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2―49・深淵領域にて







 カツン、カツン。

 僅かな非常灯の光しかない、真っ暗といってもいい地下空間に響く靴音に、ナナシは粘つく唾液を飲み込んだ。

 自分がこれから相対する相手。

 それに対しての恐怖に思わずナナシの身体が、そして魂すらもがすくむような錯覚を覚える。

 闇に対する本能的な恐怖を圧倒的に上回る畏怖。

 圧倒的に反則的な力を持つ生まれながらの怪物を相手に、自分は自分らしくいられるのか。そんな弱気は周りの闇を喰らい、深淵の底から響く足音を糧にして膨れ上がっていく。


 ――はん、知ってたはずだろ、あいつがあの『宵闇』なんだって事ぐらい。新皇なんてはるか東のバケモンなんかより、よっぽど怖いヤツなんだって俺は知ってたはずだろうが。


 そう自らを叱咤し、鼓舞してみせても、その身体は僅かに震えていた。

 そんな彼の中の弱気を押さえつけたのは、一重に義侠心によるものだ。長としての役割だからではなく、個人的な怨恨なんてものでもない。

 元より長なんて立場は面倒なだけで、なりたい者がいるのなら代わってやってもいいとすら思っていたぐらいだから、ナナシには上に立つ者としてのプライドなんてものもない。

 ただ個人的に自分を慕ってくれる子分達、自分を長として立てて働いてくれる者達に、恥ずかしい思いをさせない程度の自分でありたいという思いはあった。

 他の者に任せて子分達が苦労する羽目になるぐらいであれば、いかに向いていなかろうが自分が出来る精一杯で役割をこなしてやるという気概もあった。

 ナナシは自分が頭の回る人間ではない事を知っている。そして上に立つ者として色々と欠けている自分も知っている。

 そんな自分に出来る事は、不死身とも呼ばれるほどの体を張って子分達の代わりに意地を張ってみせる事だけで、子分達に恥じない自分を周りに示してみせる事だけだと考えてきたのだ。


 ならば、まだ相対もしていない内から尻尾を巻く真似など、例え神話上の怪物を相手にする事になったとしても出来る事ではない。

 ましてや相手は、そんな怪物ではなく自分と同じく人間から生まれた相手なのだ。例え怪物である事は変わらなくとも、何もしない内に背を向けるような真似だけは絶対に出来なかった。


「よぉ、待ってたぜ、くそったれ」


 だから闇の中から見慣れた男が表れた時には、ありったけの気合いと根性を動員して自分から声をかけた。

 自分から声をかける事で逃げ場をなくしたのだ。


「……ナナシ?」


「それ以外の誰に見えるってんだ。てめぇを殴りにわざわざこんな寂れた場所まで来る物好きなんざ、俺以外にゃいねぇだろうが」


「……そうか、スイレンか。あいつは頭が硬いんだかそうじゃないんだかな」


 そう小さく呟いた漆黒の男は小さく笑みを刻んでいて。

 その表情にナナシは違和感を感じた。

 小さな小さな非常灯だけが等間隔で設けられているだけの、闇が圧倒的な存在感を示す空間で薄く笑っている男。

 彼に別におかしな箇所があるわけではない。男の顔はここ一年余りで見慣れてしまったそれで、違和感の源がどこにあるのかはナナシにもわからない。

 それでもナナシは、確かに『違う』と感じたのだ。


「お前、本当にシャクナゲか?」


「それ以外の誰かに見えるか?」


 ついさっきナナシが言った言葉を真似るようにそう言って、彼は小さく肩を竦めてみせる。皮肉げな笑みを浮かべた表情はやはり見慣れたもので、でもどこか違うものだった。


「見えねぇよ。だから聞いてんだ。なんで――なんでこの短期間でそこまで印象が変わってんだ?坂上の野郎を殺したから、じゃねぇよな。ヤツを殺して気が抜けたって感じじゃねぇ。


 ――てめぇ、ここで一体何をしてやがった?」


「本当にお前は鋭いな。いや、今までの俺が傍目から分かるほどに不安定に見えてたのかな」


 そう言ったシャクナゲは、珍しく本気で驚いたかのように目を見開いてみせる。そして小さくとも深い嘆息を漏らした。


「何を、か。別に大した事じゃないさ。ちょっと昔の自分を――新皇と呼ばれた愚かなガキを殺してきただけだ」


 ジャリっと踏みしめられた床面が音を響かせる。

 冷たい地下の冷気と闇が身体に染み込むかのような錯覚は、ゆっくりと寒気をもたらしていく。

 シャクナゲが語った『自分殺し』という矛盾。

 それが比喩的な意味なのか、はたまた言葉通りの意味なのかはナナシには分からない。

 誤魔化しや煙に巻く為の言葉遊びの類ではないだろうとは悟れても、その真意はわからない。

 それでもその寒気が、彼の言葉が大きな意味を持っている事を理解させた。


「綺麗事じゃやっていけない。そんなやり方が通じるのは、舞台を全部お膳立てされた想像の中のヒーローだけ……そんなセコい現実を俺は知っている。

 それを理解していなかった愚かな自分(ガキ)を殺して、本当の意味で前を見れるようになった……それだけの事さ」


 そして彼は続けて言う。

 視線を反らす事なく真っ直ぐにナナシを見つめて、宣言するかのように言う。


「お前がなんの為に来たのかは想像しか出来ない。

 もし俺への罰を下す執行者として来たのなら全てを受け止めるよ。いずれ来る報いも必ず全てを受け止める。

 でもな――今はまだダメだ」


 罰は受ける。どんな罰でも受け止める。

 でも『今は』ダメなんだ、と。

 反らす事なく向けられた視線に、深い闇と固い意思を覗かせて。

 今までの『シャクナゲ』のように、皮肉げな笑みで真意を隠すような真似をしなければ、言葉巧みに適当に逃れるような真似もしない。はっきりとそう言って、真っ直ぐにそう宣言して、目の前の男はナナシへとまた一歩距離を詰める。


「俺は失敗した。致命的なミスを犯したよ。命であがなってもまだ足りない大ポカをしでかしたんた。それは間違いない。だから報いを受ける覚悟は出来てるさ。

 でもな、俺はまだ死ねない」


 まだ『死ねない』と。

 今まで『死にたがっているんじゃないか』とナナシには思えてきたぐらいに、ずっと無茶のしどおしだったシャクナゲが――誰よりも命知らずで、まるで『死に場所を漁る』かのように一番不利な戦場ばかりを渡り歩いてきた男が、『今はまだ死ねないんだ』と言った。

 勇猛果敢なように見えて、時折どこか弱さや情緒不安定なところが垣間見えていた男はそこにはいなかった。


「昔な、俺が殺した人間に『お前なんか人間じゃない』って言われたよ。身体が半分に千切れながら、それでも消えない憎悪を向けられて『この化け物め』ってな」


 身体が半分に千切れながらも撒き散らす憎悪。

 それがどれほどのもので、どんな重みを持つものなのかはナナシでも想像も出来ない。

 彼が知っているのは、死に際に残された言葉はどんなものであれ堪えるものだという事だけだ。


「そうさ、俺は化け物だ。人間なんかじゃない。人外の化け物で、国崩しの怪物だ。殺せる者はみんな殺したし、壊せるだけ全部壊した。父親も俺のせいで死んだし、幼馴染みを闇の深くへと突き落としたまんまずっとほったらかしてる。最低の外道で、最悪の化け物野郎だよ」


 父は自分に降りかかる報いを代わりに受けてくれた。故郷を壊し、国を壊した不肖の息子を庇ってくれた。

 幼馴染みは、きっと今も泣いている。

 地獄と化した地で、生まれ持ってしまった力に振り回されて泣いている。

 信頼していた相手から離されてしまった手をむちゃくちゃに振るって、その悲しみから漏れた力だけで『最悪の新皇(一番の化け物)』なんて呼ばれて泣いている。

 ずっと一緒にいた愚かな少年を求めて泣いている。

 ナナシにはその辺りの事情など分からないはずなのに、漏れでる自虐の言葉は止まらない。ナナシも口を挟んだりはしない。


「でもな、思い出したんだ。思い出しちゃったんだよ。

 俺はただ力を振るって暴れ狂うだけの怪物なんかじゃないんだって。『人間として生きる事を親友に望まれた怪物』なんだって事を」


 ――怪物?はん、おおいに結構。俺みたいな人でなしの外道にゃ怪物の友人が似合ってる。だろ?


 ――人道や善悪を適当にこねくりまわしておいて、結局自分じゃ何もしようとしないヤツよりマシさ。綺麗事をただ抜かして、それに沿わない他人を貶めるだけの野郎なんかお呼びじゃねぇしな。


 ――お前が怪物のお前自身が嫌いだってんならな、俺ぐらいはお前が人間らしい怪物として生きられるように望んでやるよ。目的を持ってて、しかも他人から在り方を望まれた怪物ならそんなに悪かないだろ?


 本当に自分勝手で、エゴの塊のような男だったけれど、その男のエゴは誰かの為を思ったがゆえのものだった。エゴでありながら、その中核には必ず自分以外の誰かがいた。

 どこまでも自分本位でありながら、自分以外の誰かをも含めて掲げたエゴイズムだった。

 だから彼は多くを救えた。傷付けた人間も救った人間以上にいたけれど、救った人間も確かにいたのだ。


「俺は何でも出来るわけじゃない。みんなが思っているほど全てを器用に上手くこなせるやつなんかじゃない。むしろ俺は他人より不器用なぐらいだ。そんな事は知ってるんだ。

 でもこんな俺も……何にも出来ないわけじゃない。俺にしか出来ない事がある」


 ――だから今はまだ死ねない。 

 罰は受けられない。

 そんな資格すらもない。

 罰を受けるのは、精算出来るありったけの償いをした後だ。


 そう言って。小さく呟くような……でもはっきりとした言葉でそう告げて、彼はナナシに向かってその左手を掲げた。

 前方に立ちふさがる形のナナシに、抗い難いほどの圧力をかけるかのように。


「……そこをどいてくれ。まだ俺なんかを必要としてくれているヤツらがいるんだ。

 殺さなきゃならない相手もいる。大好きで、本当に大好きで、とても大事な相手だけれど、だからこそ殺してやらなきゃならない相手がいる。

 だから、俺を殺したいのならその後にしてくれ」


 カツン。

 また靴音が一つ、闇の中に響く。

 いまだ向き合うナナシに向かって、距離を詰める足音が。


「お前が俺を殺したいなら、この場で俺を殺すというのなら……お前の屍を越えてでも俺は先にいくよ。それぐらいの覚悟はあるつもりだ。

 今の俺はな、例え死神が相手でも命をくれてやるつもりはないんだから」


 いよいよ増していく圧迫感は、ナナシを完全に捕らえ――


「殴りたいだけなら好きにすればいい。抵抗なんかしない。でも、好きなだけ殴って飽きたらどいてくれ」


 ――それら全てを、ナナシという男は歯を磨り潰すかのように噛み締める事で、全てを飲み干した。

 シャクナゲの言葉を受けて、全身で『シャクナゲ』という男の殺気を受け止めて、それでもナナシは吼えてみせたのだ。


「はんっ、てめぇはいっつもそうだっ!いつも俺なんか相手にしてねぇ。いつもそうやって適当にいなしてかわしやがる。好きなだけ殴りゃいい、だぁ?

 ――っざけんなっ、殴らせてもらわなきゃ俺がなんも出来ねぇと思ってやがんのかっ!」



 自分はその背に抱えた仲間達の意地を背負ってここに来た。そのつもりで死ぬ覚悟すら決めていたのだ。

 例え無謀を笑われても『さすがは黒鉄第一班の班長だ』と他の班の連中に認めさせてやりたかった。

 敗れたとしても『自分が最後まで意地を見せる事で、力には絶対に屈しなかった仲間がいたんだ』と、子分達が誇れる敗れ方を選択させてやりたかった。

 野盗崩れと裏では蔑まれている子分達に本当の意味での拠り所をやりたかった。

 ただ力で圧倒されて、なし崩し的に一つにまとまるのではなく、自分達の存在に誇りを持てる形で終わりにしてやりたかった。

 例え三班班長に恨みを持ち、怒りを持ったままでもいい。それが消える事はなくとも、ただそれを衝動のままにぶつけて、その結果惨めに敗れるような結末など与えたくはなかったのだ。

 自分がその役を負ってみせる事で――そんな道を最後まで歩んでみせる事で、恨みの連鎖は最後にして欲しいと命懸けで願ったのならば、仲間達はきっとその最後の言葉を理由に矛を納められるだろう。

 その為にも、袂を別った末に犠牲者を出しただけで終わるような間抜けな結末とは全然違うものが必要だった。

 何より親分として子分達を『所詮は野盗崩れ』、『考えなしで無様な連中だ』などと笑わせるわけにはいかないのだ。

 それでは自分みたいな男がリーダーとして立っている意義が何もない。

 それらの蔑みに対する憤りですらも、やがては三班の長であり元凶でもある『彼』へのものと代わり、『シャクナゲ』に対する恨みはさらなるものとなって禍根を残すだろう。


「俺を殺してでも先に行く?上等じゃねぇか。それこそ望むところだってんだ。やっと俺を対等と見て、正面から向かい合ってくれる気になったんだろ?」


 だからここでの殺しあいは望むところだった。その覚悟はあった。


「俺はお前を下に見た事なんか一度もないよ」


 それでもシャクナゲはそんな事を言って……そんな事を顔を背けながら言ってみせて。

 ナナシの中に僅かにあった『怯え』を消し飛んだ。怒りに火が入った。


「はん、てめぇはそうだろうさっ。そんなヤツだって知ってらぁ!でもな、正面から向かい合ってきた事はねぇだろうが。

 ひょっとしてあれか?本気になっちまったら俺を殺しちまうってビビってんのか、あぁ?」


 『正面から向かい合った事がない』

 その言葉に、シャクナゲが僅かに唇を噛み締めるのをナナシは見た。目をそらし、正面から背けたのも見た。それは『まだ見慣れたシャクナゲ』の姿で、何よりも腹が立つ表情だった。


「舐めんなっ。死ぬ事が怖くて……てめぇの命が惜しくて子分の命なんざ背負えるかってんだ!

 俺ら一班はな、てめぇら三班が勝負を決する為に一番に突っ込むのが役目なんだ。ずっとそうしてきたし、その果てに死んだヤツらも少なかねぇ!」


 ナナシの中で班の子分共の為っていうものが一番に来る事に偽りはない。だが根っこの部分では、シャクナゲと本気で向かい合いたかったという要素も大きかった。

 何故ならナナシは、誰よりもシャクナゲを認めていたのだ。アカツキやアオイ、カーリアンやオリヒメなどよりもずっと彼個人を認めていたのだから。

 だからこそ、隠されていた事や騙されていた事などより、今の現状になってもまだ自分から視線を背けるシャクナゲが気に入らなかった。

 言葉だけ、視線だけは真っ向から向かってみせても、『殴りたいだけなら好きにすればいい』などと最後に逃げ道を残す事が許せなかった。

 そう言って、『ナナシに格好を付けさせ、安易な結末を得よう』とする姿勢は、『自分が唯一ライバルだと認め、張り合ってきた男には見合わない』。

 そして一目見立た時から本気で惚れた少女が、ずっと追いかけている男だとは信じたくない。

 それらがナナシに恐怖を忘れさせた。怯えによるものではなく、怒りから猛々しい声を上げさせたのだ。


「『騙してた』なんて糾弾をするつもりは俺自身にゃさらさらねぇんだ。悔しいのは悔しいし、ムカつくのはムカつくし、ぶん殴ってぶっ殺してやりてぇよ。それぐらいは思っても仕方がねぇだろ」


「……そうだな、そう思うよ」


「でもな、いまさらだって気持ちもあるんだ。てめぇが一番命を張ってた事ぐらいは一班を仕切ってる俺が一番よく知ってるし、てめぇが必要なヤツだってのも俺は理解してんだ」


 その言葉に偽りはない。だからナナシは目をそらさない。シャクナゲからも、そして自分の言葉からも目をそらさない。それが国をメチャクチャにした者と戦う黒鉄七班の一つを預かる者としては相応しい言葉でなかったとしても。

 口に出して言った事はなかったが、一班に所属してその先頭に立っていたからこそ、三班の先頭に立つ男がどれだけ命を張ってきたかを知っている。

 どれほど黒鉄の仲間達に必要な存在だったかを知っているのだ。


「でもな、死んでったヤツらは違う。あいつらはな、この俺の背中を見て死んでいったんだ。死地の真ん中で、俺に色んなもんを預けて散ってったんだよ。この俺のこんな背中を追って死んでったんだよっ!そんな俺がっ!そんな俺だけが保身に走れるかっ!」


 でも。それでも。

 今のシャクナゲを相手には退けない。

 生きている仲間達の為だけならば、今後の事を理由にする事は出来るだろう。これからも戦い続ける為に必要だから――という言い分は、恐らく我慢を強いるにたる理由になる。

 宵闇たる『彼』の恐ろしさも、シャクナゲたる『彼』の頼もしさも、一班の班員達は十分に知っているだろうから。


 ――でも今に繋がるまでに落としていった仲間達の命は?

 自分が死なせてしまった子分達には?

 過去にしか生きられない死者達にそんな言い分が立つのか?

 自分もシャクナゲも、『これからに必要な存在だから』と言って、安易に今までから目を背けて許してしまっていいのか?

 しかも『自分を真っ向から見てこないような男』を、自分に付いてきた仲間達に『必要だから』と納得させられるのか?

 自分を慕ってくれた者達に……生きていようが死んでいようが、ナナシという男に従ってくれた事がある者達に、自分を見ないような男を信じてくれなんて言えるのか?

 その命を張ってくれだなんて言えるのか?


 答えは絶対に『No』だ。


「……殺しあうぐれぇに全部賭けて、この俺と真っ向からぶつかってみろよ。そうすりゃてめぇの本気を認めてやる。てめぇは『嘘つき』で『バケモン』で『敵だった』けど、それでも命を張った甲斐がある凄ぇヤツなんだってあいつらに誇ってやれる。

 でもてめぇが本気の俺を見下して、一回もマジにぶつかってきた事がねぇまんまじゃ信じられねぇ。俺の背中に付いてきたあいつらを納得させられねぇんだよっ!」


 そのナナシの言葉はシャクナゲからすれば言い掛かりに等しかった。ナナシを『見下した』などという言葉は誤解も甚だしい事だ。

 何故なら彼は、『ずっと他人を見上げ続けてばかりいた』のだから。


 ――あぁなりたい。でも自分は無理だ。

 ――あんな風に振る舞いたい。でも自分には出来ない。

 ――皆みたいに生きてみたい。でも自分なんかに『そんな資格はない』。


 そう言い聞かせてきたのだ。だから『見下した』などという言葉は、全く正反対の言い分でしかない。

 でも『対等と見なかった』という言葉はまさに正鵠を射ていた。

 だから息を飲んで、歯を噛み締めて。

 そしてゆっくりとナナシへと視線を向けた。

『お前の屍を越えてでも』

 そんな今はまだ言葉にしただけに過ぎなかった覚悟を、現実のものとする決意を秘めて。


 そんなシャクナゲの葛藤が……口上のみの覚悟から本気へと変わるまでほんの刹那にも満たない時間であったが、相対するナナシにははっきりと分かった。

 ジャラジャラと腕から伸びはじめた鎖達は、唸りを上げるかのように波打ち、その鎌首をゆっくりとナナシに向ける。それは見た事のない異常ではあったが、その鎖が凶悪な力を秘めたものだという事をナナシの直感が告げていた。

 なによりシャクナゲの本気の感情がナナシの全身の肌を粟立たせた。


「お前は本当に凄いな。

 ……でも最初に言っておく。俺はお前が思っているよりもずっと強い」


 そしてシャクナゲは不器用に笑って、指からその『鎖』を伸ばす。

 銃の代わりに、より凶悪な力を持つ本来の得物を。


「上等だっ、来いよっ!俺ん中の不満もごちゃごちゃの理屈もめちゃくちゃな八つ当たりもっ!全部ぶっ飛ばしてみやがれっ!」


 それを見てもナナシは怯む事なく牙を剥くように獰猛な笑みを見せ、身を低くし、大顎を広げるように左右に広く両手を構えた


「シャクナゲだ。今はこの名前しか名乗れないけど、この名前ならお前が本当の敗北を喫しても……その結果死ぬ事になったとしても、誰にも恥ずかしい思いはさせないだけの名前だと自負してる」


 目には本気で誰かを殺める時にのみ見せる冷たい光と、心から羨望するかのような色が同等に交わり。


「七峰士郎だよ、バカヤロウ。大した名前じゃねぇけど、記憶の片隅にゃ刻んどけっ!」


 目の前で牙を剥くように吼える『七峰』と名乗った男を見やる。

 自分とは違っていて。やっぱりどこまでも違っていて。それでもその背中には色々と重いものを背負っている同僚を。


「世界は……純正型が持つ反則は使わない。でも勘違いするなよ、ナナシを舐めてるわけじゃない。単に使えないんだ。上には仲間がいるから使えないだけでしかない。

 お前だって仲間達を巻き込むような戦い方は絶対に避けるだろ?そういう事さ」


 そう言って僅かに唇を歪める。

 地を這うかのように低く構えられた姿勢は、まるでクラウチングスタートをきる短距離走者のように力と勢いを蓄えたもので、うねる蛇のごとき鎖達は彼を中心に据え四方へと広がっていく。


「――それにな、そんなものがなくても俺は変わらない。そんなものを使わなくても俺は黒鉄最強だ」


 見た事のない力と本気の構え。なにより自ら上げた『黒鉄最強』の名乗り。

 他称でしかないその名前を自ら名乗った所は初めて見た。ナナシが知るその称号は、あくまでも他人からのものでしかなかったのだ。

 だからこそ、目の前にいる『彼』こそが本当の『黒鉄最強』なんだと震えが走る。

 宵闇の名を越え、黒鉄の名前すらも越えて。

 今のシャクナゲこそが最強なのだと悟る。

 それでもナナシは笑ってみせた。


「はん、知ってんだよ、てめぇが……てめぇこそが黒鉄最強なんだって事ぐらいなっ!俺に負けたらその最強って称号、ここに置いていけよっ、クソヤロウっ!」


 猛る鎖は本来の『無限に近い数』を失ってはいても、圧倒的なスピードと破壊力を纏いながらで相対する男に迫り、不死とも称された回復能力を持つ男は、持ち前のタフネスさを武器に鎖にも負けないスピードで駆け、自らの身体ごと砕けよとばかりに拳を振るう。


 その勝負は始めから勝敗の決まったもので、ぶつかり合いは不必要なプロセスだったかもしれない。

 それでも二人は二人とも本気であり、二人が二人とも真っ正面から相手を打倒しようとしていた。

 不死身のナナシと黒鉄のシャクナゲとして持ち得る全てを賭けていた。


 そう二人にとっては決まりきった結末であったとしても、決して不必要なプロセスなどではなかったのだ。


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