2─3・三番目の憂鬱
「楽しそうで結構な事だ」
戦場を離れる直前に見た、白いニットをかぶった少女と戯れる主を思い浮かべて、カエラは小さな嘆息を漏らした。
少女はカエラから見ても圧倒的な存在感を放っていた。
可憐そのものといったルックス。その幻想的とも反則的とも言える容姿からすれば、アンバランスに感じるほど雑に着こなしたその服装すらも、ある意味ギャップとして好意的に受け止められなくもない。
間違いなくとんでもない美少女であり……恐らくは純正型。そう、純正型特有の雰囲気をカエラは少女に感じていた。
いわば絶対的存在としての強烈な在り方を、カエラは少女に見いだしていたのだ。
別にカエラは強者として、その少女に同じ強者の匂いを感じたワケではない。
むしろ彼女は変種としての能力によって、知覚能力とコミュニケーション能力が優れているだけで、戦闘という行為に関しては全くの素人を自負しているぐらいである。
そんな彼女から見ても、その少女のスピードは人間離れしていた。
手をかざすだけで巨大な質量を持つ物質を投げ飛ばしていたし、手を軽く当てるだけでマスターを跳ね飛ばしてすらいた。
あの『狂人・マスターシヴァ』をだ。
その小さな拳で平坦な道をクレーター群に変え、蹴り足の軌跡でアスファルトの大地を刻んでいく様は、異様な光景でありながら畏敬の念すら感じるほどだった。
そういった点から見ても、並みの変種であり得るワケがない事は明らかだったが、その少女の放つ存在感そのものが、彼女の心に焼き付くほどに異常に感じられたのだ。
それは『深く視る』事に秀でているからこそ、分かりたくなくとも分かってしまうのかもしれないし、マスターシヴァをよく知っているからこそ、その存在感を感じとれたのかもしれない。
ひょっとしたら、最後には絶対の勝利が約束されているヒーローに憧れる子供のような、あるいは捕食される側であるか弱いインパラなどよりは、牙を持つ捕食する側であるライオンに好意を抱くような、強者に対する純粋な憧憬にも似た感情を抱いているからこそ、分かってしまったのかもしれない。
「マスターのストレスを残らず発散させてくれれば……とは思うが、さてそこまではどうかな?最近は中部との小競り合いも減ったし、さぞイライラを溜め込んでいた事だろうしな」
しかし、そんな事を思うとはなしに考えながらも、彼女は冷静に状況を判断して小さく肩をすくめてみせた。
戦いの余波はすでにその視界に映ってはいない。視力で見える範囲からはすでに遠く離れてしまっていた。
もちろん大打撃を受け、混乱を来した仲間達を避難させるという目的もあったが、一番の理由はそれではない。
近場にいては『マスターの遊び』に、自分を含めた仲間達全てが巻き込まれてしまう事を懸念したからである。
あのマスターならば、それこそその場の勢いだけで……そして少女との『遊び場には邪魔だから』というだけで、自軍を巻き込んできてもなんらおかしくない事を彼女はよく知っていた。今まで起こった他地方との勢力争いでも、敵方に殺された人間よりも、下手をしたらマスターの『癇癪』の犠牲になった人間の方が多いんじゃないかとすら考えているぐらいだ。
「あの少女がせいぜいマスターのいい遊び相手になってくれればいいが……」
そう一人ごちて、フッと小さく息を漏らす。
呆れたような、自らの高望みを笑うような自虐的な嘆息を。
彼女は自らのマスターを全く心配してはいなかった。それがいまさらながら少しだけおかしくなる。
それは心配したところで自分に出来る事は『視る』事だけだという事を知っていたからでもあるし、かの『狂人』と呼ばれる少年が負けるワケがないと誰よりも思っているからでもある。
それを踏まえて考えても、全く主を心配する気持ちが出てこないのは、自分が誰よりもマスターシヴァに毒されているからだと思えて、おかしくなってしまったのだ。
だから彼女は『アンテナ』を立てる真似をせず、戦い趨勢を視る事もしない。
それをする意味が見いだせない。
彼女が考えている事はと言えば、『あの少女が出来るだけ悪あがきをして、マスターの『癇癪』を収めてくれればいい』……精々半壊した部隊を立て直しながら、そう考える事ぐらいだった。
「サード、車はほとんどがやられちまってます。そこらで足を調達しようにも、動けるヤツが少なくて……」
「まぁ、仕方ないか。今『視た』ところでは山都に軍勢はいないようだし、ここで後続の車がくるのを待つしかないだろう」
サード──つまり東海の軍勢でも、マスターシヴァの配下では地位的に『三番手』につくカエラの言葉に、状況を報告してきた男は軽く頭を下げる。
東海地方の軍勢を実質運営しているのが、『マスター』でも『ファースト』や『セカンド』でもなく、『三番目』であるカエラだという事は、東海地方の軍に所属する者ならば誰でも知っている事だった。
マスターシヴァのお気に入り。
ファーストやセカンドとは違い、変種としての戦闘能力ではなく、実務能力……つまりは面倒くさい事をする能力を買われた補佐役兼狂人の知恵袋。
三年近く前──つまり全国をフラフラ回っていたらしいマスターシヴァが、東海に居着いてしまってからずっと側に付いていて、いまだに殺されていないどころか、戯れで傷つけられた事すらない側近中の側近。
その点だけでも、『サード』である彼女は周囲から一目置かれていた。
非常に高い戦闘能力を持つ純正型であり、『アンチクルセイダー』のトップ、そして狂人シヴァにもその力を認められている『ファースト』は別格としても、マスターに媚びへつらい過ぎて逆にカンに触ってしまい、暇を持て余したマスターに遊び相手として使われた『地位だけのセカンド』よりは、ずっと恐れられ、敬われていると言ってもいい。
「はい。あの……」
「なに?」
そんな彼女に恐れかしこまる連中は決して少なくない。
いかに戦闘能力がゼロに近くても、彼女の能力は非常に有用なモノであったし、なにより彼女に肩を持ってもらえただけで『気まぐれなマスターの遊び相手候補』から外れられる可能性があるのだ。敬わないワケもないし、慕わないワケもない。
もちろん周りの人間が自分をどう思っているのか、そしてその結果どういった態度で接してくるのかを、彼女自身よく知っていた。
だからこうして報告を終えた後も、いまだ何か言いたげにしている男に訝しさを覚える。
「あ、あの、マスターは勝てるんですかね?さっきの女、メチャクチャなヤツだったでしょう?」
「……それはマスターに勝って欲しいから出た心配の言葉なのか、はたまた『その逆』なのか、そっちの方が私には気になるな」
「い、いや、自分は──」
「冗談だ」
慌てて弁明の言葉を続けようとする男に、カエラは僅かに顔をほころばせる。
その二択の答えは、聞くまでもなく分かっていた。それでもこうやって口に出す辺り、自分の底意地の悪さが目に付いたようでおかしくなってしまう。
「マスターは負けないよ。アンチクロスのメンバーなら……東海地方の人間なら、それぐらい分かっているだろう?」
「あ、いえ、その……」
「あの人はいつも一人。一人で相手を見つけて、一人で遊んできたんだ。その遊びが人を引きずっていき、その集まってきた集団がアンチクロス……東海軍となった」
「…………」
「あの人の怖さは私達自身が一番よく知っている。あの人は他の地方の皇共なんかよりずっと恐ろしい人だ。そうだろう?」
──これ以上は言うまでもないな?無駄な期待は持たない事だ。
そう言葉を締めると、カエラは青くなって口を噤んでしまった男から視線を外した。
「全くマスターにも困ったモノだ」
その言葉は誰に向けられたモノでもなく、ただやりきれなさを含んだ小さな嘆息と共に漏れる。今まで何百回憂慮したか分からない事を思う度に、彼女は盛大に頭を抱えたくなる。
為政者という者は……あるいは集団のリーダーとなるモノは、それ相応の役割というものを果たすべきだ。
これはカエラの持論なだけではなく、一般常識的なモノだと彼女は考えている。
それは人の集団は言わずもがなであるし、動物の集団でもリーダーは敵性の生物、違う群れの個体に対して群れを守る義務があるという点では共通していると言ってもいい。
人間で言えば、政治家や官僚は自国の権益を守るという義務と、自国の国民を導く必要があるワケであるし、動物で考えれば、ハーレムの長である雄は、それを荒らす他の雄を打ち破って群れの雌や子供を守る義務があるという事だ。
そこに例外はない。人間の社会には知恵があるがゆえに腐敗があるワケであるが、最終的に国のトップへと期待するのは、自らの安全と生活の保障だ。そこに国の垣根はない。
動物でもなんの役にも立たず、牙も持たない、つまりは群を守ってはくれない雄をリーダーとする集団はないだろう。
しかし、そういった人間とそれ以外の生物の『組織』というモノに、共通してある常識から外れた存在がいる事をカエラは知っている。
彼女の持論や常識からは『皇たりえない皇』……それがマスターシヴァだった。
それがカエラの認識であり、頭痛の種でもある。
誰よりも鋭い牙を持ち、誰よりも恐ろしい性質をも持つ。
ただそれだけの存在、たったそれだけを認められた支配者。それだけの理由で、誰も逆らう事の出来ない『モノ』。
それが『マスターシヴァ』。
彼をリーダーとする見返りは、『ただ彼から攻撃される可能性が若干低くなる』……それだけでしかない。
見返りというには不確かで、微々たるモノでありながら、誰もそれに異を唱える事すら出来ない。
その枠組みの中で上手く立ち回る知恵があるか否か、そしてその在り方の中で上手く力を発揮できるかどうか、それらだけがマスターシヴァ以外の地位を決めているに過ぎない。
名前だけのセカンドがその象徴だ。セカンドとしての地位に見合う力を持ちながら──つまり『組織の中では』ナンバー2でありながら、彼は遊び相手に使われたのだから。
力による確固たる序列がありながらも、それすら意に介さない異物がいる組織。
絶対上位者が組織の枠組みを越えたさらに上にいるワケである。
もう五年以上前に関東から堕ちた五人目──他の新皇に『狂人』の烙印と共に追われなければ、五人目の新たなる種の皇となるハズだった少年が、皇ではなく『絶対上位者』としてあるのが東海地方の在り方なのだ。
「関西の人々はきっと思い知る事になる。混沌に包まれている今日の自分よりも、さらに最悪な状況があるのだということを」
その言葉に答える者はいない。報告をしてきた青い顔の男の姿はなく、辺りにあるモノはと言えば曇天を司る雲と、荒涼とした廃墟の群れ。
「それは明日の自分だ。マスターシヴァの支配する東海地方の法則……弱肉強食を超えた、たった一人の無秩序に支配された明日の自分こそが、本当の底辺なんだときっと思い知る」
──東海(向こう)はもう、我が主が完全に支配してから、二年近くもそれでやってきたんだ。そろそろ他の地方の連中も、同じリスクを背負ってくれてもいいだろう?
今まで自分達を支配してきた憎むべき『将軍』、そしてその近衛達が、死に物狂いで東海の狂気からの防波堤となっていた事を知ったとしたら……さて、関西の人々は一体誰を恨むのだろうな?
そんな戯れ言に苦笑を浮かべて、彼女は空を見上げながら時を待つ。
生地とは違って、いまだ狂気の色が薄い地方に、何故か小さな吐き気を覚えながら。
なんとか月曜日更新は間に合いましたが、あとがきストーリーは間に合いませんでした。
まぁあとがきストーリーは気分転換的な意味合いが強いので、間に合わなければ間に合わないで載せずにいきます。
次回はスズカとシヴァです。