番外・Nameless Ⅰ
――ひょっとしたらこの潮風と青い空も、本当ならば私でも気持ちがいいものとして感じたりするのだろうか。
抜けるような青い空と、内海特有の濁った潮風を全身で受けながら彼はふとそんな事を考えた。
そして小さく嘆息を漏らすと同時にそんな考えを放棄する。
かつて色々と感じられた過去の自分を惜しむ気持ちすらも浮かばないのだから、そんな疑問に答えなど出るはずもない事に思い至ったからだ。
そして小型の漁船……いっそ手漕ぎボートにエンジンとプロペラを着けただけといった方が早いものから伝わる波の揺れを、腰かけた面から感じながらそっと空を見上げる。
濃厚な海の香りが乗せられた風は、彼の長髪といってもいい髪を煽り、身体中をあぶるように抜けていったが、彼にはそこにも爽快さなどは微塵も感じられない。
粘つくような風は服を煽って面倒だったし、服が張り付く感触にも違和感しか感じない。青い空は視界に眩しいだけだ。
彼にとっての海の香りとはプランクトンの死骸が発する死臭でしかなく、流れゆく潮風はそれを撒き散らす運び屋に他ならない。微生物が絶え間なく死にゆく事によって発せられる独特の香りに、海という場所を連想する事は出来ても、それは臭いが記憶に結ばれて算出された検索結果に過ぎない。
それ以上の感慨など全く浮かばないのだ。
――昔の私だったなら何かを感じたのだろうか。
そうは思っても、昔を思い返す事すらもしない。
いや、彼にはそれも『出来ない』。
彼はそういった感情、感慨、常に移ろう思想なとの全てを捧げて力を得た人間だ。いまさら過去を懐かしむ感覚など残っていない。
浮かぶのはそれの残滓でしかなく、よりあわさっても完全に復元はされない欠けたピースの一片だ。
――痒いところに手が届かないむず痒さ。それに似た感覚と、自分の不完全さを自覚出来ない曖昧さには慣れたけれど、時折よぎる過去の感覚は面倒だな。今でも思考にノイズが走る。
彼の力は、アカツキという一人の人間に与えられたものでありながら、人間という種族の中では最高峰の異能力を持つ『純正種』にもひけを取らない力だった。
『あらゆる物質が持ちうる別の形への強制変換』と、『あらゆる物質がやがて辿る終局、存在そのものの停滞』を約束された力。
それらは間違いなく個人が持ち得ていい類の力ではないだろう。
変換は使いやすく、上手く使いこなせばより上位の力を持つ人間とも戦えるだけの応用性があり、停滞は個人あるいは一個の物体のみを対象としか出来ずとも『絶対の停滞』を約束する力だ。
確かに力の強弱、理が現実に及ぼす影響はどちらもしれたものだ。この二つは無から有を産み出せない。有を無に返すにも代償がいる。
純正種の能力と比べれば確実に並よりも下だろう。
しかし頭の回る人間ならば、それらを使いこなす人間などよりも、『それらを産み出した人間』の方を驚異と感じるに違いない。
何故ならそれは、『一人の人間が別種の理を使いこなす純正種を人工的に造り上げた』に等しいからだ。
人間の変種の力が果たして神と呼ばれる何かに与えられたものなのか、はたまた進化……あるいは退化によって得られた必然の産物なのか。そこに結論を出せた者はいまだ一人もいない。
かつての宗教家達は、神によって授けられた奇跡――あるいは悪魔によって授けられた悪意の産物だとのたまった。
そして科学の信奉者達は、人のやがて来たる進化が起こったのだという進化論者と、現在の科学力では解明出来ないなんらかの物質か力場により、既存の人の遺伝子が変質をきたしたのだと述べる遺伝子の変容を唱える者がいた。
しかし彼――ネームレスという名無しの集団の一番は、もう一つの説を唱える者がいた事を知っている。
他の誰もが想像もしなかった説があった事を知っている。
そしてその説を唱えた男は、自らの力でもってその説が可能性ゼロの空論や妄想の類ではない事を証明してみせたのだ。
――私のような凡人にはどの説が正しいのか、いまだ判断はつきかねますがね。あなたの考えが正しかったのなら……さて、どうしましょうか。約束のコーヒーを奢ろうにも、あなたはいませんし。
アオイが唯一敗北を認めた男は言った。
『俺の荒唐無稽な考えが正しかったなら、お前の奢りでコーヒーの飲み放題な?豆はケチんなよ』
そして続けてこう言ったのだ。
『で、俺が間違えてた時の代価は先払いだ。正否に関わらず返却の必要はねぇし、捨て去る事も出来ない。
お前にこれからやる力はな、俺に残せる最大の遺産になるだろう。俺はみんながこれから先の時代にすがるものとして、藁みたいなチンケなモンは残したくないんだ。頑丈でどんな荒波にもまれても沈まない、そんなものを残してやりたいんだよ』
そう言って、彼は四番目となる二振りを遺したのだ。
『変遷する運命の人』と『終局の歌姫』。
『ファム・ファタル』と『ディーヴァ』。
守る者と終わらせる者。
敗者であり、凡人であり、『生ける死体』でしかない死に損ないに、かの輝く者は勝利を盾にとり、有り余る才能をかざし、そして何より死を間近に見ながら約束で縛り付けた。
感情を奪い、変遷を奪い、名前を消して死に場所すら固定した。
今ではアオイという名前だけで呼ばれる彼にとって、勝者であり、強者であり、弱者でもあり、すでに死者でもある彼は、希望を残した聡明なる指導者でもなければ、その存在を誇れるだけの仲間でもない。
あの純正種は卑怯者であり、外道であり、人外でしかなかった。
約束と契約、記憶と過去で縛り付けて他人の一生を固定した卑怯者。
唯一無二の力を持ちながら、自らのエゴにのみ従った使い方しかしなかった外道。
そして人という種を超えた領域に他人を誘う……誘う事が許された人外。
誰も彼もがアカツキという名前を称えても、その業績を不動のものとして奉っても。
全てを無くして、自分すらも亡くして、名前や過去すらも失くした代わりに、『絶対なる客観視』を得たアオイからすれば、アカツキという人間は災厄の手先であり、地獄への道標でしかない。
彼が黒鉄を造り上げ、その上でも徹底的にエゴを振りかざしたから死んだ仲間達がどれだけいるか。
アカツキならばもっと上手く、死者やそれに殉ずる被害者がもっとずっと少ない値で、今よりもさらにいい状況へと持っていけたはずなのだ。
彼は『百識』と呼ばれた策謀家を打ち負かした知謀があり、ウィザードクラスのハッカーであり『情報を得る者』としては最上位の能力をも持って生まれた、灰色に従う女性も味方にいた。
何より『皇』を味方に引き入れた。
偽りの皇たる坂上など相手にならない。格が違うどころか断絶している。
それでもアカツキは多くの仲間に傷を負わせる道を選択した。仲間が死に、土地が荒れ、人が他者の血で濡れる道をだ。
皇の名前や始祖の名前に二つ名がつく事から考えれば、その男――関西の本当の皇につけられるべき名前は『大罪の皇』だろう。
関東の始祖が大罪を犯したのは間違いない。しかし、アカツキの選んだ道がそれに劣るとは思えないのだ。
絶対的な支配者とならず、完全な指導者にもならず、完璧な道標にもならない。
それら全てをこなせる力量がありながら、彼は全く違う道を選んだのだ。
――それでも……そんなアカツキのエゴイズムと歪みを知った上でも、あの人は感謝していると言っているんでしょうけれど。
アカツキに縛り付けられた最大の被害者にして犠牲者。
アオイの考えからすれば、彼にはアカツキを恨む権利が十分ある。死んだ黒鉄の仲間達などよりもずっとだ。
アオイからすれば死者は過去でしかない。刻まれた記録であり、すでに存在しない影に過ぎない。だからアカツキを恨み、罵り、貶める最大の権利は彼にこそあると思う。
生けるだけの死者である自分はそんな資格などとうに放棄していて、力を得た代償と納得せざるを得ないぐらいに壊れているけれど、彼はそうではないのだから。
感情があり、思考があり、過去がある。
皇の道を逃れた先で用意されていたのは、決して救いなんかじゃなかったはずだ。さらなる罪の螺旋で、血と死と絶望の連なりでしかない。
それでも彼は『感謝している』と言う。
アカツキを『友』と呼ぶのだ。
アカツキのせいで、彼は自らの幕を引く事も出来なくなった。
そうすればもはや苦しまなくて済んだはずなのに。
ずっと逃げ続ける選択も放棄させられた。
逃げ続けた先に息を潜めて隠れ潜んでいれば、ひょっとしたらその先でちょっとした幸せじみたものを掴む事もあったかもしれないというのに。
世界が、国が落ち着く頃には、彼の絶望も多少は癒えていたかもしれないのに。
それでも、今も自分の上にさらに絶望と苦悩を上乗せしながら……『あいつは本当に他人任せで自分勝手なヤツだよな』なんて事を言いながら、その場を放棄はしないのだ。
――なぜなのだろう
全てを無くして、全てを無くしたが故に、無くした事すら悲しめない彼が、唯一残念に思う事があるとすれば、その疑問に答えを見出だせそうにない事だ。
あらゆる可能性を考慮し、現状と量り合わせてみても、感謝より恨みの方が多くて重いと思われる。
アオイと呼ばれた彼がそう計算したのだから、その答えに間違いなどあるはずがない。それは自信ではなく確信だ。
でも彼は間違いなく感謝していると言う。
恨み言の末でも笑っているのだ。
――私には一生答えが見つからないのだろうな。
それは諦めたが故の答えではなく、変えられない真実だ。
彼はネームレス・ワンとして生きて、名前なき死体となる最後が約束されている。
彼自身が得るものなど何もなく、得たものに感慨もなく、やがて朝日が上がれば消える亡霊のように混迷の夜明けには消え去るだけだ。
そんな存在に答えなど見つかるはずがない。見つけられる道理がない。
生ける死者が得るべきは、本当の死者となる未来だけでしかないのだから。
「……せっかく一人でゆっくりと思案する時間が持てたというのに、やはりそんな時間は長く続かないな」
それでも――そんな彼でも、何もする事がなく一人で思案にくれて、物思いにふける時間ぐらいはあってもいい。
何より、それぐらいの休暇に見合う程度には働いているはずだ。
提督と呼ばれる少女率いる『瀬戸内水賊衆』と渡りをつけ、しっかりと不可侵の約束を取り付けただけでも、優秀な人材何人分の仕事量になるか分からない。
「それでも束の間の休暇を得る資格にもならないなんてね。彼じゃないけど、神様っていうのはやっぱりいないらしい」
――いても、働き者であれ亡霊でしかない名無しには加護を与えてはくれないかもしれないけど。
そう一人ごちて……後方から高速で迫る三隻の漁船を見やる。
『わたしに従う連中には廃都への攻撃は控えさせるよ。この本島――わたし達の本拠地周辺に住むヤツは従うと思う。あんたの『変換』の力も見ただろうしね。
でも、形ばかり従ってはいる連中がどう出るかまでは保証しないよ。いかな『漣』でも……そして純正型であっても、わたしみたいな小娘に従いたくないって内心で思ってる連中は少なくないからね』
そんな提督少女の言葉を思いだし、今迫る三隻に乗る連中がそんな人間だと判断してもいいものかと素早く思案を巡らせる。
とりあえずこの瀬戸内で提督の指示に従わずに海賊行為を働く連中や、不可侵を結んだ黒鉄の人間に害をなす連中は、瀬戸内水賊に敵対する者として排除してもいいとは言われていた。
しかし、もしこの連中が提督の側近連中であり、漣海月という『幼く見える少女』の判断を不安に思い、よかれと判断して勝手をした連中であれば瀬戸内水賊衆に禍根を残すかもしれない。
彼女はアオイから見れば優秀であり、長たる器量を持っている人間だと判断出来たが、まだ幼くも見える外見がその才能に全く付いてきていない事も事実だ。それは時間が解決する他ない問題ではあるが、それだけにどうしようもないものでもある。
提督の言う『本島』の連中は、アオイの力を間近で見てはいたが、それ以上に彼女の幼い外見もずっと見てきたはずである。ならばこそ、いざという時は勝手に動く可能性もないとは言えない。
黒鉄と手を結ぶとなれば周りの反発もあるだろうし、アオイの力を見たからこそ驚異を感じている面もあるだろう。それも間違いない。
――真偽はどうであれ、近寄らせなければいいだけの話か。勝手をした欲深な連中であれば提督が手を下すだろうし、側近連中なら叱りつけてくれるだろう。
まったく、深く色々と考え過ぎるのは私の困った性だな。
結局はそう判断して。
三隻の漁船がまだ何も出来ない位置にある内に、抜き放った『恋人』を海面へと突き立てる。
「……変換せよ、私のファム・ファタル」
――あの連中に近寄られたくないんだ。君の力ならどうにでもなるだろ。
内面の思いをいつも通りの言葉に変換して。
腕に絡み付く『歌姫』には好きにさせて、『恋人』に刻まれた理だけを発動させる。
途端、蒼白い冷気をあげた海面は、アオイの乗ったボートの後方を氷原へと姿を変えた。ガリガリと盛大な音をあげて推進源たるプロペラは氷を削り、あっという間に一隻の船は氷原へとその船体を乗り上げる。残りの二隻は白い霜に覆われてその場に縫い付けられていた。
「わざわざお見送り頂きありがとうございます。提督にはよろしくお伝えください。黒鉄のアオイが感謝をしていたと」
そしてその上でそう慇懃に頭を下げると、スピードを落としノロノロと進むボートの上で、海面から引き抜いた恋人を軽く振るってボートの後部に迫る巨大な流氷を斬り砕いた。
氷に包まれ動かなくなった二隻と、氷原に乗り上げ横転した一隻から視線を向けてくる相手に自らの力を示すかのように。
「ではごきげんよう。いずれ敵としてまみえる事があった際には、心苦しくはありますが立場上手加減など出来ませんので悪しからず」
その言葉を最後に抜き放たれていた『恋人』をくるくると勢いよく回し、その刀身を滴っていた海水と氷の欠片を振り落としてから鞘に納める。
後方で何やら叫んでいる声に視線すらも向けない。
――提督も苦労しているようだ。
そんな思いに、能面じみた顔に苦笑いじみた表情を被りながら。
――いつかはあの聡明な少女を、自分がこの手で殺す未来もあったりするのだろうか。
そんな考えにもなんの感情も浮かんでこない自分に、やはり何も感じたりしないまま。
アオイさんて難し……。
とりあえず書いてて『~に笑いそうになった』とか『悲しくなる』などの感情表現が使えない。
多分今までも使ってなかったと思うけど(多分ね)、それって難しいんですよね。
書き手泣かしなキャラナンバーワンです。
とりあえず次回はシャクナゲ、ナナシ。
……実はナナシとネームレスって意味と名前が被ってる事に、何故かいまさら気付いたり。