗に片付けてから先に行くべきだ。後顧に憂いを残すなんて私らしくない」


 その言葉と共に、海面に突き刺さっていた小剣はスルリと抜けると、もがく巨人がいる方角の空間を鋭く薙ぎ払う。

 その空間を切り裂くかのように鋭利な剣閃は、剣そのものが意志を持って動いたとしか思えない。

 なにしろアオイは、先ほどから無造作に氷原に突っ立ったまま、指一本たりとも動かしてはいないのだから。


「──変換せよ、ファム・ファタル」


 彼がした事はと言えば、薙ぎ払う動きに合わせて再度小さくそう呟いただけに過ぎない。そして相も変わらず穏やかな笑みを浮かべていただけだ。

 それだけで、もがいていた巨人が小剣の剣閃に合わせて上下に両断される。

 まるでその両断した空間を、巨大な無色の刃が通り過ぎたかのように。

 『変換』された何かが通り過ぎた後には、ただ真っ二つに切り裂かれた異形の巨人の下半身だけが立つ。


「なるほど。この巨人は通常の攻撃で傷を付ける事も出来る、というワケですか。ヨツバさんのような……そして話に聞いていたシャクナゲのような、通常の攻撃が効かないタイプじゃなくて助かります」


 それを確認して小さく頷いてみせると、今度は一度だけではなく、何度も何度も小剣は空間を切り裂いていく。

 その度に、斬り飛ばされた海水が寄り合い、再び形を成そうとする巨人が千々に切り裂かれ、微小な水滴を辺りへと撒き散らした。


「まぁ、通常の攻撃が効かなくても、『君』なら壊す方法はあるんだけどね」


 そう言って腕に絡みついている方の剣に小さく笑みを向け、少し思案するように空へと視線をやってから、そのまま凍りついた大地を歩いて先に見えている島へと向かっていく。そこまで乗ってきた小舟は、辺りを覆った氷に取り込まれたようになっているが、それを気にした素振りはない。


 ──水賊達と争う事になったのなら、船を一つだけ壊さずに取っておいてそれで帰ればいい。もし話し合いで済んだのなら、帰りの船は出して貰おう。


 そう都合よく考えをまとめあげ、氷の海面に突き刺さったままの小剣をぶら下げるようにして引きずっていく。

 微塵に切り裂かれた巨人も、幾分その体を縮ませながら、再度体を構成させてその巨大な拳を振るうも、今度はアオイも目を向けはしない。

 後顧の小さな災いよりも、今は時間だ。完全に巨人を沈黙させるには、代償となる時間が大き過ぎる。

 そう思い直したのだ。


「お先に失礼」


 ただ一言そう告げて、リーチの外をただ黙々と歩いていく。

 歩みの向かう先にある海水を、次々と氷へと変換していきながら。

 あくまでも穏やかな笑みを浮かべ、飄々とした態度を崩す事もない。

 アカツキが最初に作り上げたグループ、今は無き『無銘』の名前を継ぐ一番目としてあっても彼は変わらない。


 ──ネームレスの一が果たして純正型に勝てるか。

 ──アカツキがシャクナゲの為に残した『遺産』として、力を持ってあの人の『わがまま』を……『全てを守りたい』という今の時代にあっては非常に難しいわがままを通せるか。


 『物質の在り方の変換』という、強力な理を宿された小剣を携えた青年は、その為にだけ存在しているのだから。

 変換の代償として、人間に取って最も大事なものを……人間にとっては当たり前なものを失った彼には、もうそれしか存在理由が残されていないのだから。


 だからこそ彼は飄々とした態度をいつであれ崩さない。

 彼はどんな時であれ変換しない。

 彼は本来刻々と変換すべき感情を、今は一切持ち合わせてはいないのだから。


 だからこそネームレス・ワンたる彼は……ファム・ファタルに感情の全てを捧げた男は、いつであれ無難な笑顔を浮かべ続けているのだ。



ファム・ファタルとネームレス・ワンの紹介は次話です。

すごく短くて申し訳ない。

なにしろ長くなり過ぎて分けた次第でして。

今から次話も編集します。

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