2─19・3勢力の邂逅
今更ですが、ご指摘により坂上晴臣の人物紹介をあとがきに載せています。
彼は風だ。そう評価された事が幾度かあった。
その評価は彼も気に入っていて、それゆえに自らを風と冠した呼び名で縛った。塵を舞わせ、人を翻弄する存在と己を律した。
彼は風として存在し、無色透明の力として在る事を望んでいたからだ。
時に人を翻弄する春風のごとく。
時に冷たき北風のごとく。
そして時に、人を傷付ける烈風のごとく在る事を。
そんな彼が望む事はただ一つ。ただ一人の少女の平穏。一人の少女のあるがままの笑顔を取り戻す事。
風を冠した青年は、夜空を舞う鶴を守る存在として、今も黒鉄にある。
「で、あなた方はどちらに着くつもりなんだ?」
「さっそく本題かよ。わざわざこっちまで俺のワガママで出向いてもらったんだ。少しは雑談ってクッションを入れてくれないもんかね」
会議室どころか室内ですらない六班本部の屋上にて、二人の男が向かい合っていた。
一方の大柄で筋肉質な男は、目の前にいるいかにもダルそうな表情をした長身痩躯の男を、まるで値踏みするかのように見やっているのに対して、長身痩躯の男は、筋肉質で大柄な男へと面倒そうな表情を隠す事もなく向けている。
「残念ながら忙しい身でね。楽しく雑談をしている暇などないのだよ」
「ふん、そりゃご苦労なこって。そんな中、わざわざ訪ねてきてくれたのに悪いんだけどよ、正直どっちにって言われてもなぁ。ほら、ウチって情報班だしよ、あんまりドンパチにゃ関わりたかないってのが正直なトコなんだけどね」
あくまでも面倒そうに、どこか小馬鹿にした風もある言葉にも、筋肉質な男は表情一つ変える事はない。
それどころか緊張感すら滲んでいるようにも見える。
「今の黒鉄が、そんな言葉が通用する状況にはないって事ぐらい君にも分かっているだろう?」
「かもね。だけど、『金剛』さんよ。おたくら一が三とやりあうのは勝手だがね、ウチまでそれに巻き込むのはやめてもらえないかなぁ。勝てる自信があるってんならウチを無理に引き込む必要なんてないし、今の戦力じゃ勝ち目が薄いってんなら……そんないずれは沈みそうなドロ船に他人を巻き込むなよ」
黒鉄第六班『情報班』の本部たる廃ビルの屋上で向かい合う二人は、どこまでも対照的な二人だった。
かつてIT企業の自社ビル跡だったこの地を根城とする六班の副官は、長身痩躯を相変わらずのダルンダルンなだらしないジャージで包み、置かれていたベンチの背もたれに怠そうに寄りかかっている。それに対して相対する一班副官は、その筋肉ではちきれそうな体を黒のタンクトップで包み、ミリタリー調のパンツを履いた足から頭の先まで、真っ直ぐな姿勢で立ったままだ。
一の副官は、六の副官に対して緊張感を滲ませた視線を向けているが、六の副官たるマルスにはまるで応えた様子もなく、いつもと変わらない面倒くさそうな視線を返していた。
「だいたいな、金剛さん。あんたは俺を毛嫌いしていなかったかい?おたくの鉄拳ほど露骨じゃなかったけどね」
「カリヤは単純に『無能』の外面にとらわれ、副官であるという立場を妬んでいただけだ」
「ま、俺って寝てばっかの役立たずだからな」
一班副官たる金剛のメメの言葉にも、風塵はヘラヘラと笑う。しかし、その笑みにはなんの返答も返さないままメメは続けた。
「だけど私は違う。私はお前を不気味に思っていただけだよ。恐れていたと言ってもいい」
「武闘派たる一班の副官殿の言葉たぁ思えないね」
揶揄するような響きのマルスの言葉に、僅かばかりの小さな笑みを刻みながらも、メメはどこまでも真っ直ぐに見返したまま視線を逸らさない。
「ヘルメスの力は闘いに向いたモノじゃない。珍しくはあるし汎用性はあるが、それだけだ。では班長(彼女)が持っていない戦力を補うのは、さて一体誰なんだろうな?」
「……ウチのみんなは頑張ってくれてるからね」
「アカツキやシャクナゲが情報班だけに戦力を割かない、なんて事は有り得ない。救急である二班にも『紅』がいる。何より君達は関西一円で関西軍と黒鉄に続いて大きな勢力を誇った『元ゼフィーロス』だ。現在の情報班で……そしてかつてのゼフィーロスで、彼女に代わって戦ってきた者は一体誰なんだろうな?」
メメの真っ直ぐすぎる問いかけにも、マルスはその表情を変えない。しかし、一瞬だけその気だるげな瞳が、鋭く細められた事をメメは見逃さなかった。
「……色々考え過ぎなんでない?ウチは敵対しないし味方もしない。その返事だけで満足して帰ったら?」
「そうはいかない。君には分かっているのだろう?あのヨツバに目を付けられたウチにそんな余裕はないんだ」
あくまでも笑ったままで。
瞳の奥に焦燥感と、それにも負けない強い意志を秘めて。
メメは目の前でその視線を胡乱げに細める『切れ者』へと向けて、その意識を高めていく。
「いざという時に敵に回る可能性がある相手……しかも君みたいな厄介な男に、中立を装っていられては困ると言っているんだよ!」
メメが一気に距離を詰め、力を高めた拳を振り抜くのと、マルスがダルそうに背中を丸めた姿勢のままで、背を預けていたベンチを飛び越え、地面を滑るように後退するのはほぼ同時の事だった。
『金剛』と呼ばれるコードフェンサー・メメの能力は、肉体の硬化──つまり自らの筋肉を鋼のごとく堅くする能力だ。自在に体を覆う筋肉を堅く固めて、攻守に活かす能力だ。
もちろん肉体を単に堅く固めてしまえば身動きが取れなくなり、使い勝手はそうよくない能力だと言えるだろう
だが硬軟自在に能力を使えば、その能力は接近戦においては無類の強さを誇る。
柔軟性を活かした振りから繰り出された拳は、普通に振るうよりも断然早く、鋭く振り抜かれるし、当たる直前でその拳は鋼の硬さまで持つ事になるのだ。
コンクリートに穴を開ける事すらも容易なそれが、先ほどまでマルスが腰をかけていたベンチをいともあっさりと微塵に砕く。
しかし、それほどの破壊力を誇ったメメでも、マルスを侮る事は出来なかった。それは武闘派として知られる一班の副官として、ほとんどの戦場で最前線に立ってきたがゆえの本能的な警戒心が働いたと言ってもいい。
だからこそ危険を承知の上で、相手が指定するまま六班本部の一番奥深くまで足を運び、接近する事にしたのだ。
交渉が無理だとしても、接近戦ならば自分の方が有利だと確信を持って。
事実、マルスもかの『金剛』に対して接近戦を挑む無謀を嫌い、即座に距離を開けるべく、滑るように地を駆けていく。
「これぐらい近距離だったら俺のが不利……かね。あんたのゴツいパンチなんか食らっちまえば、俺なんて挽き肉にされちまう」
「力を使うヒマなど与えんよ。苦痛も考慮しよう。それに心配せずともヘルメスには手を出さない事も約束する」
「はん、お優しいこって。それにしてもウチの屋上で堂々と副官の俺を暗殺しようたぁ、本当大した度胸だよ」
二人の距離は五メートルと空いていない。まさに一息の距離であり、この距離での戦闘では、下手な能力や武器などよりも身体能力こそが一番重要である事は明らかだ。
しかし、おいそれとそれ以上の距離を取る事はマルスにも出来なかった。もしこれ以上不用意に距離を開けようとしたならば、メメは間違いなく問答の隙すらもないまま一気に距離を詰めてくるだろう。
それは金剛と風塵、二人の身体能力の差以上に、『前進するか後退するか』という違いが大きい。前進して距離を詰めるメメの方が、後退して距離を開けようとするマルスよりも有利なのは言うまでもない。
それが分かっていてもマルスはダルそうな態度は崩さないままで、小さく唾を吐き捨てる。
「でもさ、俺がここ以外じゃ会談に応じないって言った意味が、メメには分かんなかったみたいだね」
「六班本部……だからではないとでも?」
「そうさ。単にビビって本部に穴熊を決め込んでるとでも思ったかい?
ここはさ、この辺りじゃ三番目に高いビルなんだ。南の海辺方面に高いのが二つあるだろ?」
間近で向かい合う、自分よりも高い身体能力を持つメメにも全く気圧された様子一つなく、気軽に少し先に建つビルへと指を向ける。
そしてそれにメメは視線だけを向け──即座に彼は今の状況を悟った。
「分かったみたいだな。感覚も並みよりか上みたいじゃないか」
そんなメメを前にして、『風塵』マルスは小さく笑う。
無能のマルスとしてではなく、六班の戦闘部隊長『風塵』として嗤う。
面倒くさそうに、でもどこか剣呑な輝きをその瞳に宿して。
「そうさ、ここはあの二つの間を吹き抜ける潮風が、一番強く感じられる場所なんだよ。そして向こうの海岸線に少しだけある砂浜の砂や、雑多な街から舞い上がった目に見えないほど小さな塵が絶えず浮遊している場所でもある」
いつの間にか南から吹き抜ける風が強くなっていた。屋上の床面に落ちる塵埃を舞い上げるほどに。
マルスとの間に、それらの砂塵を含んだ風が、はっきりと目視出来るほどに。
「俺のコードは『風塵』。洒落た言い方をするなら俺はウインドマスターってやつさ。この辺りに流れる風もそれによる空間の流れも全ては手の内なんだよ。
──ここら一帯は全てが俺のテリトリーだ」
ほんの一瞬、メメは逡巡した。
剣呑な笑みを浮かべる男の顔を見ながら、今の距離と互いの能力を素早く比較し、結果を求めていく。
一気に詰めればしばらくは攻撃に転じられるだろう。その間に一撃を決められたならばいい。
そう考えれば、先ほど一気に距離を詰めなかった事が悔やまれた。
しかし、これらの風に阻害され、僅かでも距離を取られてしまえば、その時点で立場が逆転してしまう事まで考えれば、今の距離を維持出来たのはまだ幸運だったかもしれないとも思う。少なくとも僅かに考える時間が出来た。
下手に距離を詰めれば一気に勝負を決めるしかなく、それで決められなければ、距離だけを空けられて、風塵に金剛が敗れ去る羽目になる。
それらの可能性を比べ、状況を見極めた後のメメの行動は早かった。
すなわち脚に力を高め、一気に離脱する方を選んだのだ。
「賢いじゃんか。さすがナナシの知恵袋。ここじゃいかな『金剛』でも……いや、『不死身』でも俺にゃ勝てねぇよ」
そう小さく笑い、背を向け、屋上から躊躇いなく飛び降りようとするメメに、見せつけるかのように両腕を広げてみせる。
「でも、ただで帰らせちゃさすがに悪いな。おたくが気になってた六班の前衛隊長の力……少しだけ見てけ」
──東風。
そう呟いた途端、辺りを吹き荒れる風の中から、その音に紛れるような小さな雑音が響きだす。
そしてそれらの雑音の群れはやがて連続し、一つの音となると、辺りの空間は朱色の風に包まれていく。それは高層にある屋上を包み込み、一気に薙払った。
その朱色の風の疾走が彼方まで走り去った痕に残ったものは、風が吹き抜けたような無色の傷痕ではなく、黒く焼け焦げたかのようなコンクリート。
燃え滓となった砕けたベンチと、東風という力があちこちに刻んだブラックマークだけだ。
「希望の西風をもじって、絶望の東風ってか」
相も変わらずダルそうなマルスと、すでに吹き消された熱風の余波。
「やはり強いわね、あなた」
そして顔の上半分を真っ白な包帯で巻いた、一人の女性のみが残された。
「はん、メメには見事に逃げられちまったけどな。にしても、覗き見たぁ礼儀がなってねぇな、『幻影』?」
「あら、やっぱりあなたは気づいていたのね。どうやら危険なのはこの能力だけじゃないみたいね」
屋上への入り口脇、コンクリートの壁にもたれかかったまま肩をすくめている女性に、マルスはその口元を皮肉げに歪めてみせる。
先ほどまでいなかったその女性を見ても……そして彼の力で傷一つついていなくても、全く臆した様子はなく、むしろいつになく真っ直ぐな視線でその女を見据える。
「さっきも言ったけどな、ここは俺のテリトリーなんだよ。
そのテリトリー内に俺以外の誰かがいて気づかねぇ程度なら、そんな口上は間抜け過ぎんだろうが」
「確かにね。それにしてもね、さっきの力……砂塵を高速で連続摩擦させて、高熱を生んだあの風。あれは『私に見せてくれた』って判断してもいいのかしらね?」
そう言うと、今のお互いの立場からすれば、軽すぎるほどの気安い歩調でマルスへの間を詰めていく。
その歩みからは、先程の赤き風など気に止めた様子も見受けられない。
「あれぐらいでも一応の挨拶にはなったかね?俺としちゃウチに挨拶もなく勝手に入り込みまくりやがる二人の幻に、ウチの大将にゃ手を出すなよって意味を込めたつもりなんだけどよ」
「ふふっ、丁寧な挨拶痛みいるわね。でも今日は私しか来ていないみたいよ?スイレンちゃんは、五班にはよく顔を出してくれているけどね、今は六班には来ていないみたいね」
それでも後退もしないまま、近づいてくる『幻影』を見据え、マルスはニィッと唇を歪めて笑ってみせた。
「そうかい、『あんたは』気付いてないのか」
そう言った瞬間だった。いきなり歩み寄る『幻影』を冠する女の胸から、鋼色の何かが何本も生えたのは。
それはその先端を鋭く尖らせた何本ものメスの刃。人の体を上手く切る為に生まれた刃のその先端。それが血に濡れる事もなく、胸と脾腹を刺し貫いて顔を出す。
「東の幻もここに来てんだよ。言ったろ、俺はこの戦場の支配者だぜ?風が教えてくれんだ、俺の方が間違ってるなんて事があるワケないだろ」
「……得意そうなのはいいのだけれど、私の方は自信を失くしそうだわ。アゲハみたいに気付いてくれていない方が可愛げがあるわよ」
無造作に、しかし的確に急所を抉った何本ものメスが、その胸に剣山を築いている女の背後には、薄手の和装を風に流している女が新たに一人立っていた。
『水鏡のスイレン』。
そう呼ばれる浴衣姿の彼女は、その細く白い指先に挟んだメスを器用にクルクルと回しながら、もう片方の腕の指先を空へと向ける。
「今日は不思議な天気ね。目に見えない不思議な刃が局所的に降り注ぐみたい。さっさと逃げないと……穴空きになっちゃうわよ?」
その言葉が終わるか否かの瞬間だった。その屋上の床面に幾つもの小さな穴が穿たれていく。
それは指の動きに釣られて上を見上げたアゲハの上にも……即座に後方に飛び、距離を取ったマルスが元いた場所にも刻まれていき、彼女──スイレンはほころぶような笑みを浮かべた。
「避けてくれて良かったわ。せっかく忠告したのに、それが無駄になってしまうと少し困ってしまうもの」
そう言って避けきれたマルスに笑みを向け、穿たれた穴達の中心地点で、身体中にメスを突き立てられているアゲハに、呆れたような、どこかつまらないモノを見下ろすかのような視線を送る。
「……やられたフリはいいわよ。それだけ穴だらけになっても突っ立っている時点で笑えないわ。あなたは立ち往生するようなタイプでもないでしょう?」
「…………そう?結構壮絶な死に様を演出してみたつもりなんだけどね」
「面白くない冗談にしかなっていないわよ」
スイレンの呆れたような言葉に、立ったまま絶命していたかのように見えたアゲハは、僅かに俯かせていたその顔を上げる。
その上部が包帯に覆われ、瞳だけがわずかに覗いた顔を。
そして頭や身体に何本ものメス──光の屈折が戻り、目に見えるようになった銀の刃が刺さったままで、いかにも愛想笑いにしか見えない笑みを口元に刻む。
「私があなたを殺したのは、これで八回目ぐらいだったかしら。ヨツバに引き裂かれてるのも見たしね。この程度であなたが死ぬなんて私にはとても思えないわ」
「不貫にはヒドい目に合ったのね。いかに『幻影』でも、あそこまで容赦なくズタズタに引き裂かれたのは、はじめての事だったわね。あの時は痛かったって伝えてもらえるかしらね?」
「彼はあなたを殺した事なんてもう覚えていないわよ。だってヨツバなんだもの」
事も無げに殺した者と殺された者が話し合い、向かい合う様は、どこまでも異常で、横から見ていたマルスは小さく舌打ちを漏らしてしまう。
「三班本部の奥深くまで入り込んだ異物で、生きて出られたのはあなただけだけれど、彼にはそんな事なんてどうでもいいみたいだから」
「相変わらず苦労しているみたいね?」
「えぇ。まぁ、望んで背負った苦労なんだけれどね」
そう言ってスイレンは微笑むと、マルスに向けて来訪の挨拶をするかのように深々と頭を下げた。
まるで先程のマルスの言葉に対しての最低限の礼儀を踏むかのように。
「急な来訪、申し訳ないのだけれども、あまり邪険にはしないでちょうだいね。マルス」
そして小さな笑みを刻んだ口元を、その浴衣の袖で隠すかのようにして小首を傾げる。
思わず漏れ出そうになる舌打ちを辛くも飲み込み、大仰な仕草でマルスは肩をすくめてみせた。
いかに地の利を得た彼でも、この二人にあっさり勝てると思うほど、楽観的ではなかった。
その姿を光の屈折による幻でしか見せず、それゆえに殺せないこの東の幻は、質量や気配さえも感じる幻があるが為に、この場での彼の力を持ってしても本体がいるか否かまでは分からない。五感の内、脳に最も強い影響力を与える『視覚』が攪乱される事によって、取り入れる情報が混乱してしまうのだ。
また殺しても殺してもあっさりと復活してみせ、身体中が切り刻まれても嗤い続ける『西の幻』は、目の前に本体がいる事は間違いないと思えるのに、あっさりと本物の不死を気取ってみせる。
どちらもこの黒鉄という組織内では、最も倒しにくい相手で、最も相対したくない相手だ。
何しろこの二人を完全に敵に回した場合、例え目の前で消し飛ばしてみせても、勝利を確信する事が出来ないのだ。
その次の夜には、眠っている枕元に嗤いながら立っているかもしれないし、食事中に後ろでナイフを振りかぶっているかもしれない。確信出来ない勝利には、いずれ精神の方が参ってしまうだろう。
彼女達の攻撃力自体は、『碧兵』や『紅』に劣るハズなのに……この場では風塵のマルスには及ばない相手でしかないのに、それぞれ二人ともが最悪な相手でしかない。
「私はここであなたとやり合うつもりはないんだけれどね。スイレンちゃんはひょっとしてそのつもりなのかしらね?」
「私にもそんなつもりはないわよ。あなたが何もせず、誰にも手を出さないまま大人しく引いてくれるなら……だけど」
体に刺さったメスを、なんの痛痒も感じさせないまま、無造作に過ぎる仕草で引き抜いていく『幻影』と、その様子をなんの感慨もなく見つめている『水鏡』。
二人の間には敵意も殺意もなく、害意や悪意もない。あっさりと塞がっていくアゲハの傷跡が、まさに彼女のコードである幻影であったかのように感じられ、いささか滑稽にすらも見える。
「黒鉄の為には、あの文書やデータを破棄すべきだと思うんだけど……どうやら賛成は得られないみたいね?」
「しかねるわね。あれは残すべきだと私の従う長が判断した。いずれ今みたいな状況の決め手になるモノだと分かっていても、あの人がそう決めた。ならばその決断こそが私にとっては絶対よ」
──そのままの自然な空気で、空間が張り詰めていく。
「シャクナゲ、アカツキ、カブト、そして今は亡き錬血にあなたと私。他にもいた黒鉄の創設に関わった古株は随分と減ってしまったというのに……残った面々も様変わりをしてしまったというのにね?スイレンちゃんにとっては、相変わらずアカツキの残した言葉とシャクナゲの意志こそが絶対なのね?」
「……あなたも様変わりをしたようには見えないけれど。あなたはいつまでも一人で不気味を演じてる。『幻影』を背負ってる。そんなあなたを、私個人は頼もしく思っていたりもするのよ」
──残念ながら敵対してしまったし、相対もしてしまったワケだけれどもね。
乾いた風が三人の間を吹き抜けても、紺色の髪の毛先一つ靡かせもしない『水鏡』と、ひらひらと舞う包帯を指先で弄ぶ『幻影』。
二人の様子は対照的でありながらも、どこかよく似ていて。
マルスは口を挟むような真似はしないまま、どんな事態にも対応できるように、風が教えてくれる空間の状況把握に努める。
今この場には、気配だけは確かに存在している『水鏡』と、肉体も実体もここにあるハズなのに『幻影』を冠している、どこか似通った二人しかいない。
しかし、ひょっとしたらそれすらも自らの勘違いかもしれないとすら思う。
そう、ひょっとしたら二人ともこの場にはいるが、自らの認識の外にいるのかもしれないし、あるいは二人共この場にはいないのかもしれない。いるように錯覚し、あるいはいないと錯覚しているのかもしれない。
──バケモン共め。
思わずそんな悪態が浮かんでしまう。
攻撃力の高さやその及ぶ範囲においては、黒鉄の中でも最高位である自信が彼にはあった。
攻撃力ではパイロキネシストである『紅』に匹敵し、殺傷能力ではエレキネシストである『碧兵』に近いだけの力があると自負していた。そして『蒼』の『空間冷却』にも勝る、応用能力を持たせるだけの訓練もしてきたつもりだ。
毎日クタクタになるまで能力を酷使し、血の滲む制御訓練を経て、今の力を手にいれたという自負もあった。
『寝てばかりの副官』と揶揄されているのは、その異常なまでの訓練のキツさが理由でもあったのだ。隠された六班の地下で行ってきた訓練において、自らの能力を過剰に酷使し過ぎた事によって、体が動かなくなる事もザラだったからだ。
それでもここで一番格下と見做されているのが自分である事を、マルス自身がはっきりと認識していたのだ。
──この場で最も高い攻撃力と、効果範囲を持つ程度の事など、些末な事に過ぎないのだ、と。
「……仕方ないかしらね、ここはスイレンちゃんを立てて退かせてもらう事にするわね」
睨み合うというには穏やかすぎる視線の邂逅の果て、先に声を上げたのは『幻影』だった。
そしてそのまま続けて、今まで視界の隅に置いていただけのマルスへと視線を向けると、素顔の覗く口元をにっこりと笑みの形に変える。
「でもね、マルスちゃん。『シークレットクラン』を読み解いたくらいでいい気にはならないでね?その程度で黒鉄(私達)の全てを知っている気になられたり、あえて残された情報だけで過去を知ったつもりになられると、それはさすがに業腹だからね」
──アスタ・ラ・ビスタ。親愛なる黒鉄達。
そう言って……幻影はあっさりと高層ビルから飛び降りた。その様子は、空でも飛べるのかと思えるほどに躊躇いがない。
当然重力に従い真っ直ぐに落ちていくが、最後にひらひらと振ってみせた手のひらには、どこかおちゃらけた雰囲気すら感じられた。
「私もそろそろ失礼しようかしら。ちょっと慌ただしいけれどもね。
最後に顔なじみとして一つだけ言わせてもらうなら、七班の二人……『夜狩』と『牙桜』が動き出したわ。
──これはサービスが過ぎるかもしれないけれど、あの二人は私と同じ東の近衛よ。裏で動くのもいいけれど、出来るだけ敵には回さないようにして」
それだけを言い残すと、残っていた『水鏡の境像』も掻き消える。
その口元には、今までに見慣れた穏やかな笑みを浮かべたままで。
「……ったくよぉ。この組織の方が、『関西軍』よかよっぽどバケモン揃いじゃねぇか」
最後に残されたマルスはそう思いっきり毒づくと、ペタンと屋上へと腰を落とした。
その顔に色濃い疲労を滲ませながら。
「元皇二人にその側近が計三人もいるってか。さらにはその側近にも匹敵しうる『不貫』と『幻影』。そして『ネームレスワン』と、他数名のどこの誰かも分からない『名無し共』。
……冗談キツいぜ、ホント」
──もはや『謎解き』にかかってばっかもいらんねぇな。
そう最後に呟いて、抜けるような蒼天へと顔を上げる。
何かを思い詰めるというには、けだるさをあまりにも残したその表情は、どこか怜悧な雰囲気を宿していて。
『役立たず』の汚名に似合わないだけの苦労人を思わせて。
「……『東の近衛』だから何よ?つまりは俺じゃあんた達の敵にはならないってかい?くっ……はっ!」
そして──彼は哄笑を上げる。
姿を消した二人の『幻』がすでにこの場にいない事を確信して、それでもなお念を入れて声を潜めた嗤いを上げる。
「……精々見下してろよ、バケモン共。取るに足らない相手だと見下ろして、バケモン同士で共食いでもなんでもしてりゃいいさ。
この風塵の力を、あの東風程度と見くびってりゃいい」
自らが懐深くに隠し持ったジョーカーをそっとさらに奥深くに隠しながら、彼は頭を片手で掻き抱く。
彼は何者も恐れない。憚らない。退かない。媚びない。
何故なら彼は、自分も化け物と呼ばれる類の生き物だと知っているから。
化け物と呼ばれる事を恐れず、人外である事を肯定しているのに、自らの懐深くにその力を隠しているから。
──それでもやっぱ注意すべきは、三と七の同盟部隊かね。
俺らに被害や面倒さえくれなきゃ、敵対はしないでいてやるけどさ。
黒鉄に起こった動乱に逸る仲間を抑えつけ、悩む幼なじみを支える事で、身内に一切の被害なくこの動乱を乗り越えられたのなら、彼にはどちらの勢力が勝っても問題ない。
全てが終わった後に、今まで通り幼なじみの居場所が残っているのなら、彼は他人がどれだけ命を落としても構わないのだ。
──黒鉄と銀鈴が、将軍に代わる他地方への抑止力となるのなら、別にあの二人がどこの誰であれ気にしない。それこそ魔人や邪神類でも構わない。それ以外の誰かがあの二人を打ち倒したのなら、その責任さえ取ってくれるのなら、別に問題なんて一つもない。
精々裏に回って、俺達に都合よく回るようにいろいろ調整だけさせてもらうさ。
そう一人ごちて、ゆっくりと寝直す為に自室へと歩を向ける。
身の回りがこんな状況でも、どこまでも『無能』らしくある為に。
その行動こそが、牙を隠す為の鞘となると知っているからこそ。
彼は風と評された。
風とは無色透明なモノで、決して触れられないモノ。
彼は望んで無能で在り続ける。無色透明で在り続ける。誰にも理解されたいとは思わない。触れられたいとも思わない。
──まぁ、ヘルっちが動けってんなら、表立って動くのも吝かじゃないがね。
彼を動かせる存在は翼を持つモノだけだ。翼を持って風を動かす存在だけだ。
だから彼は動かない。
夜の鶴が舞うには、いまだしばらくの時がかかる事が分かっていたからだ。
彼はそれまで風の向くまま気ままに在り続ける。
風塵のマルスとはそういった存在なのだと、自らを縛り付けながら。
今更ですが、
人物紹介・坂上晴臣1。
関西産まれの数少ない純正型。粗野な言動が目立つ男ではあるが、意外と頭も回るタイプ。
変種による動乱以来、関西と中国地方のほぼ全域を掌握した始祖の一角。
かつてアカツキの友人として共にあった時期もあるが、関西事変以前から袂を分かち、現在では関西の革命軍の首領となっている。
敵対者には容赦しない政策を取っていたが、黒鉄に対しての対応には何故か甘さがあり、そこからもアカツキに対して思うところがあった事が窺える。
光の都と名付けた街を本拠地とし、関西以西のほとんどの都市を掌握してはいたが、黒鉄が本拠を置く廃都だけは抑えきれなかった。
一度は自ら先陣に立って廃都を攻め落とした事もあったが、坂上が光都に帰ると同時に地下に潜っていた黒鉄に奪還された過去がある。
それ以来、廃都の抑えは隣の戦都の知事に一任していた。
レジスタンス黒鉄には並々ならぬ関心があり、アカツキの片腕と目されるシャクナゲにもそれなりに思う所があったが、一年前の出会い以来、シャクナゲには妄執にも似た執着を持っている。
自分こそが関西の始祖だという自負を持っている為、それを傷つけたシャクナゲを討つまでは、自身の『将軍』という呼び名を封じていた。
能力
削る世界……B~A+(威力よりも利便性、速射性に特化した力を発揮する。その領域内で坂上が腕……正確に言えば腕に付いた世界の端末たる赤錆色の刃……を振るうだけで、真空の刃を飛ばす能力。また、その真空を弾けさせ、空間を爆縮させる事も可能。
普通の人間や器物には絶対な破壊力を誇る力であるが、純正型を相手取るにはやや弱い力。ただし、自らの領域内部ではただの真空ではなく、空間そのモノの断裂である為、威力自体も格段に上がる)
身体能力……A-(シャクナゲよりやや下、カーリアン以上)
執着心……A(物事や人間に対して執着する性質)
神経逆なで……B+(嫌いな人物の神経を逆なでさせれば、かなりのもの)
プライド……A(曲がったモノではなく、坂上なりに筋を通したプライドを持つ。それを裏切る真似はしない)
統治能力……B
カリスマ……C~A(冷静な時と、焦燥に捕らわれた時の差が大きい)