第963話 わたしらしく
――あなたは、あなたらしく、生きなさい。
母が言った。
「わたしらしさ、って、どういうもの?」
そう尋ねると、母は首を横に振る。
――教えられたあなたらしさは、本当のあなたらしさじゃないの。
「お母さんらしさになるってこと?」
――そうね。お母さんが答えちゃったら。
冷たい、と思った。そう思うことが、わたしらしさ、なのかもしれなかった。
父にも同じ質問をすると、
――やりたいことを、やればいいんじゃないか。
「別に、なにもやりたくないよ」
面倒なのは嫌いだ。ずっと寝ていられれば、それが一番いい。
――起きて、なにかするのが人生だ。
寝ているあいだの時間を人生って言う人はないだろう?
そうかもしれない。
そうじゃない気もしたけれど、うまく言葉にはできなかった。
次は友達に聞いてみる。
――あんた、本を読むのが好きなんじゃないの?
休み時間に、ひとりぼっちで本読んでるじゃん。
それを見ると、あんたらしいな、って思うよ。
読書はただのひまつぶし。別に好きなわけじゃない。ぼーっとしているのに、息苦しさを覚えるのだ。寝るのは好きだけど、ぼーっとするのは嫌い。このふたつの違いは、よくわからない。
夏は暑いと思う。冬は寒いと思う。雲は好きだけど、曇りは嫌い。雪を見るのは好きだけど、雪道を歩くのは嫌い。行列に並ぶのは好きだけど、足が疲れる。灰色が好き。黒と白は嫌い。カラスは好きだけど、鳴き声は嫌い。お風呂に入るのは好きだけど、お風呂上がりは嫌い。歴史と体育が好き。国語と数学が嫌い。けれど、このなかだと数学の成績が一番いい。ピアスをつけたいけど、耳に穴を開けるのが怖い。シュウマイに乗ったグリンピースが好き。ショートケーキに乗ったイチゴが嫌い。タバコの匂いがする場所は好きだけど、タバコの匂いは嫌い。辛いのは嫌いだけど、カレーは辛いのを食べる。二人は好きだけど、三人は嫌い。四人以上は、どうでもいい。母のことは好きで嫌い。父のことは嫌いで好き。友達は時々好きで時々嫌い。
家族や友達だからといって、わたしを知ってるわけじゃない。
なんの先入観もなくわたしを見てくれる誰かこそが、本当のわたしらしさを教えてくれるんじゃないかと思った。
知らない道を選んで歩く。
知らない服にまみれた交差点。
飲食店から溢れる香りに埋もれるように、ぽつんと交番が置いてある。
なかを覗くと、お巡りさんが机につっぷして、難しい顔で書類とにらめっこしていた。
戸をくぐる。顔が上がる。わたしを見る目は不思議そう。
「あのう」
「はい。どうしたのかな」
「わたしらしさ、って、なんだと思いますか?」
尋ねると、お巡りさんはひどく困った顔をした。
それから、わたしの名前だとか、保護者への連絡先だとかを聞いてくる。
質問攻めに対して、わたしは黙秘を貫く。答えてしまったら、ここにきた意味がなくなってしまう。わたしの名前すら知らない人に、わたしらしさ、を語ってほしかったのだから。
お巡りさんは、わたしに椅子をすすめると、宙に視線を漂わせた。
「まあ、君ぐらいの年頃は、誰しもそういうことに悩むものだからねえ」
下唇を突き出して、頬に肉を寄せると、いい加減とも感じられる調子で言って、
「きっと、生きているうちに、自然とわかっていくものさ」
「でも、それって、わたしらしく生きていることになるんですか」
「あとで人生を振り返ったときに”ああ、自分らしい人生だった”って気づくんじゃないかな」
「違ったらどうなるんです? ”自分らしくない人生だった”って思うかも」
ともすれば噛みつきかねないわたしの態度に、お巡りさんは溜息を呑み込むみたいなしぐさをした。立ち上がり、隅に置かれた電気ポットでコーヒーを入れようとしたが、古びたコップとわたしと見比べて、
「コーヒー飲む?」
わたしは、すこし悩んで、ちいさく頷いた。すると、お巡りさんは交番の外に出て、表の自動販売機で缶コーヒーを二本買ってきた。
机の上に小振りな缶が並べて置かれる。お巡りさんは腰を下ろしてブラックコーヒーを手に取る。残ったのは甘いミルクコーヒー。わたしは甘い飲み物が好きじゃない。ブラックがよかった。けれど、そんなことは口にせず、お礼を言って、缶のふたを開ける。
ゆっくりと缶を傾けるわたしを眺めながら、お巡りさんはしみじみと、
「あのね。なんだか思い詰めてるみたいだけれど、難しく考えすぎなんじゃないかな。君はまだ若いし、人生まだまだ先は長い。自分らしいとか、らしくないとか、本当はないんだよ。自分らしくない人生を送れる自分っていうは、最初っから存在しないんだ」
「運命とか、そういう話ですか」と、わたし。
お巡りさんは一気にコーヒーを飲み干して、音を立てないように缶を置いた。
「逆にさ。おれの人生、どう思う? おれらしい人生ってなんだろう?」
わたしは戸惑う。けれど、せいいっぱいに考えてみる。いま、わたしの話を聞いてくれていることこそが、お巡りさんらしいと言えるのかも。なら、お巡りさんに話を聞いてもらっていることこそが、わたしらしいのだろうか。わたしらしさと、お巡りさんらしさは、イコールで結べるのかもしれない。海に浮かんだ小舟らしさは、海らしさや風らしさと無関係ではないだろうから。
制帽のつばに隠れた瞳を覗くと、見返してくる視線が頭の裏側を射抜いた。
外が眩しい。朝陽か夕陽か、そのいずれか。
彼は立ち上がり、帽子を脱ぐと、わたしの頭にそっとかぶせた。
わたしは、彼がいた席に座って、書類と向かい合う。
「学校にいってくる」
彼が言って、軽く上げた手を振った。
「家出なんかしないでね。家族が心配するよ」
わたしはそう声をかける。
「うん。コーヒーごちそうさま」
「さようなら」
「ばいばい」
交番にひとり残る。
仕事をしないと。仕事は好きだ。ペンが走る音も、黄昏の輝きも。




