56話 魔獣エリア
女に(もちろん服を着たまま)ハーネスを取り付けると、ワイヤーロープに噛ませた滑車と繋ぎ、そのまま送り出した。
濁流の――ドォドォドォォォ――と唸る重低音と――ギュルギュル――という滑車とワイヤーロープが擦れ合う金属音。そして宙ぶらりんになって滑走する女の――ギャーー――という悲鳴が共鳴し合って、何とも言いようのないヘヴィーでメタリックな先進的音楽に聴こえた。
俺は、女が無事対岸に着地したのを確認すると、『魔法の袋』の中から、海から採集したスポンジと、劣化したグリスを除去する為の洗浄材を取り出した。洗浄剤は、おそらくその臭いからアルコールだと思う。父が作ったものであり、細かいところは判らない。
鉄製であるワイヤーロープは錆びないよう、ある程度のメンテナンスが必要なのである。渡るついでに、それをやってしまおうということだ。一射二兎である。
まずは厚手の手袋をつけて、スポンジにたっぷりの洗浄剤を染み込ませると、ワイヤーロープにぶら下がった。そして古いグリスをスポンジで拭き取るように手を滑らせて渡っていく。一度では少し心許ないので同様に往復する。
次にグリスを取り出す。
グリスは、マッシュブル(森の浅い位置にある湿地帯に生息する水牛の魔物)から摂った獣油に石灰を混ぜて作られたものだ。そして、それをワイヤーロープに擦り込むように塗布していくのだ。
「あなた様は、ハーネスも滑車も使わないのですね! しかも何度も……」
対岸に到着すると、女は憮然としていた。怒る要素がどこにあるのか判らない。
「もうここは魔獣エリアだ。油断するなよ」
川から離れると辺りはすぐに森に変わった。丘陵帯から山地帯へ入り、樹木の種類が変わったからか、これまでのような鬱蒼とした緑の森ではなかった。殆どの木からは葉が落ち、残っていても枯葉のようなものばかりだ。
視界が開けているというのは獲物を見つけ易いということだが、逆に言えば、敵に見付かり易いということでもある。狩りをしない今回の場合は、極めて不都合だということだ。
ここから先はマチェットというわけにもいかず、『魔法の袋』の中からカタァーナモドキを取り出した。刃渡り1ブキン(70cm)に、持ち手が半ブキン程の細身の片刃剣だ。
父がいざと言う時に愛用していたアールヴフェイムの爺様から貰った神やら精霊やらの加護がこってりと付いたナントカというキラキラした剣も『魔法の袋』の中に入っていたが、俺は、父が――故郷の武器だ――と試作したこちらの方が好みだった。――再現できなかった――と肩を落としていた失敗作のようではあるが。
流石と言うべきか、早速、数匹の魔物が、独特の好戦的姿勢で駆け寄って来た。
「ゴ、ゴブリン!」
女が槍を構える。
「違う。グレムリンだ。5匹いる!」
グレムリンは、姿容こそゴブリンに似ているが、全く別の魔物だ。
「どこが違うのでしょうか?」
「腰布がないだろ」
とは答えたが、他にもいろいろ違う。まずゴブリンと違って人型ではない。二足歩行だが、体形的には猿に近い。また表皮はウロコ状になっていて硬く、飛べはしないが背中に小さな翼があった。それは走行や跳躍に一役買っているようで、そのスピードはゴブリンの比ではない。さらに面倒なのが小賢しいことだ。
案の定、俺を引き付ける役と女を襲う本隊に別れた。奴らは人間のように作戦行動をとるのだ。
俺は、引き付け役を横目で確認して、女の足元に潜り込んで来たグレムリンの頭を抜刀と同時に切り落とした。次に跳躍して上から女を狙っていた別のグレムリンの眉間を返すカタァーナで突き刺す。
引き付け役だったグレムリンが背後から俺を襲ってきたが、俺が動くまでもなく、女の短槍がグレムリンの心臓を貫いていた。
あっと言う間に3匹の仲間が殺され、残ったグレムリンは一瞬たじろいだが、即座に撤退を決めて、森の奥へ消えていった。
ここがグレムリンの恐ろしいところだ。敵わないと思ったら、引き際をちゃんと見極めるのだ。ただしグレムリンはしつこい。またそのうち隙をついて襲ってくるだろう。
「追わないのですか?」
「追ってどうする? それより先を急ごう」
俺は北へ向かって足を踏み出した。
「んっ、あれは?」
「あー、トレントだな」
目の前に二体のトレントが樹木に擬装して佇んでいた。いつものすまし顔であった。
「トレントは一見して樹木にしか見えないと聞き及んでいましたが、まったく、全然、これっぽっちも樹木には見えませんね」
確かに、樹木には見えない。どちらかと言えば関節がたくさんあるヒョロ長い大きな虫といったところだ。
コイツらは、父が『作業用ヘルメット』を作る際に、樹液を絞られ、リリースされた個体であった。もう何年も経っていたが、未だ回復していないことに後ろめたさを覚える。
「まあ、そう言ってやるな。あれで化けてるつもりなんだ」
そして、そのまま二体のトレントへと歩みを進める。
「えっ? 大丈夫なのですか? 襲って来ないのですか?」
「化けているのがバレたと思ったら、体を真っ赤にして襲ってくる。だから素知らぬ振りだ。――まったく気がついていませんよ――って顔で通ってあげような」
トレントは、擬態が成功している限り、まったく動かない。発覚されると同時に体を赤くして襲ってくるのだ。当初、俺は怒っているのだと思っていたが、父が言うには、バレたことが恥ずかしくて身悶えしているだけだという。
「トレントには優しいのですね」
優しさというよりも罪悪感だ。生きたままの方が質の良いセルロースとやらが採れるとはいえ、やはり残酷だ。あの断末魔は耳に残る。
「害がないからな。だが普通のトレントと違って、イービルトレントは否応なく襲ってくるから間違えるなよ」
そしてそのままトレントの間をすり抜けると、再びグレムリンの気配が濃くなった。すぐに襲ってくるつもりはないらしく、こちらの様子を窺っている。
「先程のグレムリンですね」
女も気がついたようだ。




